その瞬間――
ふわっ。
視界が、白く柔らかなものに覆われた。
蔵馬が、大きめの白いバスタオルを、彼女の頭から前胸部の方に掛けていた。
葵は少しだけそれをずらし、振り返る。
「……蔵馬?」
「使うといい。寒さもしのげるよ」
それだけ言って、視線を逸らす。
「……お気遣い、ありがとう」
さりげない心遣いが、胸に静かに沁みた。
葵はタオルで体の前を覆い、黙って身を預ける。
その背後で、魔界の薬草の香りが立ち上った。
「今から薬湯を使って、破魔の気を抜いていく。……痛むが、耐えてくれ」
「ええ」
蔵馬は、薬液を浸した布をそっと傷口に当てる。
拭うたび、青白い破魔の気が、煙のように立ち上って消えていく。
接触とは別に、焼けつくような痛みが、じわじわと葵の体を巡った。
それでも、彼女は声を上げない。
治るために、必要な痛みだと――よくわかっていた。
処置を続ける蔵馬の視界に、細かな変化が映る。
力の入った肩。背中に浮かぶ冷や汗。鳥肌。薬湯を当てるたび、わずかに走る震え。
その様子に、彼は一瞬手を止めた。
「……葵。大丈夫か」
「切られた時ほどじゃないから……耐えられるわ」
短く漏れるような返答。
吐く息がわずかに乱れている。
対魔傷の処置は、熟練の戦士でも歯を食いしばるほどの痛みを伴う。
それを、彼女は声を殺して受け止めている――その事実が、彼の胸の奥に引っかかった。
「無理は、しなくていい……。痛かったら、声を出してもかまわない。部屋の外には漏れないから」
柔らかい調子で言うと、葵は小さく頷いた。
薬湯を浸した布で、傷の半分を処置したところで――
蔵馬の脳裏に、ふと、
腕に残る消えきらない痕。
無意識に、指が止まった。
「……この傷、少し跡が残るかもしれない」
負傷してから時間が経過している上に、回復も遅い。
まして破魔の剣の傷なら、尚更だった。
「気にしないわ」
即答した声は、淡々としていた。
「……。」
蔵馬は何も返さず、再び布を動かす。
薬湯の青い匂いが、静かに部屋に満ちていった。
時計の針が進む音と、互いの呼吸の揺らぎが微かに重なっては離れる。
夜が、ゆっくりと深まっていく。
やがて処置を終えると、蔵馬は分厚いドクダミの葉を傷口に当てた。
「これで、摩擦による痛みを防げる」
「助かるわ」
新しいサラシを取り出すと、彼女は自分で巻き始めた。
ゆっくりと手際よく、上から下へ。
服を整え終えたころ、蔵馬は後ろで片付けを終える。
振り返り、これだけはと決めたことを口に出した。
「負傷したことを黙っていたことは、水に流しておく。ただし……今回限りだ」
理性的で冷静な声音だった。
約束というより、境界線を引くための言葉。
理性で彼女を尊重しながらも、心のどこかでは、例えようのない感情が押し込められないほどになっていた。
葵は振り返る。
蔵馬はいつもと変わらぬ表情で立っていたが、視線だけが、妙に真っ直ぐだった。
「……蔵馬。もしかして、根に持ってる?」
「……持つかもしれないな」
何とも言えない間が、一瞬部屋を支配する。
「……。」
「冗談だよ。もう少し、オレを頼ってほしかったというのが本音だけどね」
飄々と告げる。
この男の冗談は、冗談に聞こえないことが多い。
蔵馬は静かに歩み寄り、彼女の前に腰を下ろした。
座ると、自然と距離が縮まる。
視線の高さが近づく。
「……ただ、心配はした」
声のトーンが変わった。艶のある声から、少し低く繊細な響きに。
蔵馬はかつてないほど距離をつめて、彼女を見た。
お互いの髪の毛が触れそうで触れないほどに。
卓上の灯りと月光が、彼の長い髪と深い瞳を縁取る。
「……っ」
葵は、目を逸らせなかった。
湖の底のような瞳の奥が、何かを秘めたまま、こちらを見ている。
「心配した」という言葉に込めたのは、理性の最後の砦だった。
