深夜を過ぎたころ、やっと葵の意識がしっかりと覚醒した。
瞼の裏を透かすように、満月近い銀色の光が差し込んでいた。
目をゆっくりと開けると、ほの暗く、静まり返った室内。
今が深い夜だと彼女はようやく気づいた。
視線だけを巡らせると、見慣れた蔵馬の部屋だった。
首を動かそうにも、痛みが強くて言うことを聞いてくれない。
声も出ずに眉をひそめると、視界の端に、彼の影が見えた。
(ずっと、ついていてくれたのね)
そのわずかな視線を感じ、床に座って目を閉じていた蔵馬が葵を見た。
「…起きたのか」
「…ええ」
「かなり痛むはずだ。大丈夫か?」
囁くような蔵馬の声は、いつもより低かった。
感情を包み込むような、抑揚のない音質だった。
葵はかすれた声で、ところどころ息つぎをしながら、ゆっくりと言葉を発した。
「あなたの忠告、聞いていたんだけど」
「オレのほうも…注意が足りなかった。今回のことは、コエンマが知らない所で仕組まれていたようだ」
「…そう」
(霊界の中でも、色々あるようね)
数時間前の出来事を思い出していて、長く息が漏れた。
傷が手当てされていることや、彼の部屋で寝ていることから、きっと蔵馬が助けに来てくれたんだろう。
死を覚悟していた彼女は、間一髪で命をつないだ。
「咳は、大丈夫か?」
「…ええ」
「奴は…、君をどうするつもりだったんだ?」
「洗脳して、利用すると…」
「そうか…」
「洗脳されて、霊界に使われている妖怪が、いると思う。たぶん、コエンマが…知らないところで」
霊界という大きな組織の中でも、個々の野心や利権がうごめいている。表では秩序を語りながら、裏では妖怪たちを秘密裏に使い、対立を煽る者もいる。
彼女が体験したことは、氷山の一角なのかもしれない。
しかし蔵馬にとって、それは重要ではなかった。
彼はしばらく黙っていた。
葵の様子を見ながら、次に言う言葉は決まっていた。
普段一つに結んでいる髪は、おろされていて、よりか弱い印象を与えた。
青く腫れた頬は、応急的に冷やし、薬草による湿布を施したが、しばらく続くだろう。
締め付けられて、紫色に変色した首も同様だった。
数か所切れた口唇は、乾燥して血の気が薄い。
改めて、人間に融合した自分よりも、ずっと繊細で壊れやすい存在だと、認識した。
「……葵。オレが君を見つけた時、君の霊体が透けていた。しばらくすると、元に戻っていたが…あれは、どういうことなんだ?」
「……。」
葵はぼんやりと天井を見つめていた。
驚いた様子はなく、その瞳は虚空を映しているようだった。
感情が全く読み取れない。
(君は、時々こういう目をする。まるで他人事のように、自分を遠くから見るように…)
それが蔵馬を割り切れない気持ちにさせる。年端も行かない妖怪の経験で、このように己を切り離して、観察することができるのだろうか。
息をするたびに、彼女の胸がかすかに上下する。
そのか細い動きに、彼は小さな体に手で触れて、生きていることを確実に確かめたい衝動が湧いた。それを理性で抑える。
「……っぅ」
葵は、一瞬咳が出そうになったのを感じた。ゆっくりと呼吸を繰り返していると、おさまった。
咳をこらえるように首と胸に力をかけると、体が悲鳴を上げる。
それをゆっくりとなだめた。
その様子を見ていて、蔵馬は自分の心臓が、何かに鷲摑みされているように痛んだ。
やや間があって、彼女は小さく話し始めた。
「私にも、よくわからないの」
「その話しぶりだと、初めてではないんだな?」
「人間界にいる時、体が透けることがあって…。魔界に戻ったり、植物や水から、気を分けてもらうと、回復していたの」
「…なるほど。君は、魔界の花から生まれているため、人間界や霊界に長く滞在することは、体に負担がかかるのかもしれないな」
「そう思うわ」
