やがて夕暮れが過ぎ、時計の針が6時を回る頃。
「送ってあげてね」
母から念を押されたのもあって、蔵馬は葵を送っていくことになった。
本来付き添いが不要なのは、お互いわかっている。
しかし、彼自身それも悪くないと思った。
そして葵も何も言わなかった。
行く当ては特になく、蔵馬と葵は、肩を並べて夜道を歩いていた。
冷たい空気に白く染まる吐息が、街灯の下で淡く揺れていた。
「コート、準備できたんだったね」
彼女は制服の上に、白のダッフルコートを着ていた。
色素の薄い髪と、馴染んでいた。
「店員の女性にね、『寒さに気づかなくて、コートなしで冬を過ごしていたら、親切な同級生がコートを貸してくれた。コートが準備できたら返して、ということだったので、コートを買いに来た』って話したの。そうしたら、とても親切に選んでくれたの」
「……。」
蔵馬は返答に迷い、思わず微笑んだ。
去年、彼が気まぐれで葵にコートを貸したことが、今こんな形で還ってくるとは思わなかった。
彼女のまっすぐな言葉を聞いて、店員の女性がどんな反応をしたのかまで、簡単に想像できてしまう。
彼女は計算しない、飾らない、ただ、真実をそのまま口にする。
その無垢な力に、何度も脱帽させられる。
制服姿の葵は、どこか懐かしくもあった。
出逢ったのも、一年前の冬。
あの頃は、まだお互いの身長差も今ほどなかった。
あれからいろんなことがあって、蔵馬を取り巻く環境も変化した。
飛影と出会い、葵と出会い、母親の病気から霊界三大秘宝を盗み、その後幽助たちと知り合い、仲間と呼べる存在が増えた。
不思議なめぐり合わせで、あの霊界との縁も続いている。
気づけば、妖怪としての蔵馬でいることが増え、南野秀一と蔵馬のハイブリットが程よく進み、今の蔵馬になっている。
そんな人生の過渡期に、葵は居合わせた。
(偶然にしては、できすぎているな…)
想いを巡らせていると、歩みを止めた彼女が空を見上げていた。
「きれいね」
蔵馬もその視線を追って、夜空を見上げた。
淡く小さい雪が、ちらちらと降ってきた。
しんとした静けさの中、二人の吐息と小さな雪の粒が、夜をやさしく染めていた。
どこか懐かしいような光景に、蔵馬はそっと隣の葵に視線を移した。
彼女は、両手で小さな雪の粒を受け止めている。
その仕草は、あまりにも自然で、懐かしかった。
(前にも、そうしていたな)
彼の記憶の中にある、冬の道で空を見上げていた葵と今の彼女の姿が重なった。
「雪って不思議ね。手に触れた時は、ひんやりしてるのに、溶ける直前に、ほんのり温かく感じるの」
「葵は雪が好きなんだね。去年も、雪が降る空をゆっくり眺めていたよね」
「あの時は、雪の声を聞いてたの。人間界は、魔界にいるときよりも自然の声がよく聞こえるのよ」
ようやくわかった。
一年前、彼女が道の真ん中で静かに空を見上げていた理由。
葵の言葉や仕草の一つ一つが、彼の世界の見方を静かに変えていく。
何気ない景色に、優しい意味を添えるように。
彼女は嬉しそうに目を細めて、何かを感じ取っているようだった。
「今は、どんな風に聞こえるの?」
「ふふ。…内緒」
そう微笑みながら、星のない夜空から降る雪を見上げる彼女の頬は、少し赤かった。
今日は特に冷え込む。マフラーをしている自分に対して、彼女は白いコートに制服のスカート。寒くないはずがない。
蔵馬は、彼女がまた寒さに気づいていないのではと思った。
冬の道は、歩みを止めた途端に冷え込む。
「寒くない?」
「気持ちが温かいから、寒く感じないわ」
白い息を吐きながら、葵は片方の手のひらを、蔵馬の頬に当てた。
無意識のやさしさだった。
外気温で冷えた彼の頬より、彼女の手は温かく、柔らかだった。
彼は、少し驚いて彼女を見下ろす。
葵の些細な言動にも、心の奥がふわりと波打つことに再び気づいた。
この人は、どうして、何のためらいもなく人に触れられるのだろう。
驚きと、安らぎと、名前のない感情が同時に胸に広がった。
やがて蔵馬の頬から手は離れ、葵は両手を自分の胸元でそっと重ねる。
「私ね、霊界で襲われたとき、一瞬…もうだめかと思って諦めたの」
