一人になった室内は、静まり返っているはずなのに、どこか満ちている。
空気の温度。床に落ちる青白い月明かり。
ほんの少し前まで、そこにあった蔵馬の気配が、まだ残っていた。
葵は顔を上げ、彼が立っていた場所をぼんやりと見る。
何もない――はずなのに、視線が離れなかった。
手を取られたときの、指先の感触。
穏やかで、押しつけがましくない声。
視線が重なったときの、静かな温かさ。
(この一か月で二度も、蔵馬に命を助けられたのね……)
そのたびに、彼は当たり前のように、彼女に寄り添った。
冷静に、的確に、必要な距離で。
そこに、打算や義務は感じられなかった。
あったのは――自分に向けられる純粋な思いやりだった。
――もう少し、オレを頼ってほしかった。
――オレは……葵に生きていてほしい。
彼自身の痛みを伴う想いは、葵の胸に深く刻まれた。
自分の奥に眠る不安や孤独を見透かされて、そっと抱きしめられたようだった。
「……。」
息を吐くと、胸の奥に溜まっていたものが、ほどけていく。
灰色の浴衣に着替え、練薬を口に含む。苦みが舌に広がり、喉に落ちていく。
現実へと引き戻される感覚。
ベッドに腰を下ろすと、柔らかく沈んだ。
体を預けた途端、張りつめていた力が、少しずつ抜けていく。
そして、ようやく自分の体の変調に気づく。
――熱。倦怠感。
そして、背中に走る鈍い痛み。
どれほど無理をしていたのか。
自覚はなかった。
無理をしているつもりもなかった。
それを蔵馬は、気づかせてくれた。行動と眼差しで。
葵は、虚空を見つめたまま、静かに息を整える。
ここ数日の彼の想いを、ゆっくりと辿っていた。
――そのとき。
戸の向こうで、気配が戻る。
音を立てない歩調。
蔵馬が部屋に入ると、葵は浴衣姿で、遠くを見るような目をしていた。
発熱のせいだけではない。
思考が、心が、どこか別の場所に向かっている。
「……葵?」
声をかけると、彼女はわずかに視線を動かした。
「……ごめんなさい。少し、あなたの立場になって、考えてみたの」
蔵馬は近づいていた歩みを止めた。意外な返答だった。
「この数日間……蔵馬はどんな気持ちでいたんだろうって」
力の入らない声が、空気のように流れていく。
「……そうか」
「おぼろげだけど、少しわかった気がするわ。あなたは、私が思っている以上に、私のことを案じてくれているのね……」
伏し目がちに窓の外を見ながら、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
蔵馬は答えなかった。
ただ一つ、ある感情を伴って、白い横顔を見つめていた。
(葵なりに、オレを理解しようとしているんだな……)
しばらく、沈黙が続く。
夜の静けさの中、二人の呼吸が、かすかに響いている。
やがて蔵馬は、静かに距離を詰める。
ベッドに座る彼女の前に腰を下ろすと、そっと手を差し出した。
触れれば壊れそうなものを、扱う所作で。
「……この手は」
一瞬、言葉を置く。
葵が目を少し開いてその手を見つめる。
「君が望むとき、いつでも掴めるように空けてある」
柔らかく結ぶ声は、深かった。
葵の瞳に光が揺れた。
骨ばっていない、どこか知性を感じさせる長い指と手のひら。
静かで、揺るがない芯を感じた。
蔵馬は待った。
促さない。慰めも、導きもなく。
彼女の選択にゆだねた。
彼女の胸の奥が、ふっと温かくなる。
(あなたは、私を信じてくれているのね……)
ゆっくりと、指先を伸ばす。
迷いながらも、逃げずに。
そっと、重ねた。
蔵馬の手が、静かに閉じる。
包み込むというより、受け止めるように。
夜の静かな接点。
二人の体温が混じり、境界が、ほんのわずかに溶ける。
何度か呼吸を整える。
蔵馬は静かに葵の手を返して、その手のひらを上に向けた。
指先に残る温度を、確かめるような一瞬の間。
そして。
「はい」
差し出された白い器の中で、深緑色の液体がわずかに揺れた。
湯気とともに、鼻につく薬草の匂いが立ちのぼる。
途端に、葵は現実へ引き戻される。
(……さっきから漂っていたのは、これだったのね)
とても「おいしそう」とは言えない匂い。
こういうタイミングも、食えない男だ。
「味は保証しない。でもよく効くよ」
「……わかったわ」
葵は観念したように器を受け取り、そっと口をつける。
すぐに眉をひそめ、口唇を離した。
「……苦くて酸っぱいわ」
そう言いながらも、器を持つ手は止まらなかった。
もう一度、ゆっくりと口をつける。
喉を通るたび、顔を小さくしかめながらも、最後まで飲み干した。
蔵馬はその様子を、上弦の月と共に見守った。
「痛みを和らげる成分も入ってる。今夜は少し、楽に眠れるはずだよ」
(……そこまで考えていたのね)
発熱だけではない。
背中の傷、そしてその先の夜の痛みまで。
この男の深く隠された想いを、葵は少し垣間見た気がした。
「……蔵馬。ありがとう」
飾りのない、まっすぐな言葉だった。ふわっと花のような微笑みを添えて。
