授業を終えた蔵馬は、部活を休んで早々に帰宅した。
霊界から戻って、20時間以上。葵の容態がどの程度回復したか、気になっていた。
彼女の言葉を思い出しながら、玄関から無言で階段を上る。
魔界以外で肉体を維持するのには、限度があることがわかった。
なるべく早く、無理なく魔界に帰すほうが安全と考え、彼は数日で回復するように治療計画を組んでいた。
部屋の前に立つと、扉越しに彼女の気配が微かに感じられた。
静かな呼吸音からは、まだ眠っているようだった。
音もなくドアを開け、そっと部屋に入る。
そこには、自分のベッドに静かに横たわる葵の姿があった。
まだ少し呼吸は浅いものの、昨夜に比べて明らかに規則正しい音だった。
(これでもう大丈夫だな)
胸の奥が、ふっと和らいだ。
首を絞められた傷の内出血は、包帯で覆った範囲を超えて拡大していた。
新たな出血ではなく、生理的に時間を追って表面化するものだった。
それでも、顎から鎖骨の近くまで青紫色に変色している様子が、痛々しかった。
まるで薄墨を垂らしたように広がる色に、蔵馬は無意識に目を細めた。
視線を移すと、ピッチャーの中身が半分に減っていることを確認した。
それは、水が飲めるところまで回復した証。
薬を煎じて、体内から治療する手筈はこれで整った。
鞄を机において、中身の整理をする。
明日までの課題を手早くすませて一息ついていると、蔵馬は右側から視線を感じて、そちらを向いた。
目が合った瞬間、穏やかな表情になった自分に気づく。
「…おかえりなさい」
ベッドの上から、葵の細い声が聞こえた。
まだ少しかすれていたが、その響きには、昨日無かった柔らかさが宿っていた。
横になりながら彼を見上げる双眸は、少し伏し目がちで、目覚めた直後の余韻を残していた。
頬の腫れはまだ残るものの、いつもの優しい表情の葵だった。
「…起こしてしまったかな」
蔵馬は声を落とし、そっと歩み寄った。
気遣うように彼女を見つめるその目には、隠しきれない安堵がにじんでいた。
彼女はゆっくりと、上半身を起こした。
肩からさらりとこぼれた髪が、陽に透けて柔らかく揺れる。
その姿は、痛みの中にありながらも、楚々とした美しさと儚さを同時に感じさせた。
彼は、空気が微かに震えた気がした。
「だいぶ回復したわ。あなたのおかげよ」
その言葉に、蔵馬はわずかに目を細めた。
「オレの予想より、良くなっているようだね」
返答の代わりに、葵は微笑んだ。そして白いローテーブルに視線を移した。
彼もそれを追った。
「花、置いてくれてありがとう。妖気が回復したわ」
「サイネリアといって、冬でも育つんだ」
「可憐な花ね…。でも、芯が強い」
彼女の背中側から西日が入り、花びらと葵の顔を夕焼け色に染める。
朝に比べて、葵からは妖気を感じ取れるようになった。
彼の予測では、もう一日養生すれば魔界に戻れるほど回復する。
(あらかじめ念を押さないと、明日朝にでも魔界に戻ると言いだしかねないな)
彼女は、自分の体の状態に対してやや無頓着だから。
「もう一日、休んでいったらいいよ」
「家族もいるんでしょう?」
「そこは心配しなくて大丈夫だ。工夫してある」
蔵馬は軽く微笑んだ。
決して心配や遠慮を煽らぬよう、淡々と、確信をもって。
「…あなたの寝床を占領していることに、気が引けるの」
「オレは別の部屋で休むから大丈夫だよ。今の妖力じゃ、亜空間の移動も円滑にいかないんじゃないか?」
彼の言葉は、冷静で的確だった。
それは理屈ではなく、彼女を守るための最も穏やかな説得だった。
この脆弱な状態で外に出れば、人間界や魔界で、ほかの妖怪の格好の餌食になる可能性が高い。
葵は力のない瞳で、まっすぐ彼を見つめた。
誠意ある真摯な眼差しが、彼女を迎える。言葉を介さなくても、彼の想いは伝わった。
彼女はふっと小さく笑った。
「主治医の言うことに、従います」
(言って正解だったな)
葵を守るという想いは、自分が戦うよりもずっと繊細だった。
言葉の裏や、言葉のない領域にまで気を配る。
それでも、彼女が笑ってくれたことが、何よりの答えだった。
