婚約破棄された悪役令嬢を拾って人生勝ち組になろうとしたら、ドS過ぎて逆に飼われてる 作:こういうのがお好き?
午後の陽射しが、穏やかに庭を照らしている。
木々の間を抜ける風は涼しく、芝の上に腰を下ろした俺は、久々の静けさを楽しむように本を開いていた。
ルイーゼは街へ出かけ、リゼも屋敷の奥で帳簿に向かっている。
今日も、誰にも叱られず、命じられず、――鞭も飛んでこない。
最近ルイーゼはあまり罵倒してくれないけれど、まあ仕方ない。こういう時間も大切にしよう。
「ごきげんよう、エリオット様」
声がした瞬間、俺の背筋は凍りついた。
「……フィオナ」
振り返ると、そこには銀髪の天使――いや、小悪魔が立っていた。
侯爵令嬢にして、ルイーゼの妹。無垢なる微笑と、上品な口調と、破滅的な価値観を併せ持つ少女。
彼女は花壇の前でスカートの裾を軽く持ち上げ、礼儀正しく一礼してから、優雅に歩み寄ってくる。
「今日はお姉さまがご不在と伺いまして。幸運なことに、エリオット様は……ご主人さまなしで過ごしていらっしゃいますのね?」
にこりと笑うフィオナ。
その言葉の意味に、一拍遅れて脳が追いついた。
「……いや、ちょっと待ってください。今の言い方、いろいろ問題が――」
「まあまあ。ご安心なさいませ。ひとつ、ご相談に乗っていただきたいことがあるのですが」
聞いてない。聞きたくない。
「実はわたくし、本格的に犬を飼ってみたくて」
「………………はい?」
「でも、いきなり本物を迎えるのは不安でして。ですので、まずは練習用の犬を」
「いや、それもう俺って言ってるよね!?」
フィオナはくすくすと笑いながら、懐から一本の赤いリボンを取り出した。
装飾のない、細いサテンのリボン。
――これが何を意味するか、馬鹿でも分かる。
「お姉さまの犬ですもの。とてもよく調教されていらっしゃると伺っております。きっと、わたくしのような初心者にも扱いやすいはずですわ」
「初心者ってなに!? 俺、家電か何かか!?」
「では……少しだけ、お貸しいただいてもよろしいですか?」
にこやかに聞かれても困る。
なにが“貸す”だ。俺はモノか。いや、もはや“モノ”以下の何かか?
……でも、ああ言われてしまっては――
俺は、いつものように屈した。本能の赴くままに。
「ありがとうございます。それでは……首輪、つけさせていただきますわね」
フィオナは細い指で、俺の首にそっとリボンを巻きつける。
蝶結び。完璧なバランス。装着者の羞恥心は、最大限。
「まあ。とっても可愛らしいですわ――やっぱり、わたくしの目に狂いはございませんでした」
「何の審美眼だよ……」
俺は、静かに理解した。
今日は地獄だ。いや、天国か?
またしても、地獄の扉が開いたのだ――銀髪の鍵によって。
「では、はじめましょうか」
フィオナは芝生の上にすっと腰を下ろし、膝に手を揃えてこちらを見上げた。身のこなしは優雅で、声色は柔らかい。それなのに、言葉の端々からは確かな“支配”の気配がにじんでいた。
俺は今、赤いリボンを首に巻かれている。もちろんルイーゼの躾に比べれば軽いものだが、だからといって無害かと問われれば、答えはノーだ。この子、完全にやる気だ。
「まずは、“伏せ”をお願いいたしますわ」
「はい、伏せます」
完璧なフォームだった。芝がちょっと湿っていて冷たい。でも心はほんのり温かい。
末期すぎる自覚はある。
「お姉さまの犬は、本当に素直なのですのね。とてもよろしいですわ」
素直と褒められて悪い気はしない。犬としてだけど。それがなんだというんだ。人としてではなく、犬としての評価に喜びを感じる――それが俺の真実だ。
「次に、“お手”でございます」
差し出された小さな手のひらに、自分の手を乗せる。フィオナの指がそっと俺の手を包んでくる。あったかくて、優しくて、正直、ちょっとドキッとした。
「まぁ……体温まで、可愛いですのね」
「体温が可愛いって何だよ……!? 新ジャンルすぎるだろ……!」
でも嬉しい。完全にしっぽ振ってる。
ないけど。
「“ワン”と、お鳴きくださいませ」
「……ワン」
「もっと感情を込めて。従順さとか、忠誠心とか、愛情とか」
「ワンッ!」
「とってもよくできましたわ。今の“ワン”、とても耳心地がよろしくてよ」
耳心地って何だよ。いや、褒め言葉ならなんでも嬉しい俺も何なんだよ。でも可愛いって言われた。素直って言われた。今ので“ワン”って鳴ける犬として、たぶん俺は満点だ。
「では、“おすわり”もお願いいたしますわ」
「はい、おすわり」
「“ごろん”もできますか?」
「できますとも」
「“しっぽを振って”も?」
「……想像でよければ」
そして、俺は腰を左右にふりふりした。
