アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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人間界の日常―夫と妻―

かすかに軋む音をたてて、隣の部屋の戸が開いた。

蔵馬は目を開けた。長年培った習性で、わずかな気配を体は捉える。

 

(……葵だな)

 

足音は軽く、ためらいがない。

妖気も歩幅も、よく知っているものだった。

彼の隣では、父と育ちざかりの弟が親子そっくりの格好で深く眠っている。

呼吸のリズムまで重なっているのが、人間らしく面白い。

 

彼は音を立てずに起き上がり、紺色の半纏を手に取る。

畳を踏む足取りは空気のようで、夜が明ける前の静けさを乱さない。

廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。

エレベーターの表示灯は、最上階で止まったまま動かない。

 

――……。

蔵馬は足をその方向へ向けた。

最上階の一角は、簡素な展望室になっていた。

大きな窓の向こうに、まだ起ききらない山々の影が連なっている。

空は少しずつ白みはじめ、夜と朝の境目が曖昧に溶け合っていた。

 

その隅に、小さな足湯処がある。

湯気は薄く立ち上がり、硫黄の匂いが漂う。

縁に腰掛け、足を湯に浸しながら景色を見ている小柄な後ろ姿があった。

淡い髪が、橙色の灯篭の明かりと朝まだきの青白い光を含んでいた。

 

 

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もう少しで太陽が出る時刻。

蔵馬が柱の陰で足を止めた、そのときだった。低い声が届いた。

2人の男が、葵に声をかけていた。

彼女は振り返り、親しみのある表情を向けた。

 

「……私、夫を待っているので」

 

若い男の一人が、慌てたように謝る。

 

「す、すみません!オレと同い歳くらいかと思って……!」

 

「気にしないで」

 

柔らかく返した彼女の声が、鮮明に聞こえる。

蔵馬はそのやり取りを、静かに見守った。

 

「お姉さんみたいな人と一緒で、旦那さん幸せですね!」

 

「ありがとう」

 

男たちはやがて立ち去り、五時前の展望室には二人分の気配だけが残る。

湯が微かに流れる音が、夜と朝の境界の時間にしばらく響いていた。

その静寂が終わる。

 

 

「……隣、よろしいですか?」

 

耳の後ろから、聞き慣れた繊細で艶を含んだ声。

葵は振り返り、少しだけ目を見開いたあと、微笑んだ。

 

「ええ」

 

 

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蔵馬が隣へ腰を下ろす。

足を湯に沈めると、温もりが足先からゆっくりと伝わってくる。

 

「おはよう。よく眠れた?」

 

「布団に入って、お母さんと話してたの。でも……私が先に寝てしまっていたわ」

 

「はは。葵らしいな 」

 

短く笑って、蔵馬は湯気の向こうに目をやる。

彼女はしばらく、揺れる水面を見つめていた。

そこには、並んだ二人の足先が映っている。

 

 

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「……蔵馬の足って、こんなに大きいのね」

 

「そう?何度も見てるはずだけど」

 

「こうして横に並んで見るのは、初めて」

 

何気ない口調。

葵の瞳は、湯に浸かる自分の足と、隣にある蔵馬の足を何度か見比べていた。

体の大きさを、見ているだけではなかった。

これまで何度も守られてきた時間。並んで歩いてきた記憶。

そのすべてが、静かにそこへ重なっていた。

 

胸の奥に広がる想いを感じながら、蔵馬はその白い横顔を見ていた。

 

「結構、入ってたんだね」

 

「20分ほどかしら」

 

彼は湯に浸かる彼女の足へ視線を落とした。

ほんのり赤くなった肌。

白い肌との境目が、朝の薄明かりの中でやわらかく滲んでいる。

 

 

「蔵馬」

 

花が朝露を受けてひらくように、その声は静かに響いた。

空気の温度が変わる。

 

隣の男が目を向ける。

葵は朝焼けへ染まり始めた空を見上げている。

淡い光が横顔を柔らかく照らし、その瞳には穏やかな景色が映っていた。

 