しかし、葵の純粋無垢な瞳を前に、彼はそれまで保っていた距離を自ら越える決断をした。
――もう、今夜ばかりは……黙っている理由が見つからない。
床に置かれていた葵の右手に、いつの間にか蔵馬の左手が重なっていた。
熱を帯びた手のひらが、逃げ道を塞ぐように――けれど、力は込められていない。
それでも、葵は指一本動かせずにいた。
(なんて熱い手………)
乾いた夜の空気の中で、その温度だけが異質だった。
蔵馬は葵の瞳をとらえたまま、言葉を選ぶように間を置いた。
彼女の指先に触れた感触を、確かめながら。
「命にかかわることで……黙っているのは、お互いなしだ」
声音は、いつも通り落ち着いている。
だが、語尾に微かな揺れがあった。
葵は小さく眼を開いた。
彼の表情は変わらない――それでも、視線だけが違う。
その奥に、隠された何かを感じた。
「……わかったわ」
短く答えながら、胸の奥がトンと音を立てた。
慎重な蔵馬だからこそ、意図して口にする「心配」という言葉が、遅れて効いてくる。
彼は一度、目を伏せる。
淡い灯りの中、まつ毛が頬に影を宿す。
「オレたちは妖怪だ。戦いの中で命を落とすこともある。ただ、不測の事態以外で、あらかじめ伝えることはできるだろう」
静かに事実を確認するように続けながら、その手は彼女から離れなかった。
「何も知らないで、サヨナラするのは仕方のないことと……割り切ることは可能だ。しかし……」
言葉が、そこで止まる。
ほんのわずか、距離が詰まった。
視線と視線が重なり、夜の静けさがさらに深くなる。
蔵馬は、自分の行動を観察するように、内側で一拍止まった。
――今、言葉にすれば、後戻りはできない。
それでも。
「今のオレは……それを望まない」
彼の手が、そっと彼女の手を包む。
衝動ではない。
だが、ためらいがなかったわけでもない。
一線を越えるかどうかの判断。
もう一歩踏み込まなければ、何かがすり抜けてしまいそうだった。
だから蔵馬は、言葉で伝えた。
「オレは……葵に、生きていてほしい」
この想いを、彼女がどう受け取るかはわからない。
でも今日だけは、この場で伏せる選択肢は、もうなかった。
「……っ」
葵が息をのんだ。
瞳が揺れ、やがて静かに澄んでいく。
この男にここまで言わせるのは、滅多にないことだった。
誰かに、生きていてほしいと言われたのは初めてだった。
その言葉が、彼女の中でゆっくりと沈み、根を張っていく。
棘のある薔薇のように優しく、痛みを伴って。
(私は……、生きることを望まれているのね)
彼女は、静かに目を伏せた。
「……蔵馬。ありがとう」
その一言に込めたのは、ただの感謝ではなかった。
命をつなぎとめてくれたこと、自分を想ってくれたこと、そしてその想いが届いたという証だった。
(まさか、あなたの口からそんな言葉が聞けるなんて……)
一年前、拳を突き出しながら、彼に向かって感情をぶつけたことを思い出す。
蔵馬と自分との距離は、あの頃に比べて大きく変わっていた。
穏やかな眼差しで、葵は目の前の男を見上げた。
冷えた手は、彼のおかげで温かさを取り戻した。
蔵馬は、ほんのわずかに肩の力が抜けるのを感じた。
予想外だったのは、彼女の反応だけでなく、それを聞いた自分の内側の反応も。
「……礼を言われるようなことだった?」
「なんだか嬉しかったの。あなたの心の奥から出た言葉……ちゃんと受け取ったわ」
間近にある表情が、ふっと緩む。
蔵馬は視線を逸らし、息を整えた。
飛影から話を聞いたときの冷えた感覚が、ようやく遠のいていく。
(礼を言うのは、オレのほうだよ……)
妖怪である己が、人間として生きてきたからこその、感情が乗った言動が増えた。
そんな自分自身に戸惑うこともあるが、悪くない。
彼女の手から、ゆっくりと手を離す。
距離を取るのは、拒絶ではない。
相手の呼吸を尊重するための、彼なりの配慮だった。
