温泉宿から戻った夕方。
荷物を片づけ、家の中が落ち着きを取り戻したころ、蔵馬は台所に立つ母の背中に声をかけた。
「母さん。葵に、温泉の入り方を教えてくれてありがとう」
志保利は湯のみを拭く手を止め、振り返る。
「ええ……。もう、これでのぼせる心配はないと思うわ」
そう言いながら、どこか言葉の端が曖昧だった。
蔵馬はそれを聞き逃さない。視線を落とし、リビングのテーブルの上を整理しながら柔らかく言った。
「……何か、気になることがあった?」
「え?……そうね」
一瞬の間は少し重い。
志保利は小さく息を吸い、迷うように目を伏せた。
「もしかして……彼女の、背中の傷のこと?」
「……どうして、わかったの?」
「なんとなく、ね」
温泉に入れば、素肌を見る。背中の古傷に気づかないはずはない。
「そう……。秀一は知っていたのね。私、少しびっくりしちゃって……」
遠い何かを思い出すように、志保利は言葉を選びながら続ける。
「でも、葵ちゃん本人は、全く気にしていない風に見えて。あれが余計に……」
驚きと、胸の奥に残ったざわめき。
それをどう扱っていいかわからない、そんな声だった。
「うん、そうだね……」
蔵馬は短く頷く。
母にも腕に古傷がある。それは彼も関わる出来事。
その記憶と葵の傷跡が重なり、母が感傷的になるのも理解できる。
しかし、当の葵は自分の傷に対して実に客観的だった。悲壮感はなく、傷があることを忘れているほどだ。
彼は、母親の気持ちも葵のことも理解している。
「彼女にも……今まで、いろいろあったんだと思う」
彼はそれ以上説明しない。
ただ、少し間を置いて、窓の外に目を向けた。
「だから、母さんも気にしなくていいよ」
「……そうよね」
志保利母は湯のみを棚に戻し、視線を息子に向けた。
少しだけ、笑う。
「葵ちゃんの、これからの人生が……幸せであってほしいわ」
「……うん。きっと、そうなるよ 」
願いや断言ではなくて、彼の中で揺るがない前提のように静かに置かれた言葉だった。
台所に、夕暮れの光が差し込む。
蔵馬はその光の中で、何も言わず、母と同じ方向を見ていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
旅行から戻って二週間。
南野家のリビングにて。
テーブルの上に広げられた数枚の写真を、葵は一枚ずつ確かめるように眺めていた。
次に、手帳に取り付けた透明なクリアホルダーを開く。
薄いビニールが、きゅ、と小さく鳴った。
「ここに入れておくと、折れないわね」
独り言のようにつぶやきながら、写真を一枚、また一枚と収めていく。
その様子を、向かいに座った弟秀一が覗き込んできた。
「……あのさ」
言いよどむように、視線は一枚の写真へ。旅行の写真は、すべて彼が撮ったものだった。
蔵馬の弟は、少し照れたように言葉をつづけた。
「秀一兄さんって、いつも葵さんのこと見てるんですね」
何気ない口調が、どこか核心を突く。
葵は何度か瞬きを繰り返し、それから写真を一枚、持ち上げる。
「そうかしら?」
風景の中に立つ蔵馬の横顔。視線の先には、笑いながら何かを指差す葵の姿が写っている。
別の写真でも、また別の一枚でも――蔵馬は決して正面を向かず、必ず少し離れた場所から、同じ一点を見ていた。
弟秀一は写真をめくりながら、思わず声を弾ませた。
「ほら、これも。これもそうだ」
葵は提示された写真を見下ろし、少しだけ首を傾げる。驚きというより、確認に近い仕草だった。
「めっちゃ大好きなんだろうなぁ」
彼は無邪気にそう言って、ソファにもたれかかる。
「オレもさ、いつかそんなふうに好きって思える子と、出会えたらいいな」
言葉の奥には、年相応の淡い憧れが含まれていた。
葵はクリアホルダーを閉じ、手帳を膝の上に置くと、弟秀一の方へ静かに向き直る。
「大丈夫よ」
迷いのない声だった。
「秀一君も、いつか大切な人と一緒になれると思うわ」
「ほんと!?」
勢いよく身を乗り出す彼に、葵はくすりと笑う。
「ええ。もしかしたら……」
一瞬、言葉を選ぶように間を置き、彼の純粋な眼差しを見つめた。
「もう出会っている人の中に、いるかもしれないわ」
その言葉に彼は目を丸くし、すぐに顔を輝かせた。
「えっ、マジで!?誰だろ……」
指を折りながら、今まで会った同級生や知り合いの顔を次々と思い浮かべていく。
その様子を、葵は楽しそうに眺めていた。
リビングの隅では、蔵馬が無音で本を閉じた。そこにいるとは気づかない気配。
会話には加わらず、ただ一瞬だけ視線を上げて。
テーブルの上の写真と、無邪気に笑う二人の姿を捉える。
