第18話
闇の力を使い、富を築いた裏社会の富豪や実力者たちが、よりすぐりの魔性最強メンバーを集めてバトルを繰り広げる史上最悪の格闘技戦がある。
それは、暗黒武術会と呼ばれていた。
この大会は、ゲストとして人間が招待される。
今回のゲストの中に、霊界探偵に協力した蔵馬も含まれていた。
2月中旬。
大会を一か月後に控え、蔵馬は特別訓練の指南役としての時間を増やしていた。
相手は桑原和真――共に出場する幽助のライバルにして、粗削りながら霊力の伸びしろが大きい男だ。
その日も、彼は桑原といた。
同じ頃、葵は飛影の依頼品を届けにいっていた。
待ち合わせ場所は、たいてい街から離れた林の中。
程なくして、疾風のように黒い影が現れた。
「それか」
手短にやりとりをして、差し出された包みを受け取る。
次の瞬間だった。
空気が変わる。あからさまな殺気が三つ。
林の奥から妖気が噴き上がった。
木々の影を裂いて、三体の妖怪が姿を現す。
いずれも飛影を狙っていた。
彼は跳躍して葵から離れると、即座に剣を抜いて向かって行った。
「飛影!」
思わず叫ぶ葵に、彼は振り返らず言い放つ。
「死にたくなければ、お前はよそへ行け!」
瞬く間に、刃と刃がぶつかり合う甲高い音が林に響いた。
一対三。
飛影は圧倒的な速度で間合いを詰め、かわし、斬りつける。
しかし敵もただの雑魚ではない。
三体のうち二体は、力量的に彼と拮抗しているように見えた。
葵は木の陰に身を潜め、息を殺す。
目で追うのがやっとの速度。
土がえぐられ、幹が裂け、妖気が火花のように散る。
――長い。
十分ほど経っても、決定打が出ない。
飛影の動きに、わずかな遅れが混じり始めた。
「飛影!」
刃がかすめる寸前の光景に、胸が強く脈打つ。
――このままでは、飛影が危ない。
そんな直感が葵の背筋を走り抜けた。
目が離せない攻防の中、彼女は決断する。
(これくらいしか、できないけど……)
妖気を一点に集め、両手で押し出す。
衝撃波が空気を震わせ、三体の妖怪を弾き飛ばした。
「余計なことを!」
苛立たしげに舌打ちをしながらも、その隙を逃さない。
体制を整えた飛影が、一体に斬り込み、致命傷を与えた。
俊敏な身のこなしと剣技は、蔵馬とは異なる強さを持っていた。
その格闘センスに感嘆していると、葵はある異変に気づいた。
飛影と対峙していた残り二体のうち、一体がいない。
(……どこにっ)
答えは言葉ではなく、体感でやってきた。
突如、ざしゅっと肉の裂ける鈍い音とともに、焼けつくような痛みが葵の背中に走った。
視界が白く霞み、鼻をつく焦げた血の匂いがした。
膝が崩れ、地面に倒れ込む。
その背後に、一体の妖怪が大きな剣を構えて、にやりと嗤いながら立っていた。
青白く光る刃から、赤い雫が滴り落ちる。
満足そうに鼻をならすと、妖怪は再び飛影に向かって行った。
(……だから言ったんだっ)
応戦しながら横目で見ていた飛影は、舌打ちをした。
葵の背中は、異様に熱かった。
ただ切られたにしては、何かがおかしい。
「っう……」
妖気が抜けていき、中から分解されていくようだった。
呼吸が荒くなり、力が抜ける。
視界に映る、指先が透けていく。
(このままでは、体がもたない……)
焼けつくような衝撃と虚脱感に、立ち上がることができなかった。
それでも。
葵は残った妖気を、すべて集める。
指先が震える。一か八かだった。
その直後。
飛影が最後の一体を斬り伏せたとき――
そこに葵の姿はなかった。
地面に残るのは、彼女の出血の名残と、踏み乱された足跡だけだった。
「……。」
林に一陣の風が吹き込み、木々がうごめく。
飛影は無言で剣を鞘に収めると、額のサラシを取り去った。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
その翌日。
蔵馬が高校から戻り、自室の戸を閉めたその直後だった。
空気がわずかに揺れ、疾風のような気配。
反射的に窓辺を向くと、すでに黒い影が立っていた。
蔵馬は、静かに窓を開ける。
「飛影。どうしたんだ?」
机の上に鞄を置きながら、彼は平静と問いかけた。
飛影は開け放たれた窓際に立つと、彼の予想しない一言を発した。
「お前が最後に、葵を見たのはいつだ?」
低く、少しずつ発せられる声に、一瞬思考が止まる。
「……1週間ほど前だ。彼女がどうかしたのか?」
喉の奥で、彼は声を選ぶ。
含みのある言い方に、嫌な予感がする。
飛影はすぐに答えなかった。
沈黙が、部屋の中に沈殿する。
その間だけで、十分だった。
(ただの確認じゃない)
飛影の性格上、必要がなければ訪問することはない。
そして口から出たのは、葵の名前。
胸の奥で、ひと月前の記憶がゆっくりと鎌首を持ち上げる。