彼は静かに彼女の言葉を聞いていた。
その口元から言葉と共に生まれる白い息が、丸くてきれいで、夜に溶けていく。
「でも…あなたが助けてくれて、私は生かされた。蔵馬。あの時、助けてくれて、本当にありがとう。今生きていること、今こうしていられることが、とても嬉しい」
(本当に…生きていてくれてよかった)
彼女の声は、生きる喜びを穏やかに届けていた。
笑顔でそう言ってくれることが、どれほどの贈り物かを、彼は知った。
胸に、柔らかな温かさが広がっていく。
(全く…かなわないな)
彼の頬に、葵が触れたぬくもりがわずかに残っていた。
淡い夢のようなひととき。
この優しい時間をもう少し続けたかった。
「…もう少し、歩いていこうか」
「?」
「たまには、こういうのもいいだろう?」
「…そうね」
葵は嬉しそうに答えながら、歩き出す蔵馬の隣に並んだ。
その後しばらく、ところどころライトアップされた冬の夜道を二人は静かに歩いていた。
道路に落ちると、すぐ消えるほどの淡い雪は、ちらちらと降り続く。
気の利いた会話も、取り繕うような言葉もない。
ただ隣にある。それだけでいい。
蔵馬は、持っていた傘を開こうとしなかった。
傘をさすと、空から降る雪が見えなくなる。
きっと彼女はこの光景を見ていたいだろう。
そしてそれ以上に、雪が、今この瞬間を、そっと包んでくれているように感じたからかもしれない。
ゆっくりと、彼は自分の歩幅よりも小さく歩く。
この時間の名残を愛おしむように、隣の彼女に合わせるように。
側にいるだけで、心が満たされる。言葉がなくても、通じる静かな共鳴。
それを知ったのは、葵に出逢ってからだった。
ふと思う。
こんなに近くにいて、手を伸ばせば、すぐに捕まえられるところにあるのに。
触れるのをためらってしまうのは、なぜだろう。
胸の中で問い続けると、答えがもうそこにあった。
(これは…奪うものでも、手に入れるものでもない)
そして近くにあるものほど、手を伸ばすのをためらうこともあると知った。
それは、盗賊をしていた自分がいたからこその発見だった。
隣を歩くこの温もりを、大切に、大切に、守りたくて。
蔵馬はただ静かに、その温もりとともに歩き続けた。
雪からの言葉はこうだった。
『あなたの隣にいる人に、今生きている喜びを伝えてみて』
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
街灯に照らされて、淡く輝く夜の雪が、静かに舞っている。
蔵馬はひとり、住宅街の端を歩きながら空を見上げていた。
さっき、葵が空を見上げていたように。
吐く息は白く、ますます冷え込んだ夜になった。
しかし、その胸の奥は、別の温度を保っている気がした。
彼女は、もう魔界へ戻っただろうか。
それとも、今も同じようにこの空を見ているんだろうか。
(……好奇心で声をかけたのは、オレからだ。しかし……近づいてきたのは、彼女の方だ)
一年前にめぐり逢ったときのことを、思い出す。
始めは、ただの好奇心だった。
少し霊感があって、どこか人間界になじんでいない不思議な感覚と、感性を持っていたという印象があっただけだった。
今から思えば、葵は誰よりも純粋で、透き通っていた。
そんな彼女が、静かに、不規則に近づいてきた。
そして、すっと自然に蔵馬の境界線ごと包み込んで、隣にいた。
(……君は、あっけないほど静かに、オレの中に入り込んだんだな)
吐く息は白く揺らいで、夜の冷気に溶けていく。
彼は、凍える空気の中に葵のぬくもりの面影を見る。
彼女の体温、目線、言葉。
どれも今、思い出したように蘇って、蔵馬の胸をゆっくりと満たしていく。
(もう少し……あと少しだけ、君の近くへ行けるなら)
雪は静かに降り続ける。答えのようで、沈黙のようで。
蔵馬は、夜の冷たさのなかに、彼女の光を探していた。
それはまるで、冬の星だった。
遠くて、少し儚くて、それでも確かに、彼の空に光っている。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
帰宅後、蔵馬がコートをかけていると母親が声をかけてきた。
