ベラドンナのように危険な魔界の植物の調達を、なぜ葵に任せたのか。
その疑問が、蔵馬の胸の奥に深く根を下ろしていた。
先日聞いたとき、彼女が霊界から受けた依頼の中に含まれていなかった。
そもそもコエンマが、彼女に危険な依頼をするはずがない。
蔵馬の中で、違和感はますます強くなっていった。
(だめだ…。胸騒ぎがおさまらないっ)
彼の勘は、すぐに霊界へと足を進ませていた。
霊界に着いた蔵馬は、まっすぐにコエンマの元へ向かった。
ちょうど、執務室で書類を整理していたコエンマが、彼の姿に気づいて陽気な声を上げた。
「蔵馬じゃないか。珍しいのう。どうしたんじゃ?」
「葵のことで、急ぎ聞きたいことがあります。数時間前に、霊界に来ているはずなんだが」
「ああ。今日は依頼の報告日じゃからな。だが、その時ワシはどうしても手が離せなくてのう。ぼたんに代行してもらったんじゃ。依頼内容はたしか」
そう言って、コエンマは机上に積まれた帳簿の中から一つを手に取り、目を細めて記載を確認した。
「……おかしい。こんな依頼はしておらん」
コエンマは帳簿内容を再度確認し、彼の眉間に深い皺が刻まれていく。
「どういうことです?」
「この帳簿は、葵に依頼した仕事内容を収めてある。今回の依頼は、魔界のX地区の情報収集と不老不死の泉の採取。これに加えて、わしの知らんところで、毒草のベラドンナの採取が足されておる」
「依頼を彼女に伝えたのは?」
「わしじゃ。だが、3つ目は伝えていない。そもそも魔界のベラドンナは危険性が高い。そのようなものを、わざわざ葵に頼まん」
(やはりそうか…)
蔵馬の表情は変わらないが、目の奥は鋭さを増す。
「何者かが、帳簿を改ざんし、葵に偽の依頼を伝えたということか。帳簿をそのまま残しておいたのは、葵が報告に来た時に居合わせて、説明するつもりだったのか」
蔵馬が考えを巡らせていると、コエンマが呼び出したぼたんが入ってきた。
事情を話すと、驚いて口を押さえた。
「そ、それ…私が
ぼたんが申し訳なさそうに、一連の経緯と、先ほど葵と枉鵬が研究棟に向かったことを話した。
(最悪のケースだ…。まずいな…。葵が無事だといいが…)
蔵馬は心の中で舌打ちをした。
取り越し苦労であってほしい自分の勘は、当たっていた。
「枉鵬は、元々強引な性格でな。自分の正義に固執しすぎる。融通が利かんどころか、職権乱用で、霊界の中で被害を受けている者も多いと聞く。帳簿に関しても、何かしら言い逃れをするつもりだったか、それともワシが気づくのさえも、構わないほどのことだったのか」
コエンマが腕を組んで語るなか、蔵馬はこの一件の全体像を把握し、おおよその検討を付けていた。
枉鵬が、コエンマを通さず葵に花を運ばせた。それは花の採取だけが目的ではなく…。
「最初から、葵が目的だった可能性がある」
「え!?どういうことだい?」
「コエンマ。急いで枉鵬を呼び出してくれ。彼女が危ない」
多方面に考えを巡らせてはいるが、葵の身の安全の保障がない今、蔵馬は焦りを感じている自分に気づいた。ぼたんの口から聞いた参謀長の名前も、彼の焦りを助長する。
蔵馬のいつもより低い声に、コエンマもぼたんも緊張を走らせた。
程なくして、枉鵬が部屋に入ってきた。
蔵馬と目線があった瞬間、彼の眉がぴくりと動き、一瞬霊気が乱れたのを蔵馬は見逃さなかった。
「お呼びですか?」
「枉鵬参謀長。先ほど、葵と共に研究棟に向かったそうだが、その後彼女はどこに行ったか知っておるか?」
「さて。研究棟を簡単に案内した後、私は別の用事を済ませていたので存じませんな」
「…そうか、知らぬか」
ぼたんが不安げに枉鵬と蔵馬を交互に見ている。空気が一気に重くなる。
蔵馬は終始無言で、その表情からは何を考えているのか読み取れない。
「御用は以上でしたら、私は急ぎの任務がありますので、これで失礼します」
枉鵬は平静を装い、退出しようとした。
その時、蔵馬が沈黙を破った。
「待て」
蔵馬の声は、静かに、しかし絶対的な威圧をもって響いた。
枉鵬の背中が、わずかに硬直した。
「どうしたかね?」
「知らないと言ったが、お前から血の匂いと彼女の香りがする」
それに混ざって、ベラドンナの香りも強い。ベラドンナの甘く異質な匂いは、一度嗅ぐと忘れることはない、特有のものだ。そして蔵馬は元妖狐、嗅覚が優れている。
冷徹な言葉に、その場の空気が一気に凍りつく。
蔵馬は枉鵬の前に出た。妖気が彼の周囲で静かにざわめき始める。
「なんじゃと!?」
コエンマとぼたんは驚いて、枉鵬を見た。
「匂いを消したつもりのようだが、オレの鼻は誤魔化せない。今までどこで何をしていた?」
枉鵬のこめかみが、ピクリと動く。
「…気に食わない、妖怪のくせにこの神聖なる霊界で偉そうにっ」
声が低く唸りを上げたその瞬間、憤怒の表情で枉鵬が蔵馬に向かって突進した。
「っ!」
本棚をなぎ倒しながら向かってる枉鵬を、蔵馬の冷静な目がそれを一瞥し、瞬時に反応して避ける。書類や書籍が、宙を舞う。
「お前たち妖怪は、悪の元凶!我々の神の意志の元、粛清されるべきなのだ!」
