誘導した先は、廃校になった古い小学校だった。
校舎の一角、教室だったと思われる場所の窓ガラスは割れ、時折風が鳴いている。
「……あれを見て、驚かないんだな」
「初めてじゃないの」
あっさりとした返事だった。
夕方になり、あたりは真っ暗。周辺には街灯もまばら。
市街地から遠く離れているその場所には、人っ子一人いない。
この非日常的な状況の中でも、葵は落ち着いていた。
同年代の女子なら、5分ともたない。
「前にも襲われたことがあって、リュックの中にこれを入れてたの」
先ほどの襲撃で、一部穴の開いたリュックを床に置いた。
口を開き、中に手を入れると、ずしりと重いものを取り出す。
二キロの鉄アレイ。
「護身用か」
「ええ。あなたみたいに、武器は作れないから」
感情の上下のない落ち着いた声。
まっすぐに向けられた視線が、暗がりの中で不思議に澄んでいた。
蔵馬は、何も言わず目を伏せる。
彼女が見ているもの。
彼女が持っているもの。
そして――自分が、何を見せてしまったのか。
(彼女が何者であっても……このまま帰すわけにはいかない)
夢幻花の感触を、指先で思い出していた。
数か月前の出来事が、不意に脳裏をかすめた。
あのときも、始まりは些細なことだった。
ただ、近くにいた。それだけで。
蔵馬のそばにいた一人のクラスメイト。彼女は、彼に想いを寄せていた。
距離が近いほど、影響は強くなる。
結果、彼女の霊力は不自然に引き上げられ、本来見えないはずの存在が見えるようになってしまった。
そして――彼が植物を武器化し、戦っているのを見てしまう。
後に、蔵馬と敵対する妖怪にさらわれた。
自分の存在が、クラスメイトを異界へと巻き込んでしまった。
その事実は、軽いものではなかった。
彼は彼女の記憶の一部を消した。
自分に向けられていた初恋の感情も、まとめて。
彼女が、平穏な日常に戻るために必要だと判断した。
蔵馬は、視線を落とした。
今、目の前にいる葵との出逢いも、構図だけならよく似ている。
偶然。接触。能力の露呈。
そして彼女への危険性。
(……同じことを、繰り返すわけにはいかない)
関わらない。線を引く。
それが、お互いにとって最も最適だ。
「南野君は、強いのね」
回想していたところ、葵の柔らかな声に現実に戻された。
廃校の教室。
割れた窓から風が吹き込み、床に散った埃がわずかに舞う。
二人しかいない空間に、その声は澄んで残った。
「……そうでもないさ」
誇張も謙遜もない、事実としての返答だった。
蔵馬は、視線を伏せたまま、指先に意識を集める。
夢幻花。
必要なら、すぐに使える距離だ。
そのとき。
「そうそう、思い出したわ」
突然、葵が声を上げる。
その場で屈み、リュックに手を入れて、ゴソゴソと何かを探し始めた。
カサカサと擦れる音。
蔵馬の指が、わずかに止まった。
彼女が取り出したのは、透明な袋に入った一着のコートだった。
自分のものだと、すぐに分かる。
「はい」
葵は、両手でそれを差し出した。
(調子が狂うな……)
一瞬、思考が噛み合わない。
この人間といると、いつものペースが乱れる。
「ありがとう」
「……もう、コートは用意できたんだね」
彼は袋を受け取る。
その拍子に、彼女の指先が、ほんの一瞬、彼の指に触れた。
温度が、残る。
袋の中には、丁寧に畳まれたコートと――
その上には、小さな白い箱。
「葵、これは?」
名前を呼んだのは、ほとんど無意識だった。
「もうすぐ、ホワイトデーだから」
コートのお返しに、と付け加えた彼女の言葉に、思考が引っかかる。
「ありがとう、と言いたいところだけど。ホワイトデーは、男性が女性に贈る日だったと思うよ」
「友人同士で、感謝の気持ちを贈る日でもあるでしょう?」
葵はそう言って、柔らかく微笑んだ。
自然体な言動に、蔵馬は返す言葉を一瞬、探した。
「……そうだね」
室内が暗くて助かった。表情を整える時間をかせげる。
人間として生きた経験のため、昔よりも感情が出やすいから。
彼女の行為に他意はない。
ただ、感じたままを差し出しているだけだ。
だからこそ、厄介だった。
しかし、冷徹な選択は変わらない。
葵の中の、自分との時間を消すことを。
(身勝手だと思われても……)
蔵馬はほんの数秒、呼吸を置いた。
廃校の教室に流れる風の音が、微かに遠のく。
次の瞬間、彼は動いていた。
音もなく、葵の背後へ回る。ためらいはなかった。
腕を伸ばし、その小さな体を包み込む。
抱き寄せた力は強くない。
けれど、逃がさない位置だけは、正確だった。
「……え?」
「……葵、ありがとう」
小さく絞り出したような声。
奥で震えた音が、背中越しに伝わる。
彼の体温。胸の鼓動。
そして甘く、それでいてビターな花の匂い。
それら全てがグラデーション的に押し寄せ、葵の感覚をくすぐる。
振り返ろうとしたが、できなかった。
蔵馬の腕は、抱擁というより、留め具のようだった。
この場所に繋ぎ止めるための、静かな拘束であり、守り。
有無を言わせぬ緊張と、言葉にならない切迫感が、背中から伝わってくる。
葵の中で浮かんだのは、疑問ではなかった。
――どうして?ではなく、
――何かあったの?と彼を案じる気配が、先に立つ。
「……南野君?」