一つ安心したのも束の間、蔵馬はあることに気づいた。
「…ちょっと、失礼するよ」
その声は、ほんのわずかに息を含ませながら紡がれ、柔らかく、慎重な音だった。
蔵馬の手が、そっと葵の額に触れたとき、指先から静かな熱が、心の奥にまで届いたような気がした。
比べるまでもなく、明らかに高い体温。しかし彼は、すぐに言葉にはしなかった。
葵の体質を思い出していたからだ。
生まれて間もない彼女は、寒さの自覚が乏しく、真冬にコートを着ずに過ごしていたのだった。
外気温の感覚だけでなく、体の感覚全般がまだ未発達のようだった。
「……やっぱり、熱があるね」
「…この体が少し熱いのは、発熱なの?私、初めて経験するわ」
葵の問いかけは、昨夜のようにどこか他人事で、それがまた蔵馬の胸に静かな波紋を広げた。
手のひらに感じる熱からして、間違いなく38度は超えている。
「あれだけの傷だ。昨日の今日で、生理的に出てもおかしくない。今はゆっくり休んだらいいよ」
顔が赤いと感じていたのは、夕日のせいではなかった。
蔵馬は、自分の無意識を少しだけ悔いた。
ちょうど薬を煎じるところだった。
傷の回復と貧血、発熱に対応した薬草を準備しようと、棚を開けた。
「何か食べれそう?」
「きっと…今は体が受け付けないわ」
腹部を強打された影響で、消化機能が衰えていた。
葵はゆっくりと息を吐きながら、時々こみ上げる出血混じりの唾液のことを、小さく付け加えた。
(腹部のダメージも強そうだな…)
「それじゃあ、胃に負担の少ない薬を用意するよ」
蔵馬は机の前に座ると、道具を並べ、薬草を手に取る。
その動きは正確で、美しいまでに無駄がなかった。
配合しながら、空で計算をしているようにも見える。
葵はベッドに体を横たえると、右側を向いて蔵馬の様子を静かに眺めていた。
(頂きすぎるほど、良くしてもらってるわね)
一年前に、まさかこんな未来が来るとは予想していなかった。
出逢った時、彼の心は他者を寄せ付けない印象があった。
それが今はどうだろう。
彼の方から手を差し伸べるように、心の距離が縮まってきている。
(不思議な縁ね…)
少しぼんやりとする中、葵の意識は彼と出逢った冬を思い出していた。
短髪だった蔵馬と、今の蔵馬が重なって二重に見える。
「そんなに見つめられると、配合を間違えそうだよ?」
再び感じた右側からの視線に、蔵馬は横を向いた。
もちろん、この男が配合を間違えるようなことをするはずがない。
しかし、敢えてその言葉を使うのには、深い真意がいくつもある。
きっと、彼女はそれに気づかないだろう。
彼は、それでもかまわない。
「蔵馬の有能さに、見惚れていたの」
「……そんなに有能でもないさ」
いつもと雰囲気が違う葵に、少し戸惑っている自分に気づいた。
発熱のため上気した顔、やや虚ろな瞳。
安心して事態を任せている彼女は、とても無防備で、自分を信頼しきっている。
そしていつも以上に柔らかく、どこか頼りなさげに感じた。
もちろん、それを表面上に出さず、何食わぬ顔でいるのが彼らしい。
しばらくして、薬ができあがった頃には、葵は静かに眠っていた。
昨日のような苦しい顔ではなく、穏やかな寝息が聞こえている。
「……。」
起きて、薬を飲んでほしいところだが。
(もう少しだけ、このままでいてもいいだろう)
心の奥に生まれた、説明のつかない感情。それが蔵馬を椅子に留まらせていた。
決して乱れないように見える冷静沈着の心に、静かに、ゆっくりと、波紋が広がっていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
蔵馬の薬のおかげで、葵は深夜近くまで眠っていた。
暗がりの中、様子を見にそっと部屋に入ると、彼女は起きていた。
部屋の中は月明かりに照らされ、静寂に包まれている。
窓の外には、澄んだ夜空に、何かが生まれる気配がする満月が浮かんでいた。
その光は、昨日よりもはっきりと彼女の輪郭を映し出していた。
「熱はどう?」
ベッドの上で体を起こしていた葵は、ゆっくりと顔を向けた。