その横顔には、小さな安堵と、言葉にならない温度が静かに宿っていた。
弟秀一が電話に呼ばれて席を外すと、リビングには静けさが戻った。
受話器を片手に弾む声が、向こうから聞こえる。
その時、蔵馬が姿を現した。
音を立てない歩き方はいつものことで、空気の流れだけが彼の到来を告げる。
「秀一は、写真を撮るのがうまいな」
並べられた写真に視線を落としながら、彼はそう言った。
葵は頷き、手帳を抱えたまま、少し身を乗り出す。
「自然体に映っているわね。きっと秀一君の才能だわ」
蔵馬は一枚の写真を手に取り、しばらく黙って眺めた。
光にかざすように角度を変えている。
「この写真、良く撮れてる。葵の雰囲気が、素直に伝わる一枚だね」
そこには、黄緑色のカーディガンに白いブラウスを着た葵が写っていた。遠くの空を見上げ、柔らかく目を細めている。
背景の青は澄み、風に揺れる草の気配まで伝わってくるようだった。
まさに花姿だった。
蔵馬の手元を覗き込んだ葵は、突然無言になり、しばらく動かなかった。
「……葵?」
名を呼ばれて、ようやく彼女は小さく息を吐いた。
「……私って、こんな顔してるのね」
自身の写真を見つめるその眼差しには、驚きというより、不思議なものを見つけたような、興味と戸惑いがあった。
「あれ?写真を見るのは、初めてじゃないだろう?」
母の結婚式の時にとった写真を、一緒に見た記憶がある。
それ以前に、鏡や水面などに映る自分の姿を、彼女は日常的に見ているはずだ。
「私たちの目は、外側についているでしょう?だから、自分で自分を直接見ることができないわよね。これが自分って……自覚するのが、私には少し難しいのよ」
「……ふむ」
蔵馬は短く相槌を打ち、考え込むように視線を落とした。
実に彼女らしい答えだった。
その言葉をきっかけに、以前から胸の片隅に引っかかっていた疑問が、静かに形を取り始める。
「では、この写真の女性はどう見える?」
葵は改めて写真を見つめる。少し考えた後、顔を上げた。
「
「的確な表現だね」
客観的に、自身が映る写真を見て表現したのはさすがだった。
それが自分という意識が薄いから、言えるのか。
「……それなら、少し実験してみようか」
「実験?」
彼女の目は、好奇心で輝きを増す。
ふっと口元を緩めると、蔵馬は立ち上がり洗面所へと彼女を誘った。
鏡なら、リアルタイムでみることができる。
そこで葵が自身と対面することで、自分の仮説が正しいかを検証するつもりだった。
鏡の前に並び、彼はそっと彼女の肩に手を置く。
「葵の目はね。こうしてみていると、時々
「……丁寧に説明してくれるところ、申し訳ないんだけど」
わずかに首を傾げながら、彼女は自分ではなく、鏡の中の蔵馬の顔をじっと見ていた。
「私、ずっとあなたの顔を見て聞いていたの」
「……どうりで視線が合うと思ったよ」
思わず苦笑が漏れる。
葵は、鏡を見るときでさえ、自分自身をよく見ていないようだ。
髪を結ぶのに鏡を見る時は、髪をみる。
写真もまず、普段目にしている他者を見てしまい、自分が写っているという自覚が少ない。
そもそも自意識が薄く、さらに他者と自分を比較することがあまりないということが良く分かった。
肉体を外側から自己像として認識する経験が、少ないのだ。
「あなたの目には……私の目が、そのように光って見えるのね」
「うん。オレが好きなものの一つだよ」
即答だった。
言い切るところが、この男としては少し珍しいと葵は思った。
「……そう。あなたの好きなものが何か、前に考えていたけど。これは、あげ方が難しいわね」
「はは。もう貰ってるようなものだから」
「そう?」
「くれようとしなくて、大丈夫だ」
少し考え込むように、葵は顎に指を当てていた。
(……さて、次は何を言うのか)
視線は彼女にとどまったまま、蔵馬は待った。
しばらくして、前触れなく葵は振り返った。
星を宿したような瞳が、まっすぐ彼を見上げる。
これは合図のようなものだった。
彼女がまたなにか、己の予想を超える言葉を生み出す瞬間だ。
「小難しいことを言うかもしれないけど、いいかしら?」
「いいよ」
「私の見えているものと、あなたが見えているものは、違うことがあるでしょう?先ほど言っていた、私の目が螺鈿色に見えるというように」
「ああ」
蔵馬は温度の宿る瞳で、彼女を包容しながら聞いていた。
その感性が、心の奥深くに沈んでいく。
「だから写真に写っているのが、私という自覚がないの」
「そうだね」
(……なるほど)
心の奥で、自然と笑いが出る。
猫が鏡に映る己を自分と認識せずに、威嚇するのと似ている。