蔵馬は答えない。
代わりに、額をそっと彼女の頭に寄せた。
髪から、ほのかに香りが立つ。
知っているようで、思い出せない。
それでも、記憶が覚えている懐かしさがあった。
(……これで、最後だ)
指先に、妖気を集める。
夢幻花。
睡眠と記憶の消去の効果がある。
短期間で同じ手段を、また選ぶことになるとは。数奇なめぐり合わせだった。
「みな……み、の……」
葵が、名前を呼びかける。だが、声は最後まで形にならない。
意識が薄れ、瞼がゆっくりと落ちていく。
彼の腕の中で、小さな体の力が抜けていった。
蔵馬は、即座に体勢を落とした。
立膝のまま彼女を抱え、衝撃が来ないように支える。
その動作に、迷いはなかった。
――話せば、何かが変わったかもしれない。
だが、その「かもしれない」を、彼は選ばない。
今の自分の妖力では、守れるだけの余裕がない。
それを、誰よりも理解している。甘さは、己以外も傷つける。
彼はそっと、彼女を床へと横たえた。
葵の頬にかかった髪を、指先で払う。そして一度だけ、その顔を見下ろした。
(……君のおかげで、また夢を見ることができた)
触れた途端に、消えてしまいそうな泡沫の。
「……。」
しばらく、言葉は胸の奥にも浮かばなかった。
そのときだった。
突然、外気に混じる異質な妖気。鋭く、湿った感触が背筋を走る。
蔵馬の目が細まる。
あからさまな殺気は、確実に自分に向けられている。
(……
もう一度葵に視線を送る。
そして、音も立てずに教室を出た。
夜気が、肌に張りつく。空は深く、灯りはほぼない。
(確かに、ここだ)
気配は消されているが、完全ではない。
蔵馬は歩みを止め、五感を研ぎ澄ます。
風の流れ。地面の微細な振動。空気に残る、土と妖怪の匂い。
次の瞬間――
ガラガラッ!
足元が崩れた。
「っ……!」
視界が一気に落ち、体が引きずり込まれる。
蔵馬は即座に身を丸め、着地の衝撃を逃がした。
暗闇の底で、獣のような低い唸りが響いた。
地面が割れ、もぐらの形をした妖怪が姿を現した。
鋭い爪が、地を裂く。
蔵馬は跳ねるように距離を取るが、足元が遅れた。
「っく!」
軽く足を負傷する。
「胴体と足を切り離す予定だったんだが、よく避けたなぁ。蔵馬」
敵意に満ちた声が、地底に不気味に響く。
蔵馬は呼吸を整え、静かに立ち上がった。
退く選択肢はない。
背後には、眠る少女がいる。
「お前は確か、
低く、押し込めたような声が響く。普段の生活では、決して出さない音。
土の匂いが濃い。掘り返された大地から、湿った空気が立ちのぼっている。
「そうだ。手下の鬼が世話になったな!」
「……オレが倒したやつか」
「八つ手がいなくなった今、お前を倒せばこの町はオレのものだ!」
八つ手――数か月前に、蔵馬がある妖怪と共闘して倒した妖怪だった。
言い終えるや否や、木竜は地中へと沈み込み、姿を消す。地面が不自然にうねる。
わずかな静寂ののち、地面が裂け、鋭い爪が飛び出した。
左右、下方と――弾丸のような速度で、連続して襲いかかる。
蔵馬は後ろへ跳び、紙一重でかわす。
頬をかすめた風圧が、ひやりと皮膚を撫でた。
足裏に伝わる微かな振動を拾いながら、視覚と合わせて周囲を測る。
(奴のフィールドで、長期戦はまずいっ)
爪をかわしながら、蔵馬は無駄のない動きで距離を取る。
呼吸は乱れていない。だが、地中という条件が思考の余白を削っていく。
「
指先から解き放たれた花びらが、鋭い風切り音を立てて宙を舞う。
空中で曲線を描き、地面の裂け目へと吸い込まれていった。
直後、地底を震わせるような悲鳴が響く。
木竜は、逃げるようにさらに地中深く潜った。
(耳は、やつのセンサーだ)
蔵馬は一歩踏み込み、周囲の気配を探る。
(これで、しばらく正確な攻撃ができないはずだ……)
この一撃は一時的に木竜の聴覚を封じたが、致命傷には程遠い。
地中は、なおも木竜の独壇場のようなもの。
(早く地上へ)
考えを巡らせている時だった。
頭上から、何かが落ちてくる。
「南野君!これであがって!」
透き通った声。
蔵馬は反射的に顔を上げた。
暗闇の縁から、緑色の縄が垂れている。
イネ科の植物を丁寧に編んだ、自然のロープ――明らかに作られたものだが、不思議な均整を保っていた。
その先に立っていたのは、葵だった。
蔵馬の目が、わずかに見開かれる。
(……なぜだ?)
夢幻花で、記憶は消したはずだ。
思考が錯綜する。
(記憶の欠片が戻った?それとも――)
「今、戸惑っている暇はないはずよ!次の攻撃が来る前にあがって!」
葵の必死に諭すような声は、まっすぐ彼に届く。
確かに――今は、それだけだ。
蔵馬は躊躇を切り捨て、縄を掴んだ。
植物の繊維が、意外なほどしなやかに指に馴染む。
地中の壁を蹴り、腕に力を込める。
背後で、鈍い振動が走った。
――奴が動けるようになる前に、先手を打つ。
穴の上に近づいたとき、彼女が手を差し出した。
「掴んで!」
蔵馬は一瞬だけ、その手を見た。細い指は、震えていない。
彼はその手をしっかりと握る。
ついに地上へと引き上げられる。
夜風が、肌を打つ。
二人の距離が、急に近づいた。深い瞳と瞳が、ふいに重なった。
その間、わずか数秒。言葉はなく、時間だけが伸びる。