「うん」

 

「連れてきてくれて、ありがとう」

 

その一言に、蔵馬はわずかに目元を緩めた。

言葉は返さない。返せなかった、といったほうが近い。

先ほど聞いた言葉が、まだ胸の奥で静かに響いていた。

(……君も、同じ景色を見ていたんだな)

 

外に聞こえない音で、彼の心臓が高く鳴る。

 

空の端が、わずかに橙を帯びていく。

この場所は大浴場から離れていて、館内の客はそちらで日の出を待っているだろう。

展望室には、二人のほか人影はない。

 

 

蔵馬はゆっくりと左手を持ち上げた。

紺色の半纏の袖が、葵の肩先を包むように広がる。

――抱き寄せるためではない。 通路側から彼女の表情を、そっと隠すため。

 

湯の中で、水が小さく動く音がする。

そのわずかな揺れに、葵が顔を上げた。近づいた距離の分だけ、彼の気配が濃くなる。

 

「……オレの妻は」

 

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言葉は、そこで一呼吸置かれた。余韻を残す声の振動。

蔵馬は視線を逸らさず、穏やかに続ける。

 

「本当に、目が離せない人だな……」

 

「え?」

 

葵が首を傾げる。

その仕草に、彼は小さく笑みを浮かべた。

そしてそっと口唇を重ねる。言葉に代わる、静かな返事だった。

 

「……ん」

 

珍しく、葵が小さく息を詰める。

身を引こうとしたその動きを、蔵馬は腰に添えた手でやわらかく受け止めた。

逃がさないようにではなく、引き寄せるでもなく、そのまま寄り添う距離だけを残して。

 

元々好戦的な彼の気質と、男ゆえの性――逃げる舌を追いかけて口の中で合わさる。

少しくぐもった声に一度口唇を離すと、葵は少し困ったように眉を寄せていた。

 

「……蔵馬」

 

そして口元に手を当てた。

 

「舌が、まだ少し痛いの」

 

「あ……」

 

その言葉に、蔵馬はわずかに目を丸くした。

夕食のときに、舌を噛んでいたのを失念していた。思わず息が漏れた。

 

「ごめん」

 

葵は口元へ手を当てながら、軽く俯く。

舌の具合を確認しているのか、自分で治癒しているのか。

その様子まで、あまりにも彼女らしい。

 

彼は目の前の頬へ、指先を伸ばした。 触れているかいないかの境目で止まる。

 

「君は、どうしてそんなに ……」

 

言いかけて、言葉と溢れかえりそうな感情を飲み込む。

代わりに、低く息を吐いた。

 

「蔵馬?」

 

葵は手を降ろしながら、不思議そうに彼を見上げた。

 

「声が、笑ってるわ」

 

「……なんでもないよ」

 

蔵馬は否定も肯定もせず、ふっと小さく笑った。

 

 

朝日が山の向こうから顔を出した。

金色の光が足湯を照らし、水面に揺れる二人の姿を映し出している。

 

葵は何の迷いもなく、自分の隣にいた。

手に入れたからではなく、目指したわけでもない。

お互いに歩いてきたら、そうなっていた。

 

――気づけば、ここにいた。それで、十分だった。

 

 

 

 

 

朝食を終え、宿の廊下にはまだ味噌と炊き立ての米の匂いが残っていた。

それぞれの部屋に戻り、窓を少し開けて朝の風を入れていた、そのときだった。

 

「……え?ちょっと、葵ちゃん!」 

 

隣の部屋から、志保利の声が一段と高く響いた。

続いて、慌ただしくティッシュを引き出す音。

 

蔵馬は静かに立ち上がった。

 

「少し隣に行ってくるよ」

 

父と弟にそう告げて、部屋を後にした。

戸を軽く叩くが返事はない。 中では、母親の慌てた声が続いている。

彼は難なく鍵を開け、室内に入った。

部屋の中央では、志保利が葵の前にしゃがみ込み、鼻にティッシュをあてがっていた。

 