蔵馬は、心が急速に凍りついていくのを感じた。
やや間があって、飛影は遠くの空へ視線を向けた。
「あいつ……負傷した体で魔界に帰ったのか」
「……どういうことだ?」
中性的で繊細な声が、いつもより低く出た。
感情を削ぎ落としたその音に、自分でもわずかな違和感を覚える。
飛影は淡々と語った。
林での襲撃。
三体の妖怪。
そして、戦闘の最中に葵が受けた一撃。
情報を受け取るたびに、蔵馬は頭の中を整理していく。
同時に、胸の奥に広がっていく得体の知れない感情を、ただ黙って受け止めていた。
「オレが奴らを片付けた時、葵はもういなかった」
そう言って、飛影は外套の内から一本の剣を取り出し、蔵馬に投げた。
手に掴んだ瞬間、金属音と重みが伝わる。
「これは……破魔の剣か」
「そうだ」
霊界三大秘宝――降魔の剣と対をなす、対魔専用の武器。
この刃にかかった妖怪は、消滅するか、深手を負う。妖力を封じられることもあると聞く。
おそらく、飛影と対峙した妖怪が霊界から盗み出したのだろう。
飛影の話によると、彼女の傷は致命傷ではなかった。
しかしこの剣で切られたことが厄介だった。
思考が自然と、最悪と最善のケースを同時に描き始める。
(魔界に戻れているかもわからない。亜空間移動の途中で、空間のひずみに飲み込まれていなければいいが……。それよりも、負傷した上に妖力まで封じられていれば……)
言葉にしないまま、胸の奥が軋む。
感情は、理屈の手綱をするりと抜け出していく。
飛影はさらに続けた。
「邪眼で追ったが……今、あいつは人間界にはいない」
邪眼とは、飛影の額にある第三の眼のこと。
その能力は、千里眼、透視、妖力増強など多岐に渡る。
「……そうか」
蔵馬の中の何かが、すっと冷え切っていく。
(……生きていてくれ)
想いは、音にならなかった。
それからの日々、蔵馬は彼女を待った。
霊界と彼の依頼の期日が過ぎても、葵は現れなかった。
それでも、彼は待った。
理由はない。
計算でもない。
ただ、そうだと知っている感覚に近い。
その確信と、胸を締めつけるような焦燥は、矛盾したまま共存していた。
気づけば窓辺に立ち、空を見上げる時間が増えていた。
遠くにあるはずの気配へ、無意識に視線を送る。
飛影が現れて3日後。
夜が深まり、時刻は22時を回っていた。
桑原との訓練を終えて、自室で過ごしているときだった。
蔵馬は慣れ親しんだ気配を感じた。
心が確かに震えた。
窓をみると、カーテン越しに淡い人影が浮かんでいる。
見間違えるはずもない。
(葵っ……)
言葉にならない想いに突き動かされる。
立ち上がって、蔵馬はカーテンと窓を開けた。
卓上ライトだけが灯る室内に、静かで奥深い上弦の月の青白い光が差し込む。
その光の中で、彼女の輪郭は、壊れそうなほど儚かった。
「……蔵馬」
名を呼ばれて、彼の指先が暗闇の中で微動した。それもほんのひと時だけ。
窓辺に立つ葵は、わずかに目を見開いていた。
驚きと安堵が入り混じった姿が、灯りの下で揺れる。
その生きた表情を目にした瞬間、彼の胸の奥でいくつもの感情が同時に立ち上がった。
静かに室内に入ってきた葵に、歩み寄る。
「ごめんなさい……。来るのが遅くなって」
いつもの彼女なら、もっと澄んだ声を出す。
だが今は、語尾がかすかに沈んでいた。
「いや、かまわないよ。それより……何か、あったのか?」
問いは淡々としていたが、深い視線はすでに彼女を捉えている。
「ええ、少し……。後で話すわ」
短く言って、視線を伏せた。
「……。」
蔵馬は追及しなかった。
今ここで言葉を重ねれば、彼女はさらに言い淀むだろう。
――今は、聞く時じゃない。
彼女がここにいる。
その事実だけで、胸の奥の均衡が、かろうじて保たれていた。
しかし、観察眼は別だった。
近づくにつれ、違和感は確信に変わる。
妖気が薄く、いつもの半分にも満たない。
肌の色は青白く、首元には細かな汗がにじみ、呼吸は浅く、不規則だった。
(……この状態で、亜空間を移動してきたのか)
無理を通した、と判断するには十分すぎる情報だった。
葵が話す声には張りがなく、腹に力も入っていない。
怪我のことを、隠そうとしているつもりはないのだろう。
しかし、こちらが聞かなければ、おそらくこのままやり過ごす。
見逃すことはできる。
知らないふりをして、穏やかな会話を重ねることも。
しかし、その姿があまりにも痛々しく、あまりにも静かで。
その選択肢は、地に落ちた花びらのように、自然と消えていた。
(もう、黙ってはいられないっ……)
蔵馬は自然な動作を装いながらも、意図的に距離を詰めた。
葵が依頼の品を取り出そうとした瞬間、抱きしめるように、向かい合う彼女の背中にそっと手を伸ばす。