「少し下がったみたい。楽になったわ」
先ほどより彼女の表情はよく、呼吸も安定している。瞳にいつもの光が戻ってきた。
薬の効果で、深く休めたようだった。
「この水、日中に飲んだものと違う?」
そう言って、彼女は水を飲み干したグラスを見つめた。
「ああ。薬効の高い香草を入れておいたんだ」
花から生まれた彼女の体質と、相性が良さそうなものを考えた。
水に溶けた成分だけでなく、香りから彼女の妖気を整えることができるだろう。
抜け目がないだけでなく、蔵馬は配慮深かった。
「いい香り。美味しい」
その声には、心からの安堵と、どこか嬉しさが含まれていた。
自分のしたことに対して、素直な反応が返り、蔵馬は目を細めた。
「なんだか、至れり尽くせりでいいのかしら?」
「オレがしたくてやってるんだ。遠慮することはない。隣の部屋で休んでいるから、夜中でも何かあれば言うといい」
「それじゃあ、一つ」
葵はゆっくりとベッドに横になって、蔵馬を見上げた。
予想外に、柔らかくまた反応が返ってきた。
彼は静かに言葉を待った。
「…眠るまで、少し話したいの」
「疲れないかい?」
「ほんの少しの間だけ」
幾千の経験と知識を持つ彼でも、想像の域を超える申し出だった。
何かを求められるのは、思っていた以上に嬉しいことなのかもしれない。
それが何気ない会話でも、そこに自分を必要とする気配があるなら、尚更に。
蔵馬は少し驚きつつも、その願いを受け取った。
「…わかったよ」
葵はありがとうと笑った。
彼も、彼女に聞きたいことが色々とあったところだ。ベッドの横に腰を下ろすと、目線の高さが同じになった。
花のようなほのかに甘く柔らかい香りが強くなり、彼の心臓が一瞬反応した。
『蔵馬の植物を扱う能力って、生まれた時からあったの?』
『いや、妖狐になってからだよ』
『それから強くなった?』
『どうだろうな。ただ盗賊をやっていて、必然的に強くなっていた。魔界では、強さこそが全てだからな』
『私も、もう少し強くなれるかしら?』
『君はまだ生まれたばかりだから、未知の可能性を秘めている。努力次第で強くなれるさ』
『良かったわ』
『葵は、強くなりたいんだね』
『自分の能力的に、戦い向きじゃないことはわかるの。だから、できる範囲で、もう少し身を守れる力をつけたいわ』
『そうだな。オレもその方が安心だ』
『心配してたの?』
『今回のことがあったから、尚更だな』
『そう。ありがとう』
『この1年で、能力や体質に変化はあった?』
『前より体力が増えたのと、治癒もできるようになったわ。体質的なことは…、相変わらず感覚は鈍いのかしら?』
『うん……。そうかもしれない』
『これは、改善するの?』
『時間が解決するか…君の元々の体質や、気質かもしれないね』
『…蔵馬、今思い出し笑いしてるでしょ?』
『……そんなことないよ。そういえば気になっていたんだけど、葵は魔界でどうやって生活していたんだ?』
『私、占断ができるの。それで稼いで生活しているわ』
『それは知らなかったな。オレもみてもらおうかな』
『あなたには必要なさそうに見えるわ。でも、もしみるなら、現在、過去、未来のどれを見たい?』
『現在だ』
『…今のあなたは、あなたらしく深く生きているから、そのまま信じた道を生きて大丈夫よ』
『…そうか。そいつは心強いな』
『……やっぱり、蔵馬と話すの楽しいわ…』
彼の声は柔らかく、守られているような安心感があった。
彼女の口唇が、ゆっくりと微笑みにほどけていく。花色のまつ毛がゆっくりと瞬きを繰り返す。
それは、夜に咲く一輪の花のように静かで、美しかった。
その言葉を最後に、葵の瞼は閉じたままになった。
蔵馬は、花が静かに眠るような柔らかい寝顔をしばらく眺めていた。
同じ目線で交わす会話は、どこか夢のように静かで、心地よい時間だった。
この一刹那が、悠久の時のように感じた。
離れがたい、もう少し側にいたい。そんな素直な感情が、胸の奥から湧き上がる。
こんな気持ちになったのは、初めてだった。
AI画像では、湿布が反映されにくいようです。画像作成は奥深いです。