コエンマの制止も聞かず、焦点の合っていない目つきで、枉鵬は何度も蔵馬に拳を振るう。
もはや正気でなかった。
「蔵馬!気をつけろ!こいつは恐らく
その名に、ぼたんが息を呑む。
「霊界の中にも、狂気的な信仰心を持つ者もいるんじゃ。奴らは一方的な正義で、霊界の秩序を度外視した、過激な活動をしておる!」
蔵馬は冷静に動きながら、目は枉鵬を鋭く追っていた。
「動機や背景は、今はどうでもいい。彼女はどこにいる!?」
防戦一方だった蔵馬は、首の後ろ髪から一輪の赤い薔薇を取り出した。
鋭い棘のついたしなやかな鞭に変化させると、男に対してかまえた。
コエンマは、ぼたんに警備兵を呼びに行かせていた。
枉鵬は口元を歪めて
「あれは利用価値が高い妖怪だ。研究棟に捕らえてある。貴様や飛影のことを聞き出そうとしたが、強情な女だ。ずっと黙秘を続けていたから、つい力が入ってしまったよ。ひどく弱っていたがな」
「…っ!」
わずかに表情を変え、蔵馬の中の何かが音をたてた。
それは感情的に切れる音か、自分が設けたリミッターが外れる音か。
「蔵馬!貴様のような人間界でのさばる妖怪が、私は憎くて仕方がない!ここで神の元、粛清してやる!」
「やめんか!枉鵬!」
コエンマの制止を聞かず、枉鵬が地を這うように、低い姿勢で跳びかかろうとした。
しかし、その動きが唐突に止まった。
「…っ!?な、ぜだ?!どういうことだ?貴様、何をしたっ!?」
枉鵬の顔が驚愕に歪む。
蔵馬は静かに答える。
その声は、わずかに低く押し込めながら、恐ろしい迫力と怒気が込められていた。
「お前の体に、ある植物の種を植え付けた。それが成長し、お前の神経に根を張り、筋肉の動きを止めている」
氷のような冷ややかで射るような視線は、この場にいる誰も見たことがないかつての彼を覗かせる。
鋭い刃のような妖気が、部屋に立ち込める。
コエンマは息を飲み、声を上げることすらできなかった。
「なに?!」
「もう一度聞く。葵はどこだ?」
「誰がお前に話すかっ」
言った直後、右腕から緑色の蔦が、皮膚を裂いて突き進み、男の腕を胴体から引きはがした。
枉鵬が大きく叫ぶ。
「今のは、ほんの小手調べだ。返答次第で、貴様の体の末路は…もっと壮絶なものになるだろう」
「……蔵馬っ、貴様っ」
男はぎりぎりと歯を食いしばり、血走った眼で彼を睨みつけた。
長身長髪の男は、冷徹にただ見下ろしていた。
蔵馬の剣幕に一瞬のまれていたコエンマは、我に返って仲裁に入った。
「蔵馬!ここで、それ以上はご法度じゃ!いくらお前でも、霊界の掟に背くぞ!」
彼は冷酷無情な魔の瞳で、静かに枉鵬を見据えたまま、コエンマの呼びかけに答えなかった。
コエンマの背中に、冷や汗が流れる。
数分間、蔵馬が作った沈黙がこの空間を支配した。
数十分とも感じられる長い静寂の後、空気が動いた。
「…研究棟の、隠し部屋に捉えてある」
観念したのか、枉鵬は呻くように葵の居場所を白状した。
その瞬間、まるで男のその言葉だけを待っていたかのように、蔵馬は武器をしまい、コエンマを見た。
「コエンマ、この男はもう動けない状態だ。色々と聞きだしたいこともあるだろう。後は任せた。オレは葵を探す」
「あ、ああ。そうだな!」
コエンマが、おおよその場所を蔵馬に伝える。
警備兵が到着したのと入れ違いで、蔵馬は研究棟のほうへ急いだ。
蔵馬が枉鵬に使ったのは、クロシマネキ草という魔界の植物だった。
シマネキ草と同じく、体内で成長し宿主の体の自由を奪う。
その終末は爆発的に開花し内側から突き破り、死を招く。
それに加え、クロシマネキ草には「自白作用」がある。
彼が盗賊時代に、相手を供述させるために使っていた手段の一つだった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
意識の底から、ぽつりぽつりと光が浮かび上がるように、葵の意識が再び現実に引き戻された。
瞼をわずかに開けると同時に、痛みが全身を包み込んだ。
「……っ」
鈍く、鋭く、焼けつくように。全身の打撲や切り傷の痛みが波のように押し寄せて疼く。
声にならない悲鳴が上がる。
蹴られた衝撃で、腹部にたまっていた血だまりをごぼっと吐いた。
血に混じって、酸味のあるような味が口内に広がる。
視界がぼやけて、輪郭がにじむ。
かすかに見える天井は、先ほどと同じ、あの密閉された無機質な部屋の天井だった。
(体に力が入らない…。意識を保つのが精一杯。早く霊界から出ないと…)
意識だけが先を急ぐ。どうにか立ち上がろうと、痛む体を無理やり動かした。
沈もうとする力に逆らって、震える手を床について上体を起こそうとした。
しかし、妖気が体から漏れていくようだった。
「…っあ」
その直後、葵の体は支えを失って崩れ落ち、無機質な床に沈んだ。
(あなたの勘って、すごいわね…蔵馬)
気がどんどん抜けていき、感覚がなくなっていく。腕に力が入らなくなり、指先が震えた。
体が冷たくなる中、瞼が彼女の意志と関係なく閉じていった。