婚約破棄された悪役令嬢を拾って人生勝ち組になろうとしたら、ドS過ぎて逆に飼われてる 作:こういうのがお好き?
ミレーヌの屋敷を訪れるのは、いつぶりだろうか。
応接室の扉を開けた瞬間、紅茶の香りが鼻をくすぐった。深い青のカーテンと、繊細な刺繍が施された椅子。昔から変わらぬ静けさと、品の良さに包まれて、俺は少しだけ背筋を正す。
「……領内の教育拡充を中心とした施策、ならびに市場の整備とギルド誘致。実に意欲的な構想ですな」
ミレーヌの父――フィルベルト・ヴァルガス子爵が、顎に指を添えながら言った。
「すべての子どもに読み書きと計算の機会を。将来の労働者育成だけでなく、社会全体の生産性向上に寄与する投資だと考えております」
俺は、息を詰めずにそう答えた。
「ふむ……事業としての回収可能性は?」
「初期段階では赤字も想定内です。ですが、人材の定着率と商業収支への貢献度を数年単位でモデル化すれば、むしろ安定資産になります」
沈黙。カップを持ち上げる音が響いたあと、フィルベルト子爵はようやく微笑を浮かべた。
「なるほど。見込みはある……だが、判断材料は利益だけではない」
「はい」
「エリオット、お前が“誰のもの”か。それが、我がヴァルガス家にとって非常に重要なのです」
その言葉に、胸の奥がひくりと跳ねた。
ルイーゼとの婚約が形式上であることは、もはや秘密ではない――そう言われた気がした。
「……ご懸念には誠意をもってお応えいたします」
俺は、頭を下げた。
「よろしい。詳しい検討は後日。まずは、娘と少し話していかれてはどうかな」
そう言い残すと子爵は部屋を後にした。
数分後、ミレーヌが姿を現し、静かに笑う。
「形式って、いつまで続けられるのでしょう。紙の上で交わされた約束より、現実に隣にいる人のほうが、大事になったりしない?」
ミレーヌは俺の隣に腰かけて、俺の飲みかけの紅茶を一口含むと、そっとカップを置いた。
「……わたしと、どうなさるおつもり?」
穏やかで、でも逃げられない問いとともに、ミレーヌは俺にぐっと距離を詰める。服越しにその柔らかい感触が伝わってくる。
「――なにをする気だ?」
「ううん。ただ、ちょっと確かめたいだけ」
そう言って、ミレーヌはいじらしい笑みを向けてくる。
「十、数えるね。そのあいだに、もし我慢できたら……今日は、ここで引き下がってあげる」
「……引き下がる?」
「そう。なにもなかったことにして、あなたは帰れる。ルイーゼ様のところへ」
彼女は、俺の膝にそっと手を置いた。
そして、まっすぐに俺の目を見る。
「でも、もし我慢できなかったら……ふふ。どうなると思う?」
「……」
「では、十、数えるね」
カウントダウン責め。これはすでに何度か、ルイーゼにやられている。数を数えられるだけなのに、それはまるで催眠にかかったように、心拍数が早まる不思議な効力を持っている。
ミレーヌは俺の目を見つめると同時に、指先が、そっと俺の膝からゆっくりと内腿へと滑ってくる。
「数えてる間、動かなくていいよ。わたしがするから……あなたは感じてて。いーち……」
スラックス越しの内腿を、柔らかな指がなぞる。
触れているというより、火照らされているような感覚。
「にー……」
「ここ、弱いんだね。最初に触れたときから、もう、ばれてるよ」
「さーん……」
指が膝の内側から、太ももの付け根へ向かってゆっくりと昇っていく。
「よーん……」
「ねえ、エリオット。どこに触れてほしいの? 自分で言ってみて……ちゃんと、言葉にしてくれないと」
「ごー……」
喉が焼ける。
答えようとするたび、理性が声を殺す。
「ろーく……」
「震えてるの、脚だけじゃないんでしょ? ……ここも、ここも」
彼女の指は、左右の内腿を交互に撫でる。
気づけば、目も逸らせない。意識は完全に縫い留められていた。
「しち……」
「……ねえ。わたしが、ここをもっと撫でたら……あなた、どうなっちゃうのかな」
「はーち……」
逃げたら、負けだ。でも、耐えたって、勝てる気がしない。
「きゅーう……」
「ねぇ、“触れてください”ってお願いしてみて? そしたら、今すぐ終わらせてあげる」
「じゅう」
ミレーヌは俺を見下ろしながら、手をぴたりと止めた。
視線は、まだ終わらないまま、そこにある。
「……終わり。ふふ、耐えたね。すごいすごい」
彼女は俺の手をそっと撫でて、甘く微笑んだ。
俺は……ただ、動けなかった。
触れられたわけじゃない。
何かをされたわけでもない。
それなのに、脳も、心も、すべてがミレーヌの手の中にあった。
「エリオットって、やっぱり……かわいい」
ミレーヌは静かに立ち上がる。
スカートの裾がひらりと揺れ、彼女の体温だけが椅子に残った気がした。
紅茶をひと口。
その間の沈黙すら、彼女の間合いだった。
「契約は紙でできてるけど……絆って、そうじゃないよね」
振り返ったミレーヌの瞳には、もう微笑みはない。
ただ、真っ直ぐな光だけが宿っている。
「だからね、たとえば――」
その言葉の先は、決して語られなかった。
けれど、間違いなく聞こえた。
(今度こそ、私のものになってくれる?)
「……また、来てね」
ドアの前でそう言ったミレーヌは、もう“おっとりした幼馴染”ではない。
俺はまだ座ったまま、震える膝を押さえながら、ただ彼女の背を見送った。
そして確信した。
もう、“形式上の婚約者”という関係は――通用しないということを。