彼女がまだ口にしていない真実に、彼は先に触れる必要があった。
「……っ!?」
触れた途端、体がわずかに強張った。
力を込めたわけではない。
それでも、服越しにはっきりと伝わる異様な熱。
――ただの体温じゃない。
傷ついた肉体が放つ、危うい熱。
破魔の剣による炎症の余波が、いまだ葵を苦しめていた。
蔵馬の心配は、的中した。
息をのむのは彼女の方だったのに、胸を締めつけられたのは蔵馬だった。
「……やっぱり怪我してるんだね」
囁くような声。
低く、抑えられたその響きに、わずかな痛みが混じる。
「……ぁ…」
葵は目を見開いた。
蔵馬がすべてを見透かしていたこと。
それでも、責めるのではなく、ただ触れて確かめる心配りに、言葉を失う。
「背中をかばう仕草が多い。呼吸も浅い。……気づくよ」
視線を逸らさず、冷静に続ける。
「隠そうとしているものに、気づくのは得意なんだ……。本業は盗賊だからね」
軽い調子を装いながらも、腕は彼女を離さない。
小さな背中が、脈打つように熱を放っているのを、手のひらは感じ取っていた。
憂いを帯びた目で見つめながら、飛影から詳細を聞いていることも付け加えると。
葵は観念したように下を向いて、小さく息を吐いた。
「……来れなかったの」
彼の胸元で、声が小さく震える。
「切られた直後、妖力が大幅に落ちて……体が、透明になっていった。だから、残った妖力で魔界に戻るしかなかったの」
蔵馬は、そっと手と心を置き続けた。
この熱も、この胸の重さも、彼女がここにいる証だった。
「……そうだと思っていたよ」
飛影からの情報で、おおよそのことは察していた。
しかし、実際に腕の中にある存在は、想像以上に軽く、儚い。
――失う可能性を、はっきりと突きつけられた気がした。
蔵馬は視線を落とし、己に問う。
ここから先、どうあるべきか。
(葵なりの考えがあっての行動だ……。オレの方は、少し大人げないか……)
今度は蔵馬が、ひとつ深く息を吐いた。
感情を吐き出すようでいて、実際には胸の奥に沈めるための呼吸だった。
言いたいことは色々とある。
だが今最優先すべきは、彼女の体だ。
「傷を診せて。……その様子だと、まだ半分も治ってないだろう」
わずかに低く押し込めながらも、声の芯は力強く響いた。
腕の中で、葵の体が小さく跳ねる。
次の瞬間、顔を上げた彼女の目が、蔵馬のそれとまっすぐに重なった。
月光を含んだその深い瞳には、痛みと憂いを帯びている。
それ以上に――あふれ出しそうなほどの、優しさがあった。
葵の時間が、そこで一度、止まった。
自分の判断を後悔していない。命を守るためには、あの選択しかなかった。
それでも。
この冷静な男が、心から心配してくれていたと。
感情を表に出さない蔵馬の奥深さを、今になってようやく理解する。
(私は、この人に……このような顔をさせていたのね…)
彼女の中で、何かがふっと緩んだ。
ずっと自分一人で、背負いすぎていたのかもしれない。
そして気づいた。
きっとこの人は、「yes」というまでこの腕を離さない。
無理に奪わず、静かに、向き合い続ける。
その確信が、葵の背を押した。
「……主治医に、従います」
水が小さく震えるような静けさで、告げる。
蔵馬は一瞬だけ目を伏せて、それから、そっと腕の力を緩めた。
腕が離れた瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、彼女の体がわずかに揺らぐ。
支えられていたのだ。
体も、心も。
葵は彼に背中を向けて、ベッドの前に腰を下ろした。
傷口に触れないように、ゆっくりと上着と肌着を脱ぎ、上半身を露わにした。
夜更けの静寂の中に、サラシをほどく、衣擦れの音だけが響いた。
白い素肌に現れたのは、右の肩甲骨から腰へと走る、斜めの刀傷。
「……っ」
蔵馬は息をのんだ。
(この傷を、やり過ごしていたのか……)
想像していたよりも、深く、広い。
破魔の剣による傷は青白く光を帯び、妖力の流れをいまだ少し封じていた。
一瞬、指先が震えた。
蔵馬はそれを悟られぬよう、拳を作って握りしめる。
「……
視線を落とし、淡々と告げる。
「ええ。これと、あなたからもらった練薬で対応していたの。傷口に使ってみたら、痛みが少しましになったわ」
「……そうか。対魔傷の手当てには、ちょっとしたコツがいるんだ」
蔵馬は、改めて傷の状態を把握する。
表面は塞がり始めているが、内部はまだ追いついていない。
サラシに滲む浸出液が、無理を重ねた時間を物語っていた。
静かに立ち上がると、彼は処置の準備を始める。
その動きで生じた空気が、葵の背をふわりと撫でた。
寒くはないのに、彼女は小さく肩をすくめた。