胸の奥に残る感覚を、今は結論づけないまま、共にあることを選ぶ。
夜は更け、窓の外の気配も静まり返っている。
気づけば日付が変わる時間になっていた。
「さて……。葵、今度は発熱の対処をしようか」
水面に静かに波紋が広がるような言葉だった。
「……え?」
意味を掴みきれず、葵は小さく首を傾げる。
蔵馬はいつもの穏やかな表情のまま、彼女を見ていた。
「やっぱり、気づいてなかったか」
ふっと息をついた。
盗賊としての経験と生まれながらの高い知性は、卓越した観察眼と分析力で彼女の異変を見抜いていた。
「首元が汗ばんでる。体の内側から、熱が上がってきてる証拠だよ」
「これは、処置の痛みに耐えて、冷や汗をかいたんじゃないのかしら?」
彼は葵の首筋に視線を落とした。
「それも確かにある。しかし、君が汗をかいていたのは、部屋に来た時からだ」
感情を挟まず、状況だけを静かに並べていく。
彼の言葉に、葵は少し前の自分の状態を思い出していると――。
「葵。少し、手を借りてもいい?」
「……ええ」
不思議そうに見上げる彼女の手を、蔵馬はそっと取った。
指先に添える力は最小限。導くように、彼女の首元へと運ぶ。
触れた瞬間、蔵馬の指に伝わる熱。
先ほどまで冷えていたはずの彼女の手も、今は温かい以上で。
首筋は、それよりもはっきりと熱を帯びていた。
彼は静かに指を離した。
「……本当ね。熱いわ。言われるまで、気づかなかったわ」
相変わらずの、のんびりとした発言に、蔵馬はかすかに口元を緩めた。
――やはり、彼女は自分の変調にうとい。
よくここまでたどり着いたものだと、胸の奥にさざ波が立った。
「薬草を煎じてくるから、君はここで休んでいること」
「……蔵馬?」
何を言われたのかわからない、という素直な表情。
彼は窓の外へ視線を向けた。
月明かりが、一層深く差し込んでいる。
「こんな夜更けに、そんな状態で帰すわけにはいかないよ。それとも……どこか行く宛があるのか?」
今度は彼女が黙る番だった。
言い淀むのではなく、何かに気づいた様子だった。
「……霊界は、明日でもいいかしら?」
「問題ない」
間髪入れず、涼やかに返す。
(オレの所に来てから、霊界へ向かうつもりだったのか……)
霊界の環境が彼女の体に与える負担を、即座に計算していた。
――もし、治療を受けずに向かっていたら。
先月、彼女が瀕死の状態になったことを思い出した。
蔵馬は思考の先を、意図的に切った。
「霊界より先に、オレの所へ来てくれて良かったよ」
何気ない言い方だったが、葵の胸のどこかが音を立てた。
彼は、彼女の事情も、純粋さも、すべて含めたうえで受け止めている。
その事実が、言葉以上に伝わってきた。
「じゃあ……ここで寝てるんだよ」
「また、あなたの寝床を占領してしまうけど……いいの?」
「主治医に従うんだろう?」
軽やかに返す声。
冗談めいているが、退路は用意されていない。
「……。」
葵は、何か言いかけて口を閉じた。
珍しく、言葉を探すような沈黙。
蔵馬は微笑んだまま、その視線を受け止める。
強く迫ることはしない。
だが、離す気もない――そんな、柔らかな囲い込み。
それが、今の彼なりの距離だった。
(私は……あなたの言葉に、寄りかかってもいいのね)
葵は目を伏せて、小さく息を吐いた。
「……わかったわ」
待っていた言葉を耳で受け取り、蔵馬は頷いた。
そして静かに立ち上がると、棚の奥から道具を取り出す。
部屋のドアへ向かいながら、振り返らずに言った。
「10分ほどで戻るから、着替えをして横になってるといい」
その背中には、多くを語らない優しさがあった。
戸が閉まる微かな音が、夜の余韻に混ざり、消えた。
このシーンの蔵馬の葵への語りが好きなんです。
幽遊白書の一ファンとして、彼の生き様を描けることが喜びです。