「葵さんは、また来るかしら?」
その言葉に、蔵馬は少しだけ首を傾けて振り返る。
「よっぽど彼女のことが気に入ったんだね」
「女の子がいたら、きっとこういう家庭なんだろうなって。疑似体験ができたみたいで……嬉しくて」
今度ご飯食べて行かないかしらと続ける母を、蔵馬は静かに見ていた。
ほんの少しの間を置いて、母の口から続いた「嬉しかった」という一言。
その声音に込められた、穏やかな幸福感。
それを受け取ったとき、蔵馬は、自分でも思いがけないほど、心が温かくなっているのを感じていた。
その感情は、確かな輪郭を持ち始めていた。
(こんなに喜んでくれるとはな…)
母以上に、自分が喜んでいるかもしれないと思った。
蔵馬は、葵と母親が話す様子を眺めているのが、心地よかった。
こんな気持ちになったのは、初めてだった。
「それにね、あの子って秀一のことを、表面的に褒めたりしないところが、すごいなって思ったのよ」
「表面的って?」
「秀一は幼稚園のころから、ちょっと女の子から人気があったでしょ?同級生のお母さんにも、外見や成績のことでよく褒めて頂いていたけど、葵さんは秀一のこと、そんな風に言わないの。秀一の人間性を、ちゃんと見てくれている気がするわ」
その言葉に、蔵馬は静かに目を伏せた。
思い返せば、葵は一度も彼の表面的な「優秀さ」について、話すことはなかった。
自分でも意識していなかった母の観察眼に、心の中で賛同した。
「大人びているというか、しっかりしているというか。それも嬉しいのよね。武道をしているから、精神的に大人なのかしら?きっと素敵なご両親に育てられたのね」
「素敵なご両親に育てられた」という言葉に、先日葵に「お父さん」呼ばわりされた会話を思い出し、蔵馬はふっと微笑んだ。
「そうだね…。葵に伝えておくよ」
息子の言葉に、母親は目を細めた。
(呼び捨てで呼んでいるなんて。秀一が心を許している子がいるって、なんだか嬉しいわ)
自然に口をついて出たその言葉に、母が目を細めるのを見て、蔵馬はようやく気づいた。
自分は今、誰かを心から大切に思い、その存在を家族のように感じている。
それはこれまでの自分にはなかった、静かで確かな変化だった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
おまけ♢
駅の少し手前の人通りの少ない路地で、蔵馬は足を止めた。
人の声も、車の音も遠ざかったその場所には、二人だけの静かな空気が流れていた。
「この辺でいいかな」
「今日は楽しい時間をありがとう」
「こちらこそ」
そう言って、蔵馬は葵の髪にそっと手を伸ばす。
雪が、ふんわりと柔らかく彼女の髪に舞い降りていた。
指先でその白い粒を払うと、ほんのりと濡れた髪が指に触れた。
すべらかでしっとりとして、夜露に濡れた花びらのように、繊細で美しい感触だった。
「蔵馬、屈んで」
「はい」
ためらいなく腰を落とすと、自然と目線が彼女と同じ高さになる。
彼女の手が、今度は自分の髪に触れる。
指先はあたたかく、くすぐったくて、不思議と心地よかった。
その穏やかさに包まれながら、彼は次の葵の一言に小さく笑う。
「ん?蔵馬、いつの間に大きくなったの?」
(今認識するのも、君らしいな)
「1年前より、10cmは伸びたよ」
目線を合わせながら、わざとらしく上目遣いで笑ってみせる。
その仕草に、彼女が表情を変えるのを見逃さなかった。
真顔でゆっくりと手を下ろしながら、ぽつりと呟いた。
「…なんだか、ずるいわ」
自分は伸びていないのに、という声が聞こえてきそうだ。
その表情の変化が子供のように素直で、微笑ましい。
飾らない言葉を届けてくるところも、彼の心を惹きつける。
「この方が、色々と都合がいいんだ」
蔵馬は、背筋を伸ばして微笑んだ。
「色々と都合がいい」
この彼の含みのある言葉の真意を、葵は知らない。
今回のお話しで、4章終了です。
このシーンは、個人的にも好きなところでして。
沈黙と行動で、静かに愛情を結晶化する蔵馬が表現できていれば嬉しいです。
自分の内面を多くを語らない彼の、成熟した愛情表現は、書いていてとても楽しいです。