蔵馬は、人気のない研究棟の廊下を駆け抜けていた。
突然、鼻をかすめる匂いが濃くなった。
(血と、ベラドンナと、彼女の香りがする…)
それが導くように、彼をある一点で立ち止まらせた。
目の前には白い壁しかない。しかし匂いは間違いなくこの先からしている。
盗賊時代の勘は衰え知らずで、壁を撫でるように手を這わせ、僅かな凹凸に指を滑らせた。
(……ここか)
指先が触れた瞬間、感触が変わる。彼は、そこに隠されたスイッチを見つけた。
上に引っかけるように押すと、壁が音もなく開き、隠し部屋への扉が現れた。
扉を開けると、すぐそこに葵が仰向けで倒れていた。
その顔は血の気がなく、真っ白だった。彼女のものと思われる血液が床に散らばっていた。
「葵!」
蔵馬は瞬間的に駆け寄った。
普段まとめている髪は乱れ、体のあちこちに
血に染まった布地が、肌に貼りついている。
「葵っ!しっかりしろ!葵!」
体を起こして首に手を回すと、彼女の頭が重力に従って力なく傾いた。
傷口から流れた血が、彼の手にじわりと冷たく染みていく。
葵の命が、指の隙間からこぼれ落ちていくようだった。
呼びかけるが反応はない。
胸がかすかに上下しているのを確かめるが、そのわずかな息が漏れる口唇の色が悪い。
抱きとめる小さい体は冷えていて、息をしているのが不思議なほどだった。
首元を締め付けられた跡が、赤く紫色に変色している。殴打された頬も痛々しい。
出血に染まる衣服は、所々が裂けていた。力任せに掴まれた跡が残る襟元が、はだけている。
そのすべてが、無残で、痛ましくて。
冷たい鉄の棒を、心臓に押し当てられたように、蔵馬の胸がぞわりと冷えた。
右の指で葵の手首にある脈を確かめた。拍動が弱く、脈拍数が低い。
(まずい…とても危険な状態だ)
さらに追い打ちをかけるように、葵の体が半透明になっていった。
「…透けているっ?」
思わず焦りの声が出た。
(これは…、霊体が消えかかっているのか?)
今にも止まりそうな呼吸に、このままでは霊体のほうが先に消滅してしまいそうだった。
霊体が消滅すれば、肉体に戻るものはなく、命の終わりと同じになる。
想像して、身の毛がよだつ。
(だめだ!死なせはしないっ…!)
蔵馬は蹴られた跡が残る腹部に右手をかざして、慎重に、力強く、妖気を送り出した。
「蔵馬!葵は無事か?!」
コエンマが後を追って入ってきた。蔵馬の腕の中の葵の状態を見て、彼は言葉を失った。
血に染まった服、透ける体、蒼白の顔。すでに事切れているかと思った。
「…なんとか生きてはいるが、かなり危険な状態だ。それに、なぜか霊体が透けているんだ」
「受けたダメージが強すぎて、霊体が消えかかっておるのかっ?」
「…わからない。しかし、このままでは肉体のほうにも影響がでる。早く彼女の霊体を戻して、治療します」
冷静に観察と判断をしながらも、蔵馬の顔は苦渋に満ちていた。
その奥には、焦燥と心の痛みがにじんでいた。
一刻も早く、満足に手当てができるところに。
「ここで治療もできるが、この騒ぎでは彼女を面倒事に巻き込むことになりかねん。人間界に行った方が安全だろう。枉鵬のことは、ワシが対応しておく。葵のことは…お前に任せてよいか?」
「わかりました」
蔵馬が彼女の体を抱え上げると、その肢体は異様なほど軽かった。
そして、ますます冷たくなっていた。
生きているはずなのに、まるで生き物でない何かをもっているようで、彼の喉の奥が詰まった。
彼女の存在が儚かった。
コエンマの指示で、蔵馬は人目につかない裏手の通路を走っていた。
そのとき、腕の中の透けていた葵の霊体が徐々に元に戻り始めた。
(…っ?これは一体…?)
