婚約破棄された悪役令嬢を拾って人生勝ち組になろうとしたら、ドS過ぎて逆に飼われてる 作:こういうのがお好き?
ロザリンド侯爵家の応接間。
「――報告はルイーゼからも聞いております」
重たく静かな声が、帳面をめくる音に重なった。
テーブル越しに座るロザリンド侯爵夫人は、書類から一切目を離さずに言葉を投げてくる。
「数字の上では、想定以上の成果……でも、貴方。これを“自分の実力”と錯覚してはいませんでしょうね?」
背筋にひやりとしたものが走る。
その声音に、怒気も苛立ちもない。ただ、静かに、心を折る圧があった。
「……いいえ。錯覚などしておりません」
即答した。けれど喉の奥に、じわりと苦い熱が滲む。
前にこの人と会ったときは、まだルイーゼが隣にいてくれた。
彼女の存在が、ほんのわずかでも空気を和らげていたんだと、今さら実感する。
今日の侯爵夫人は、あの時とはまるで違う。
娘のいない場で、完全に“家の人間”として俺を見ている。
冷徹な眼差し。
一切の感情を削ぎ落とした声音。
それが、家を守る者の姿なのだろう。
「少し成果を上げた程度で、自分を過大評価する若者は多い。貴方が、そうでないことを切に願います」
「……身を引き締めて、努めます」
「言葉だけなら、誰にでも言えますわ」
刃のような一言。
それでも、俺はなんとか顔を保つ。
リゼに何百回と突き刺された言葉のナイフを思い出せば、まだ耐えられる。
夫人は、鋭利な言葉を矢継ぎ早に繰り出す。
「貴方の出自についても、すでに調べは終わっています。貧民街の出、運よく貴族に拾われ、多少の教育を受けた“なんちゃって紳士”……そんな貴方が、侯爵家の娘に、ふさわしいと思っているとはまさか、ね?」
「思っておりません」
「まあ、それなら良いのですけれど――犬は、犬らしく吠えずに座っているのが一番ですから」
ぐっと拳に力が入った。
言い返したい。でも、今それをすれば即座に切られる。
まだ、その時ではない――。
「いくつか、他の土地も任せてみようかと考えています。もちろん、形式上の統括権は我が家にありますが……異論は?」
「ありません」
「忠実で結構。犬は、しつけと餌さえ与えておけば、よく働くものです」
やっぱり、この人は――本物だ。
この一言一言が、上から押しつけるだけの威圧ではなく、“選別”のための手段だと分かる。
ルイーゼの母親として、この国の貴族の一角として、目の前にいる俺を試し、値踏みしている。
けれど俺は、ここで怯んでいる場合じゃない。
「……一つ、申し上げても?」
「許可します。仰って?」
「他の土地を立て直すには、ルイーゼ様の力が必要です」
空気が変わる。
それまで書類から目を離さなかった彼女が、こちらをじっと見た。
「――その名をこの場で出すとは、随分と無神経ですね」
その一言。
まるで、呼吸ごと凍らされたような感覚。
「ルイーゼは、すでに新たな婚約話を受けています。公爵家という上位家門……今さら、貴方のような“名もなき者”が呼び戻せると思って?」
「思っていません。ですが、彼女を必要としている現場が、確かにここにあるのです」
「“必要とされている”ことが、本人の幸せと同義だと? おとぎ話は、サロンの中でどうぞ」
「では、伺います。ロザリンド侯爵家が、公爵家の庇護のもと、ただ従うだけの存在になることが、本当に“娘の幸せ”だと、言い切れますか?」
婦人の目が細められた。
葉は返ってこない。
その視線を受けながら、俺は思う。
――俺にルイーゼは、ふさわしくなんて、ない。
でも、どうしようもなく、彼女を失いたくなかった。
罵倒されても、傷つけられても、あの人が誰より美しいと感じた。
あの笑い方を、手放したくない。
あの、一度だけ見せた泣きそうな瞳を、守りたかった。
その想いは、もはや理屈なんかじゃない。
「……ほう。犬にしては、歯向かう舌を持っているようですね」
「ええ。噛まれても踏まれても、吠える舌はあります。殴られても蹴られても、笑って“もう一度お願いします”と言える――それが、私です」
「しぶとい性格ですね」
「しぶとさこそ、交渉の本質だと信じています。私は、ドMです。誇れる性格ではないかもしれませんが、それでここまで、誰より多くの契約を通してきました。貧民から爵位を買うまで、多くの困難を乗り越えてきた自負があります」
「ふふ……本当に、面白い」
一瞬だけ、彼女の睫毛が伏せられた。
それは、誰にも見せてはならぬ、“母”の顔だったのかもしれない。
「ルイーゼのみならず、フィオナまでもがどうして貴方に入れ込んだのか。少し分かった気がします。ルイーゼは今晩、この屋敷を出ます。公爵家のもとへ。話をするなら、それまでに」
「……この屋敷に?」
「さあ。お気に入りの丘にいるかもしれませんね――“犬”の嗅覚で、探してみたらどうです?」
それは皮肉であり、試しでもあり――通行許可でもあった。
息を吸い、もう一度、夫人の目をまっすぐに見据える。
「この土地は広く、復興には人手も資本も要ります。ヴァルガス子爵家の経済支援を取り付けることも可能ですし、私自身も――商会の資本を投じる覚悟があります。そのうえで申し上げます。ロザリンド侯爵家が、公爵家の庇護のもと、ただ従うだけの存在になるのか――それとも、私の商会を後ろ盾にして、自らの意志で力を取り戻すのか。この決断が下されるにあたって、ルイーゼ様のご意向を無視してはいけません」
沈黙が流れた。
やがて――
「……いいでしょう」
その唇が、静かに笑みを浮かべる。
「どこまで届くか、見せていただきますわ――“犬”の遠吠えとやらを」
ゆっくりと立ち上がる夫人。
その背が、扉の向こうへと消えていく。
そして、静かに――扉が閉まった。
それはまるで、吠えることを“許された”合図のようだった。
飼われるだけの犬なら、いくらでもいる。
だが――この声は、俺の意志で吠える声だ。
鎖の先に主がいようといまいと、それは変わらない。
俺は、立ち上がる。
あの丘へ行く。
今度こそ――この声で、吠えるために。