「……まぁ。実に愛らしい。わたくし、犬のお尻の動きにここまで美を見出したのは初めてでございますわ」
「やめて。言い回しが芸術評論みたいになってる」
「それでは――最後に“ちんちん”を、お願いいたしますわ」
「ぶっ!!?」
言った。言いやがった。
無邪気に、まるで深い意味など知らぬまま、堂々と。
「ち、ちんちんって……フィオナ、意味わかってて……?」
「もちろんですわ。犬が可愛らしく両前足をあげて、ちょこんとおすわりする仕草ですわよね?」
……くそっ、この純粋さがいちばん効く。これがいちばんキツイ。
「……ちんちんします」
俺は、やった。両手を前にあげ、背筋を伸ばし、膝立ちで“ちんちん”の姿勢をとった。
「……」
沈黙。そして――
「まぁ、完璧な“ちんちん”ですわ。立派で、お元気ですこと!」
「ちょっとやめて!? それを真顔で言わないで!? 俺の羞恥心が臨界突破してるの分かる!?」
「そのまま三秒間、姿勢を維持なさって――いち、に、さん。はい、ご褒美ですわ」
そう言って、フィオナは俺の頭を撫でた。愛しげに、優しく、慈しむように。
あぁぁ……撫でられてるぅ……ちんちんのご褒美で撫でられてるぅ……。
もうだめだ。この快楽、逆らえない。全身の羞恥と悦びが同時に溢れて、脳がぷるぷるしてる。
「ご満足いただけましたか?」
「……なんかもう、俺……いろんな意味で戻れない気がする」
「よかったですわ。わたくし、初めての犬しつけでしたの。練習相手がエリオット様で、本当によろしゅうございました」
嬉しそうに微笑むフィオナの顔は、やっぱり天使に見えた。地獄の使いの天使だ
*
「……さて」
撫で終えた手を静かに引き、フィオナは俺をじっと見つめた。
芝の上に正座したまま、俺は首輪――いや、リボンを巻いたままの姿勢で見上げる。
何も命じられていないのに、すでに服従の構図が完成しているのが悔しい。いや、悔しくないかもしれない。むしろこの状況がちょっと誇らしいって思ってる時点で、俺の犬化は深刻だ。
「エリオット様」
フィオナの声は、いつになく澄んでいた。無邪気で、上品で――そして、どこか危うい。
「……わたくし、あなたと婚約をしたいと思っておりますの」
「は?」
「ですから、婚約ですわ。契約。専属の犬として、お迎えしたく存じます」
「ちょ、ちょっと待って!? 話の飛躍が凄すぎるというか、婚約って、え、俺は犬じゃなくて人間で――」
「ですが、エリオット様は、犬でいらっしゃいます」
「何この堂々たる断言!?」
フィオナはふわりと微笑み、手を頬に添えてうっとりとした顔を見せた。
「殿方というのは、皆さま犬でございましょう?」
色々とやばい発言……!
「忠誠を尽くし、命令を喜び、叱られても懐き続ける。吠えてみせるくせに、おやつ一つで機嫌が直る――まさに、犬ですわ」
「分析が怖い! それ、的確すぎて否定できないのが悔しい!」
「ですので、わたくしは考えましたの。殿方は皆犬なのであれば――より美しい犬を飼うべきであると」
さらりと、さらりと恐ろしいことを言っている。
でも、その目は真剣だった。無邪気で、純粋で、ひたすらに――狂気じみている。
「エリオット様は、お姉さまの犬としてとても優秀でございました。仕草も、反応も、吠え方も。何より……美しいですわ」
「“美しい犬”って、ジャンルとして成り立っていいのか……!?」
「わたくし、初めて欲しいと思いましたの。お姉さまが育てた犬を、この手で抱いてみたいと」
「……」
この妹君、やべぇわ……俺に言われたくないかもしれないけど。
「もちろん、お姉さまの犬を勝手に奪うことはいたしません。ですが、婚約というかたちで、正式に――わたくしの犬としてお迎えできれば」
「いや、婚約って! そんな“飼い主申請”みたいな!?」
「殿方における婚約とは、“所有と忠誠の契約”ですわよ?」
「そうだけど違う!!」
いや、違わないか。
でも今の一連の言葉、どこかで聞き覚えがある気がする。いや、あった。
……ルイーゼだ。
あの女王様も似たようなことを言って、俺に首輪をはめたんだった。
そうか。姉妹って、やっぱり似るんだな。
「エリオット様。お姉さまの犬であるあなたを、正当な手続きを経て――わたくしのものにしたいのです」
……俺は、何を試されてるんだろう。
自分の人間性? 理性? 忠誠心? もしくは……誰の犬かという“本能の選択”?
でも、ひとつ言えることがある。
「俺、犬として生きてきたけど……婚約の定義が“飼い主変更手続き”だったとは、今日初めて知ったよ……」
「ふふっ。それなら、わたくしとの新しいご主人さまごっこ――ご検討くださいませね?」
にこりと微笑むフィオナ。その手には、もう一本のリボンが握られていた。
それは、最初よりも太く、首輪というより――運命の紐に見えた。