「霊界で君の体が透けていたが、改善したのはオレの妖気に触れたからか…」
「きっと、あなたの植物を操る能力の、おかげ」
彼の能力は、同じ「植物」を由来とする力。
葵の花のルーツと、蔵馬の力はきっと共鳴している。
彼ではなく、ほかの妖怪だったら、別の現実が待っていたかもしれない。
葵は自分で話したことで、気づいた。この命をつないだのは、決して偶然ではない。
(私は、この人だから、今生きている…)
まだ冷えている体が、ゆっくりと温かさを取り戻していくようだった。
何かせずにはいられない気持ちになった。
「蔵馬…」
葵は時間をかけて、苦痛様に表情をゆがめながらも、ほんの少しだけ首を蔵馬のほうに向けた。
そして、ようやく口元を緩めた。
見ていて止めようとしたが、彼女の強い想いが伝わって、蔵馬は静かに見守った。
葵の呼吸のわずかな温かさが、かすかに手にかかる。
「助けてくれて、ありがとう…」
首や表情筋を動かすだけでも、痛むだろう。
しかし、たったそれだけの言葉に、蔵馬の心の奥がふっとほぐれていく。
「……間に合って、よかったよ」
手遅れになるかと肝が冷えた。蔵馬の声が、いつもの穏やかな音に近づいた。
(今更だが、オレは彼女のことを自分から知ろうとしていなかった。いるのが当たり前の存在になっていたからというのは、言い訳だな…)
彼は覚悟を決めた。自然と、体の距離が近くなる。
今この瞬間、蔵馬は自らの意志で、これまで保ってきた距離を超えて彼女に踏み込んだ。
「葵。……休んでからで構わない。君のことを、色々と教えてくれないか?」
「…?」
「生まれてから今までのこと、体質や能力にどのような変化があったか、魔界での様子などなんでもいいんだ。君と訓練はしているが、それだけでは、わからないこともある。……何かオレに、できることがあるかもしれない」
表情を変えるのに痛みが出る中、葵は少し目を丸くした。
そのように言われるとは、思っていなかったという顔だった。
しばらく蔵馬を見つめて、今できる精いっぱいの微笑みを届けた。
「次に…目が覚めたら、何でも聞いて。私も…あなたのこと、もっと知りたい」
「……。」
蔵馬は静かに頷いた。深い瞳が、彼女に無言の言葉を贈る。
(もう……休むといいよ)
やがて、葵はまどろみの中へ沈んでいった。
彼は静かに、その寝顔を見守っていた。
まだ、世間知らずと言っていいほどの年齢。
それにしては、どこか達観したような雰囲気と、意志が強いところもある。
そうかと思えば、妖怪にしては少し線が細い印象もある。
出逢ったころに比べたら、妖気を感じるようになったものの、妖怪らしからぬ掴みどころがない存在に感じることもある。
葵は、まるで風のように、水のように、形無く、すっと蔵馬の心に入り込んできた。
最初から、そこにいたかのように。
(……想いを伝えるかどうかなんて、今はどうでもいい)
ただ葵を、この手で守りたいと思った。
なぜだろう、火がついたように胸が熱くなった。
これが切ないという人間の感情だと、改めて認識した。
蔵馬は胸に灯る熱を、抱きしめる。
今度は…気づかないことなんて、できない。
長い指先が、ためらいがちに葵の右手に触れる。
その肌は、腫れた頬に比べて冷たい。
それでも、数時間前よりも温かくなっていた。
彼はそっと小さな手を包んだ。自分の熱が、葵を温めるよう願った。
彼女を見つけたあの日。時間が一瞬止まった。
あの瞬間がなければ、きっと、この気持ちも知らなかった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
朝の光が、薄いレースのカーテンを柔らかく透かしながら、静かに部屋へ差し込んでいた。
目を開けた葵は、一瞬どこにいるのか分からず、まばたきを繰り返す。
覚醒を始めた脳が、朝だと伝えた。
(ここは……?)