しかし似て非なる。
彼女の場合は、鏡という概念をわかっていて、そこに映る姿が自分という自覚がない。
豊かな感性は、これほど興味深く彼の琴線に触れた。
「葵に聞こえてオレに聞こえない音があるように、オレと君が見えている世界が違うこともある。だから、君が言っていることもわかるよ」
中性的で理知的な声は、やんわりと洗面所に響く。
「じゃあ、とりあえず……鏡の中の葵を見て」
彼女は再び鏡を見つめた。
今度は鏡越しで互いの視線が合っていないことを確認し、蔵馬は再び葵の両肩に手を置いた。
そして、ゆっくりと言葉を贈った。
「この時間だと、髪は象牙色と桃色が同じくらい混ざって見える。目は緑がかったハシバミ色で、星を宿したような深い輝きがある。全体としての容貌は、透明感があって……。君が言うように、楚々とした花のようだ」
葵は静かに息を吸い、頷いた。
「今、オレと葵が見えている君の姿は、同じだというのはわかる?」
「……ええ、わかるわ」
蔵馬はふっと目を細めた。
「これが……オレの好きな葵の姿だって言いたかったんだ」
(そして少しでも、自覚をもってくれたらいい)
その想いは、胸の奥に留めておいた。
鏡越しに話していた葵が、くるりと振り返った。
「あなたの好きなものをあげるのが、難しい理由。ようやくわかったわ」
「そう?」
「始めから……あげる必要がなかったのね」
ほんの刹那。蔵馬の世界の時が止まった。
ドクンと動く胸の響きに、時の流れが再開する。
「……うん。君がオレのそばにいるだけで、オレはいつも、好きなものをもらってるんだ」
彼の贈った言葉の返しに、葵は花が咲くようにふわっと微笑んだ。
その頃、洗面所の向かいにあるキッチンの扉前では、立ち尽くす弟と家事をする母親がいた。
「母さん……。オレ、歯磨いて出かけたいんだけど、なかなか行けないんだ」
「あら。どうしたの?そんな顔して」
「兄さんと葵さんが、洗面所で話しててさ……。聞いてると、こっちが恥ずかしくなる内容なんだ」
「まぁ。何話してるのかしら」
「………オレの口からは、言えないよ」
途中から聞こえてきたやりとりに、秀一の顔は真っ赤だった。
熟れすぎたトマトのように。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
おまけ♢
高校の放課後の廊下は、生徒たちの足音と笑い声が混じっていた。
蔵馬は、机の上で鞄の中身を整えていた。
「なぁ、南野」
背後から、気安い声がかかる。
「お前って、女子に全然興味なさそうだったじゃん。なのに……うまくやってんだな」
「それはどうも」
生物部の同級生の言葉に、蔵馬は振り返ることなく、淡々と声だけで応答した。
相手は一瞬肩透かしを食らったような顔をし、それからにやりと笑う。
「なぁ、付き合ってんだろ?」
「うん」
間も置かず、あっさりと答えた。その即答に、相手は目を瞬かせる。
「……白状するとは思わなかったぜ。なんか、お前の方が彼女にぞっこんだな」
彼は驚きを隠しきれない様子で、肘で蔵馬の腕をつついた。
「そう見える?」
「見える。南野、オレは口が堅い!あの子のこと、もう少し教えろよ」
蔵馬は、ほんの一瞬だけ考える素振りを見せた。顎に手を添え、間を取る。
「……どうしようかな」
「頼むって!生物部のよしみで、少しだけ!」
「そうだなぁ……」
食い下がる部員に、蔵馬は小さく息を吐き、ようやく口を開いた。
その声は穏やかで、どこか含みがあった。
「彼女、武道をやっててね。かなり強いんだ」
「……は?」
「そこらへんの男じゃ、まずかなわないよ」
「……まじか」
一瞬、廊下の喧騒が遠のいたように感じられた。
相手は葵の姿を思い浮かべるように、虚空を見つめる。
「人は見かけによらないっていうのは、本当だな……」
「だから、いらぬ手出しはしない方が、身のためだ」
一瞬見えない何かで刺すような眼差しが光る。
同級生は、ゆっくりと彼を見た。
「……お前、最初からそれ言いたかったんだろ」
蔵馬は答えず、ただ口元にわずかな笑みを浮かべた。
余裕とも、冗談とも取れるその表情の奥で、何かを大切に守るような気配が、潜んでいた。
廊下に、チャイムの音が響く。
蔵馬は鞄を肩にかけ、いつもと変わらぬ足取りで歩き出した。
高校生活も、もうすぐ終わりに近い。
長くなかった15章がいつのまにか、膨らみました。
マイペース更新となっていますが、これからもよろしくお願いします。
16章は、とても大切で重要な回です。
ぜひ読んでいただけると嬉しいです。
その前に短編を一つ挟む予定です。