婚約破棄された悪役令嬢を拾って人生勝ち組になろうとしたら、ドS過ぎて逆に飼われてる 作:こういうのがお好き?
屋敷は静まり返っていた。主の不在が、壁や柱にまで染み込んだような、空虚な静けさだ。
食堂の窓辺に座っていた俺は、冷めた紅茶を手にしたまま、ただぼんやりと庭を眺めている。
ルイーゼが去ってから、何日が経っただろう。あの背中を見送った瞬間から、時間の感覚は曖昧になっていた。
「ご機嫌、いかがですか。ご主人様」
皮肉の効いた声が背後から飛んできた。
リゼが、黒の制服に身を包み、涼しげな顔でトレーを片手に立っている。
「リゼ……何か用か?」
「報告です。お嬢様のご婚約話、トントン拍子に進んでおります。まるで長年閉じていた窓が、ようやく開いたかのように」
「……そうか」
「ええ。“捨て犬”のことなど、すっかりお忘れになったようで」
返す言葉が見つからない俺に、リゼは一歩近づいた。
「ちなみに、ミレーヌ様の誘惑を断った件。忠犬としてはお見事でしたね」
「なんで知ってるんだよ」
「情けない声が聞こえませんでしたから」
「……」
「ただ、男としては最低ですね……意気地なし」
「みんな……俺に惚れてるのか?」
リゼは呆れたように目を細め、ため息と共に言い放つ。
「以前申し上げましたよね。“鈍感は死刑に値します”と……。あなたは、言葉の選び方が下手で、情に流されやすくて、決断力に欠けていて、誰かを守る勇気もなければ、傷つける覚悟もない。都合のいい優しさを振りかざして、誰からも嫌われたくないって笑ってる……それのどこが美徳なんですか?」
「……おい」
「ええ、まだありますよ。誰のことも選ばないくせに、誰にも拒まれたくない。“傷つけたくない”なんて耳障りのいい言葉を盾にして、結果的に全員を裏切ってることに、気づいてもいない。ほんと、最高に迷惑な男です。善人の皮を被った無自覚な毒。始末に負えません」
ここまで辛らつな言葉を躊躇なく口にしていたリゼはふと目を細めて、口調を少しだけ和らげる。
「それでも、だからこそ……わたしは、あなたに拾われたんです。その中途半端な優しさに、救われてしまった。今さら引き返せるわけないじゃないですか」
「……拾ったのは、俺じゃなくて別のやつだったかもしれない」
「いいえ、あなただから拾ってくれたのです。そして、拾われたのは、お嬢様も同じです。違うのは、わたしは“仕える”ことを選び、あの方は“支配する”ことを選んだ。そして、あなたは——どちらも受け入れてしまった」
リゼは少し笑ってから、鼻で息をついた。
「……罪作りですね、本当に。わたしに立場さえあれば、その“輪”に入りたかったですね。でも、わたしは“メイド”です。強者の群れに混じるなんて、わきまえていますから」
その目が、一瞬だけ揺れる。
「……エリオット様、選びなさい。迷っていい顔ばかり向けるのは、優しさじゃありません。それは、誰のことも見ていないのと同じです」
「……」
真剣な瞳を向けられる。
「それと……聞いた話ですけど、ロザリンド侯爵家が政争に敗れたのは最近のことです。議会の発言力は削られ、資金提供元も離れて、領地の管理にまで手が回らなくなっているらしいです。だから、あなたに一部の経営を任せたのも、“信頼”じゃなくて“余裕がなかった”からでしょうね。のんびり構えていられるほどの時間はないかと」
「……俺が信頼されたわけじゃないのか」
「実業家としての評価はあるようです。でも、娘を預ける相手としては――信頼されていたとは、思いません。だからこそ、関係を絶たず、近くに置いておきたかったんじゃないでしょうか。表向きは“仕事の依頼”、中身は“監視”ってところでしょう」
リゼは一息ついて、紅茶の香りだけを吸い込むようにして言う。
「お嬢様のお母上は、“冷たい”わけではありません。誰よりも、娘の幸せを願っておられます。ただ、王子との婚約破棄で家の立場が揺らぎ、“娘を外に出すしかない”と判断せざるを得なかった。それが、勘当です」
「それで、俺が拾った」
「はい。ただの偶然。でもお嬢様は、自分の意思であなたのもとに残った。そして今——家は、公爵家との再婚話を進めています。娘を“立て直しの駒”として差し出す動きです」
「それが、幸せなのか……?」
「お母上は、そう思っているのかもしれません。“良い家に嫁げば、娘も救われる。家の立場も戻る”と。政略でありながら、その人なりの優しさでもある。だからこそ、あなたが今ここで動かなければ、お嬢様の人生は、また“誰かに決められるもの”になります」
リゼはきっぱりと言葉を紡ぐ。
「最後に。フィオナ様があなたをお呼びです。内容は、おそらく——“婚約の申し入れ”。あなたに対して、です」
「……フィオナがか……」
「はい。お嬢様が去った今、“正妻の席”が空いていますから」
皮肉めいた笑みとともに、リゼは言い放った。
「さあ、どうなさいます? 忠犬……いえ、やはり意気地なしとお呼びしましょうか」
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
首輪も、鎖も、もういらない。だけど、俺の足は決まっている。
――向かうのは、あの屋敷だ。