婚約破棄された悪役令嬢を拾って人生勝ち組になろうとしたら、ドS過ぎて逆に飼われてる 作:こういうのがお好き?
ルイーゼが去って、一週間が経った。
書類の山も、視察の予定も、生活の細々した喧騒も――すべてが変わらずにあるはずなのに、なぜかこの屋敷は、少しだけ、空気が違っていた。
夜の冷たい風に当たりたくて、中庭に面したバルコニーに出る。
ここは、ルイーゼがよく紅茶を飲んでいた場所だ。
思い出すたび、喉が渇くような、息が詰まるような、奇妙な静けさが胸の奥に広がっていく。
手には、小さな銀の鍵。
ルイーゼが、胸元のペンダントから取り出して返してくれたもの――
俺の、貞操帯の鍵。
たかが冗談の道具。
けれど今は、その軽さが、どうしようもなく重かった。
「……それ、何の鍵?」
突然、背後から声がした。
振り返ると、月明かりに浮かぶミレーヌの姿。
淡いグレイのケープを肩にかけ、ドレスの裾を風に揺らしながら、彼女は静かに歩いてくる。
「そんなに真剣な顔で握りしめてるから、気になっちゃった」
「……ミレーヌ?」
「リゼさんにお願いして、この屋敷に入れてもらったの。あなたに会いたかったから」
そう言って、彼女は俺の隣に立ち、視線を鍵に落とした。
「それ、ルイーゼ様の?」
「……ああ」
「でも……何の鍵なのか、教えてくれなかったのね。リゼさんも」
「教える理由がないって、あいつなら言いそうだな……」
苦笑まじりに呟いた俺に、ミレーヌは優しく微笑んだ。
「ねえ、エリオット。それ、何の鍵なの?」
まっすぐな目。拒絶も、軽蔑も、笑いもない。
ただ、知りたいという気持ちと――俺を受け止めようとする強さだけがある。
だからこそ、答えられなかった。
そんなものを、自分の口で説明できるはずがなくて。
「……言えないなら、いいのよ。無理にとは言わない」
ミレーヌはそっと微笑み、そして手を伸ばした。俺の手の上に、彼女の指先が触れる。
「でも、あなたがそれを大事にしてるのは分かる……まるで、誰かとの繋がりみたいに」
その指が、俺の手から腰へと滑って――ズボン越しに、やわらかく、そこへと触れた。
「っ……!」
反射的に声が漏れた。
「ごめんね、驚かせた? でも、触れたくなっちゃったの」
ミレーヌは、俺の膝の上にそっと座り、目を細めた。
「わたしね。エリオットの全部が欲しいの。心も、体も――癖になったその“忠誠”も。形式なんて、どうでもいい」
耳元で、甘くささやく。
「あなたが欲しい。それだけなの」
そして――
手のひらが、ぴたりとそこに当てられる。
押さえつけるわけでも、なぞるわけでもなく、ただ、“いる”ことを確認するように。
「ねぇ、エリオット」
囁く声が、熱を帯びる。
「ほら、“ワン”って言ってみて?」
「……!?」
「言えたら、撫でてあげる。抱きしめてあげる。えらいねって、褒めてあげる」
「ミ、ミレーヌ……っ」
「言えなかったら、今夜はこのまま帰るわ。ひとりでその鍵を抱いて、寂しくしてて?」
息が詰まる。
この人は、本当に――本気で、俺を堕としにきてる。
「……ワ、ワン……」
小さく、情けない声。
でも、それが限界だった。
「ふふ。えらい子」
彼女はにこっと笑い、そっと頭を撫でてくれた。それが、どれだけ欲しかったことか――
「ね。次に“ワン”って鳴いたときは……ちゃんと首輪、つけてあげる」
そう囁いて、彼女は立ち上がる。
風がケープを揺らす。
その姿が、あまりに眩しくて、言葉が出ない。
鍵は、まだ俺の手の中にある。
でも、それはもう――別の誰かのものになりかけていた。
*
気づけば、俺はミレーヌに手を引かれていた。
月の下、静まり返った屋敷の廊下を抜けて。
彼女の手は温かくて、でもどこか決意に満ちていた。
案内された先は、誰も使っていなかった客間の寝室だった。
扉が閉まる。
ロウソクの灯だけが、ゆらゆらと天井を照らす。
ミレーヌは何も言わず、俺の前に立った。
そして――
ふわりと、ケープを脱ぐ。
次いで、ゆっくりと、ドレスの留め具に手をかける。
緩んだ布が、彼女の肩を滑り落ち、床に静かに音を立てて崩れる。
すべてを脱ぎ捨てた彼女の身体が、ロウソクの明かりに照らされて浮かび上がる。
誇りと覚悟をまとった、その裸身は――まるで一枚の肖像画のようだった。
「……脱がせていい?」
彼女はそう言って、俺の前に膝をつく。
ゆっくりとシャツのボタンに手をかけながら、目を離さずに。
抗うことなんてできない。
指先が肌を這うたびに、体温が一気に上がる。
胸元、腹部、腰骨――
丁寧に、愛おしむように触れてくるその手に、息が止まりそうになる。
彼女の裸の肌が、俺の胸元にそっと重なったとき、思わず、手が彼女の背に回りそうになった。
だが――その瞬間、ミレーヌが静かに言った。
「……やっぱり、まだいるのね」
「……?」
「ルイーゼ様。あなたの中に、まだいるんでしょ?」
俺は言葉を失った。
「ごめん……」
絞り出すように言った俺に、ミレーヌはゆっくりと頷いた。
「女ってね、案外――気持ちの切り替えが早いものなの。でも、男って……そうはいかないんでしょ? ずっと引きずって、どうしようもなくなる」
その声はあくまで穏やかで、責めるような響きはひとつもない。優しさと、理解と、ほんの少しの切なさだけが滲んでいた。
「だから言っとくね。タイミングって、一度逃したら……もう二度と戻ってこないのよ?」
そう言って、ミレーヌは身体を起こし、足元に落ちたドレスを拾い上げた。
背中を向けて、静かに袖を通しながら――最後に、振り返る。
「正妻じゃなくていい……愛人でもいいの」
その声には、はっきりとした熱があった。
「不倫なんて、貴族の嗜みでしょう? そんな形式より――わたしは、あなただけが欲しいの。ただ、それだけ。あなたが誰といても、何を選んでも……わたしは、あきらめない。だって、もう決めたの。あなたの人生に、わたしは必ず居座ってみせるって」
ロウソクの灯が、ふっと揺れた。
扉が静かに閉じられる。
去ったあとも、残された体温と香りが、この部屋を支配していた。