婚約破棄された悪役令嬢を拾って人生勝ち組になろうとしたら、ドS過ぎて逆に飼われてる 作:こういうのがお好き?
昨日、俺は膝枕されて、耳を甘噛みされて、囁かれて、罵倒されて――。
それなのに今朝、目が覚めて最初に思ったのは、「あれは夢だったのか……?」という疑念だった。
……でも、違う。
まだ耳が妙に敏感だし、なぜか夢の中で鳴いた「ワン」の感触が、喉に残っている。
「エリオット様、書類の確認がまだです」
朝の書斎。リゼが冷たく告げてくる。
「……ああ、うん、今やるよ」
「まだ夢心地ですか?」
「ちょっと昨日の余韻が」
「いいですね。犬って記憶力悪いくせに、都合のいい記憶だけ残すって言いますし」
「朝からうるさいですわね」
ルイーゼが現れたのは、まさにそのときだった。
今日はいつもより……どこか柔らかい気配をまとっていた。
「……昨日は、お疲れさまでした。少しばかり、言い過ぎましたわ」
「……えっ」
「ですから本日、わたくしはあなたに対して叱責を控えることにいたします」
「えっ!?」
まさかの“無罵倒宣言”に、リゼが先に反応した。
「……気圧の影響ですか?」
「失礼ですわね」
「明日が来る前に、証拠として録音しておきましょうか」
「あなた、今すぐ黙りなさい」
罵倒こそしなかったが、ルイーゼの睨みは、いつも通りの鋭さ。
それでも、本当に――今日のルイーゼは、優しい。
「朝食、まだでしたでしょう?」
「えっ、いや、食べたには食べたけど……」
「では、こちらを」
小さな皿に乗せられた焼き菓子――クッキー。
「……俺に?」
「はい。あなたの、日々の働きに対する、ご褒美ですわ」
「え、えっと、ありがとうございます……」
「そのまま、口を開けてくださいな」
彼女の指先が、クッキーをつまんで俺の唇の前に。
「さあ、噛んでくださいませ」
……まさかの手渡しクッキー。
サクッとした食感、やさしい甘さ――それより何より、距離が近すぎて、動悸が収まらない。
「美味しいですか?」
「……すごく、うまい……です……」
「よろしい……今度は指まで舐めようとしないでくださいませね?」
「してないしてない!」
「これはもう、餌付けですね」
リゼがぼそっと。
「クッキー一枚で落ちるとは……チョロ犬にも程がありますよ」
「おい、なんてこと言うんだよ?」
「感想を述べただけですけど? それとも、これが“おやつの時間”なんですか?」
「やめて! 何かが崩れるから!」
「いいえ、リゼ。犬を育てるのは、鞭ばかりでは務まりませんの。飴も必要――まさにこれこそ、しつけの王道ですわ」
「さすがです、ルイーゼ様。将来的に、しつけ本でも出されるご予定で?」
「……リゼ、本当に黙らせましょうか?」
空気が凍てつく前に、俺が割って入る。
「でも、本当に……嬉しい。ルイーゼが、こうして褒めてくれるの」
「当然ですわ。あなたの働き、わたくしが見ていないとでも?」
「え?」
ルイーゼの視線が少し柔らかくなった。
「昨日も申し伝えましたが、市場の再配置――報告前に自ら問題点を見直していたこと……成長、という言葉が相応しいと思いましたわ」
「……俺、そんなに……?」
「孤児院の教育改革も、あの子たちの名前を一人ひとり覚えようとしていた。数字ではなく“人”を見ていたのは、あなたです」
「それは……ルイーゼの方針があったからで」
「方針を出したのはわたくし。けれど、実行したのはあなたです。そこに、意味があります。農地の整理も、“労働の無駄”を数字でなく、実感で見ていた。……そういう視点を持つあなたを、わたくし、ちゃんと認めておりますのよ」
涙が出そうだ。
でも、代わりに笑うことにした。
「……嬉しいな」
「ふふ、それなら何より」
ルイーゼが、ほんの少しだけ身を寄せた。
耳元に、吐息のように、声が降ってくる。
「――今は、あなたにだけ。特別なご褒美を差し上げますわ」
その言葉が、脳の奥にじんわりと届いた。
甘噛みはない。ただ、声だけが、心の芯を撫でてくる。
その優しさに――俺はもう、逆らえない。
「……明日は、もう普通に戻るのか?」
「ええ。今日が特別だったと、ちゃんと分からせなければなりませんもの」
「……せめて、今日のうちに、たくさん褒めてくれよ……」
「ふふ、しっぽを振っても無駄ですわよ?」
「この光景……本当に領主と補佐の会話なんですかね?」
リゼがぽつりと。
「妬いてるのか?」
「ええ、とても……この屋敷、もはや一軒まるごと調教場ですね」
「リゼ」
「はい?」
「あなたにも、あとでクッキーを差し上げますわ」
「ご遠慮いたします」
「拒否は認めません」
「……ワン」
――今日だけは、犬が二匹だった。