曖昧な記憶をゆっくりと巻き戻す。
断片的に、霊界での出来事と蔵馬に命を救われたことを思い出した。
無意識に、はぁと息が漏れた。
ベッドのすぐ横の窓は、遮光カーテンが引かれていて、反対側の窓からレースのカーテン越しに日差しが入っていた。
室内の時計は9時。人間界では出勤、登校が終わり、社会が活発に動く時間帯だ。
ここだけが、取り残されたように静かだった。
葵はゆっくりと首を動かして、周りを見渡した。
昨夜動かすのが難しかった首は、かなり痛みも取れて動いてくれた。
部屋には自分一人、手当てをしてくれた蔵馬はきっと学校だろう。
小さく息をつきながら、改めて部屋を見た。
東の窓際には本棚と机があり、卓上は小物以外ほぼ何も置かれておらず、すっきりと片付いている。持ち主の性格がよくわかる。
自分が寝ているベッドは、机から離れた壁際にある。他にはタンスと棚、そしてテレビが一つずつとシンプルな部屋だった。
蔵馬らしい無駄のない、機能的な空間。
妙に落ち着くのは、きっと彼の気配がそこかしこに残っているからだろう。
部屋の隅に、葵の鞄が置いてあった。霊体を肉体に戻した時に、きっと彼が運んでくれたのだろう。
(どうやって探したのかしら。洞窟に体を置いていたのを、よく見つけたわね)
そのとき、視界の右端に、ふと色が差し込んできた。
ベッドの横の白いローテーブル。その上に置かれた花が目に入った。
鉢の中に、一種類の花がたくさん咲いている。花びらの中央から先にかけて、青紫色のグラデーションになっていて、思わず触れたくなるほどきれいだった。
葵は慎重に体を起こした。
頭はまだふらつくが、起き上がるのに支障はなさそうだ。
音がしないように窓のカーテンを開けると、まばゆい朝の光が、部屋全体を包んだ。
そしてベッドに座って、花を見つめる。
「……そう、蔵馬が置いてくれたのね」
青紫色の花からの言葉を受け取った。
その名前はわからなかったが、ほのかな香りを嗅いでいると、妖力が安定するのを感じた。
葵はゆっくりと立ち上がった。ベッドに沈む体をどうにか手で安定させるまで、少し時間がかかった。
(少しふらつくけれど…もう、大丈夫)
彼の介抱のおかげで、半日たって全身の痛みは半減した。
いつの間にか着ていた、大きめの薄緑色のパジャマ。
家庭的な匂いに混ざって、蔵馬の匂いがした。
ここにいなくても、守られているように感じた。
力のない指で上着のボタンをゆっくりと外し、改めて自分の傷を確認する。
打撲跡はあるものの、裂けた傷はほぼ塞がっていた。
体に触れていると、薬草の香りが微かに鼻に届く。
ふと肌にこびりついた出血が、部分的に拭き取られているのに気づいた。
(丁寧な人ね)
治癒の技術もさることながら、そこに込められた「気遣い」が、心に染みた。
彼の手が、自分の体を丁寧に扱ったという事実が残っている。
それと同時に、昨夜、彼の指が自分の手にそっと触れた気配を、肌が思い出した。
(ありがとうを超える言葉があれば、それを贈りたい)
言葉に表せない優しい感情が、葵の中に生まれた。
喉が渇いていたのを思い出し、部屋を見渡すと、花の横に置かれたピッチャーに気づく。
静かに水を注ぎ、グラスを持ち上げて一口。
澄んだ水が喉を潤し、体の隅々まで行き渡っていく。
「はぁ…」
蹴られた腹と喉は痛むが、渇きが癒えて、頭がクリアになった。
グラスを置くと、ピッチャーの横にある小さな白いメモが目に留まった。
『大人しく寝ていること』
筆跡は軽めだが、柔らかく芯があって読みやすい。
蔵馬の声が聞こえるようで、思わずふっと笑みがこぼれた。
本当に抜け目のない男だった。
(ちゃんと、大人しくしているわ)