疑問が脳裏をよぎるが、今はそれを追いかけている余裕はない。
まだ、最悪の事態を脱したわけじゃない。
死なせはしない。
彼女の命をつなぐため、蔵馬は人間界へと走った。
(もう少し、気を配っていたら良かったか…)
後悔が、胸の奥でゆっくりと軋んだ。
心の反応と同時に、頭の中は忙しく回転していた。
傷の状態も心配だが、霊体が透けていたという異常が妙に引っかかる。
霊体で受けたダメージが、大きいという理由だけではないような気がしてならない。
そして違和感をもちつつも、一人で行かせたことを後悔した。
そのとき、不意に蔵馬の思考がとまった。
らしくなく、感情的になっている自分に気づく。
そして心の奥底に、凍りついていた何かに、ひびが入る音とともに、小さく割れた。
「……っ」
彼は息をのんで、腕の中の存在を見た。
そしてその理由が、蔵馬の顕在意識に、ふっと浮上してきた。
(もう葵は、オレにとって家族のように守るものだったんだ…)
それも随分と前から。
彼の心を覆っていたものが、ガラガラと音を立てて崩れていった。
そしてそこに現れたのは、深く沈めていた葵への想いだった。
無意識で育てていた気持ちは、氷が溶けたことではっきりと芽を出していた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
人間界に戻ったら、すでに夜の帳が落ちていた。
蔵馬は自室のベッドに葵を横たえた。
万が一、誰かが大きく負傷した時に備えて、今まで彼女に魔界の薬草を運搬させていた。
使わないのが最善だったが、皮肉なことに、用意周到に準備していたものを、運んでいた葵自身に使うことになった。
更に、たまたま彼女の荷物の中に入っていた魔界の植物の中に、ジギタリスという強心作用に効果的なものがあったのも、彼女の幸運だ。
これなら救える、と蔵馬は思った。
(意識のない状態で、無理やり薬草を飲ませるのは、体に負担がかかる。外側から、治療をするほうが安全だ)
蔵馬は迷いなく動いた。
彼女の服の襟元を開くと、鎖骨下にジギタリスの葉を置いた。
そこに妖気を流し込む。
ドクンッと、手に伝わる葵の心臓の拍動が強くなった。
青ざめていた肌が、ほんのりと赤みを取り戻してくると、冷たい体温が徐々に復活し始めた。
とりあえず最悪の危機的状況の峠は越したと、彼は安堵の息を吐いた。
霊体で受けた傷は、そのまま肉体にも反映されていた。
顔や腹部、手足など、殴られた箇所や皮膚が裂けた傷に手当てを施す。
首元の負傷と失血のためか、呼吸が浅い。
妖怪にしてはやや華奢な体は、戦闘能力ではなく特殊能力に特化しているためだろう。
人間よりは丈夫だが、今の蔵馬よりは脆弱だった。
葵の治療中、蔵馬はあることに気づいた。
今の南野秀一の肉体に、全盛期の妖力はない。しかし魔界の薬草に妖気を通しながら使うと、彼女の挫滅した皮膚組織が回復し、まるで縫い合わせたように、一部の傷がきれいに癒合していった。
(こんな芸当……いつからできるようになっていた?)
必死さゆえか、自分が考える以上に妖化が進んでいるからか。
そのことを確認する時間と余裕はなく、彼は迅速に目の前の小さな体の手当てを進めた。
人間界に戻ってきてから、葵の体が透けることはなく経過している。
一時的にしろ、彼がみたあの現象は何だったのか。
心の奥で、再びあの透けていく姿を見てしまうのではないかという、不安が燻ってきたが、とりあえず、今は目の前のことに集中した。
枉鵬は、明らかに自分を憎んでいた。ベラドンナの影響とはいえ、潜在的に狂暴性や攻撃性をもっていなければ、これほど彼女に危害はなかっただろう。
注意喚起をしていただけに、蔵馬の中に後悔が残った。
霊界に、彼女を紹介したのは自分だ。少なからず責任を感じる。
そして、思い出すのは、母が病に倒れたときのこと。
どうしても助けたいと願った瞬間。
その感情と、いま目の前の葵に向けている想いが、重なった。
自分よりも小さな体を介抱しながら、これほど心が痛むのかと思い知る。
妖怪として、生きてきたときには味わえなかった、胸の苦しさだった。
(今オレは……、誰も見たことのない顔を…しているんだろう)
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
数時間たった頃。葵のまつ毛が、かすかに震えた。
強い倦怠感に、瞼を開けるのも重たい中、ゆっくりと目を開けた。
鉛のように重たく、冷たい自分の体があった。
ぼんやりとした視界に映るのは、霊界で閉じ込められていた部屋と景色が違うものだった。
そう感じた時、右側から聞き覚えのある声が届いた。
「葵、わかるか?」
「…っく、蔵、馬」
やっと発した声に力はなく、か細くひび割れていた。音が出にくい。
そういえば、首を強く掴まれていたのを思い出した。
「……っ!」
突然ごほっと大きく咳き込む。
反射的に震える全身に、痛みが大津波のように押し寄せてくる。体中が悲鳴を上げる。
止まらない咳き込みに、より胸が上がって痛みが増強しないよう、葵は咄嗟に胸元を押さえた。
「今はしゃべらないほうがいいっ」
蔵馬は襟から背中に手を入れて、咳止めの薬草を肌に貼り付けた。
口の中に広がる、血の味。咳をするだけで、視界が歪み、体力を消耗する。
意識が朦朧とする中、ようやく咳がおさまり、痛みと息苦しさから少し解放された。
浅い呼吸を繰り返し、どうにか酸素を取り込む。その動きさえも、今は痛む。
「ここは安全だ。もうしばらく休むといい」
「……。」
蔵馬の声に安堵したのか、彼女ははぁと力なく息を吐くと再び意識を手放した。
その様子を見て、彼も長く息を吐いた。
意識が戻ったことに安心するとともに、か弱い体の侵襲から、まだ予断は許さない状態だとわかる。
彼は長い指で、目の前の小さい右手首の脈をとる。
(冷たいな…)
外は冬真っ盛りの季節。
部屋の温度を高くして、ベッドの中も保温の植物で工夫しているが、外側から暖めるのには限度があった。また衰弱した体に、強引に熱を加えるわけにもいかない。
今の蔵馬ができる最善を尽くした。
ここから先は、彼女の妖怪としての生きる力、自己治癒能力を信じるしかない。
「……ぅっ」
脈を確認していた彼の耳に、小さなうめき声が届いた。
蔵馬はすぐに葵の顔を見た。
月明かりに浮かぶ、小さく苦しむような表情に、体の中心がきゅっと痛む。
「…葵」
その名を、無意識に呼んだ。
静かな夜の部屋に、蔵馬の声が宛もなくさまよう。
(生きてくれ…)
胸の内に灯るのは、不確かな希望だった。