「鼻血が出てるわ、大丈夫?!」

 

「鼻血、ですか?」

 

葵は不思議そうに志保利を見た。

少し遅れて自分の鼻先へ指を伸ばし、白いティッシュに滲む赤を見つめた。

 

「……本当ね」

 

 

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ようやく状況を理解したらしい。

蔵馬はその様子を一目見て、小さく息を吐いた。これは自分の感情を整えるための行動だ。

 

「葵」

 

穏やかな声に、二人が振り向く。

彼女の頬は朝日を浴びたように赤く染まり、体温も普段より高そうだった。

一方で志保利は、どうしたらいいのかわからず落ち着かない様子で彼を見る。

 

「秀一、病院へ行った方がいいかしら?」

 

「いや、大丈夫だよ」

 

蔵馬は葵の前に座り、自然に目線を合わせた。

 

「顔、真っ赤だよ」

 

「そう?」

 

本人には自覚がないらしい。

首を傾げた拍子に出血が少し増え、志保利が急いで彼女の鼻に新しいティッシュを当て直した。

 

「ほら、少し下を向いて。そう、そのまま」

 

「鼻血って、こういう感覚なのね……」

 

貴重な体験をするかのように、冷静に自分を観察していた。

蔵馬はその呟きを聞きながら、静かに問いかける。

 

「他に変わったところは ある?」

 

葵は少し考えた。

 

「うーん……。のぼせたときみたいに、暑くて。動悸がして、ちょっと頭がふわふわするわ」

 

「……そうか」

 

頷きながら、もう一つだけ確認する。

 

「今日、初めて食べたものは?」

 

葵は鼻を押さえながら思い返す。それからぱっと顔を上げた。

 

「納豆ね」

 

「……納豆?」 

 

志保利が思わず聞き返す。

蔵馬は静かに口元に手を当てた。筋肉の緩みを抑えるのも、限界に達していた。

 

 

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「美味しかったから、二個食べたわ」

 

「……。」

 

部屋に一瞬だけ静寂が落ちた。

蔵馬は口元へ手を添え、小さく息を漏らす。

からしやワサビをつけて、味変することを弟に教わりながら、朝食会場で堪能していたことを思い出した。

 

(……また体質が反応したか)

 

驚きはなかった。

人間とは異なる体質を持つ彼女なら、こういうこともありえる。

ただどうしてこのタイミングなのか。

「発酵食品だからね」

 

彼は静かな口調で説明する。

 

「体質的に強く反応したんだと思う。急に血行が良くなったんだろう 」

 

志保利は息子と葵を交互に見つめている。

 

「そういうことも……あるのね」

 

「うん。少し冷やして休めば治まるよ」

 

そう言いながら、蔵馬は立ち上がる。

部屋に備え付けられていたタオルを水で冷やし、戻ってくる。

そして彼女の上気した首元に当てた。

 

「冷たくない?」

 

「大丈夫よ」

 

葵は心地よさそうに目を細める。

 

「蔵馬の手も、ひんやりしてるわ」

 

「君の体温が高いからだよ」

 

さらりと返しながら、タオルの位置を少し整えた。

息子の言動に、志保利が安心したように肩の力を抜いた。

 

「次から食べるときは、少量にしよう」

 

「……美味しかったのに。残念ね」

 

花が萎れていくような表情で、声も尻すぼみになっていく。

その落胆の仕方が子供のように素直で、志保利は思わず笑みをこぼした。

 

「もしくは、オレが隣で様子を見る」

 

その一言で、葵の表情が明るくなる。

鼻を抑えていたティッシュを外すと、出血は治まっていた。

 

「それなら、安心ね」

 

安心したように微笑む彼女を見ながら、蔵馬は静かに息をついた。

 




足湯と鼻血のシーンは、書いていてとても楽しかったです。
来週で15章終了予定。
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