彼は一瞬だけ視線を彼女から外し、器を受け取る。
「……おやすみ」
それだけ言って、踵を返す。
月明かりの中、広い背中が遠ざかっていく。
閉まったドアの向こうに、彼の余韻が静かに残っていた。
葵はそのぬくもりを胸に感じ、しばらくしてそっとまぶたを閉じた。
深い夜の時間。
蔵馬は足音を消し、再び部屋に入った。
窓から差し込む月光が、ベッドに横たわる葵の花色の髪を淡く照らしている。
寝息は静かで、熱に浮かされている気配もない。
枕元に立ち、しばらく様子を観察する。
呼吸の間隔。眠りの深さ。痛みの有無。
問題はない。
彼は、無意識のうちに伸びかけた手を、途中で止めた。
しばらくして、指先で頬にかかる髪を、そっと払う。
触れるか触れないかの距離で。
「……。」
胸の奥に、静かな想いが満ちていく。
高揚でも、衝動でもない。ただ、確かにそこにあるという感覚。
かつての自分には、想像もできなかった。
どれほど時間をかけても、遠回りをしてもいい。
彼女がここにいて、眠っている。
それを守れる位置に、自分がいる。
(……今は、これでいい)
蔵馬は、眠る葵の髪を一房だけ、指に取る。
花びらのように手触りが良く、どこか懐かしい、安息の香りがする。
夜の静寂の中で、それは誓いというほど重くはないが、簡単に手放せるものでもなかった。彼が選んだ、想いの形だった。
そっと手を離し、蔵馬は音もなく部屋を出る。
青白い月光だけが、変わらずそこに残っていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
翌日の午後のこと。
――今の弱った状態で、体を外に置いて霊界に行くのは危険だ。
という蔵馬の配慮で、霊界に行く間、葵は肉体を彼の部屋に置いていた。
手短に用件を済ませて、霊界から戻る。
ベッドに横たわっていた体に霊体が入り、意識が肉体と結びつく。
その瞬間に鮮明になる淡い緑と土の匂い。
彼は卓上で、薬草や種子を配合して何かを作っていた。
葵はしばらくその様子を見ていた。
静かな集中の気配。
時折、硬い
何千年も生きてきた智慧と経験。そして植物を自在に扱う能力。
幾度も助けられてきた記憶が、胸の奥で重なっていく。
そのたびに、途方もない才を持つその背は眩しく映った。
ふと、蔵馬の手が止まる。
視線を察したように、振り向いた。
「……戻ったのか」
「ええ。それは、何を作ってるの?」
葵は上体を起こし、興味深そうに首を傾げる。
蔵馬は作業台の上を一瞥し、再び視線を彼女に戻した。
「ちょっとした試作品だ。できたら教えるよ」
「蔵馬は医者になれるわね」
「そんな柄にもないことはしません」
布で手を拭うと、彼は椅子に腰かけたまま彼女に向き直った。
改めて観察すると、顔色は明らかに良い。
頬に血の気が戻り、声にも張りがある。
――回復は順調だな。
客観的な判断を胸に留め、彼は問いかける。
「傷はどう?」
「だいぶ楽になったわ。ありがとう」
「全く、君は……。ひと月に2度も、大怪我をするなんて」
「本当にそうね。私は、あなたのおかげで生きているわ」
「……。」
小言の続きも言えなくなるような、葵の屈託のない笑顔と殺し文句。
蔵馬は一瞬、息を呑んだ。
視線が行き場を失う。
小さく息を整えると、わずかに口元がゆるむのを手で覆った。
まるで、完璧な戦略をたった一言で崩されるようだった。
弱みを握られているわけではない。
それでも、この花笑む顔と返す言葉を失う物言いに、反論も回避も意味を失う。
蔵馬は、言葉で人を導くことを知っている。
だがそれは、意図があってこそだ。
――葵のように無自覚なものほど、強い。
そんな思考が浮かび、消える。
「ねぇ、蔵馬。ずっと聞いてみたかったんだけど、一ついいかしら?」
そして、そんな彼の物思いも露知らず、彼女は話題を変えてくる。
「……どうぞ」
「蔵馬のように、妖怪から人間になると、身体能力や妖力の低下が起こるわよね。前はできていたことが、できなくなる。それについては、どう感じていたの?」
蔵馬は一瞬、視線を窓の外へ向けた。
曇天の向こう、揺れる木々。
(また、ずいぶんと核心を突く……)
彼女らしい問いだ。
蔵馬はふっと微笑んだ。
どうやら自分は、このコントロール不能な人の言動を楽しんでいるようだ。
少しの間を置いて、彼は答える。
「……そうだな。生き延びるための選択だった。できなくなることへの覚悟は、していた。人間の身体能力の限界も理解していたから、それほど驚かなかったよ」
整理された事実が語られる。
葵は手を胸元に添えて、口を開いた。
「私は生まれて間もないから。成長過程で、できないことができるようになるでしょう?その逆を歩んだ蔵馬が、どう感じていたのか知りたかったの」
「……君らしいな」
時折見せる彼女の物事に対する着眼点に、驚かされる。
できなくなること。
できるようになること。
真逆のようで、本質は同じ――変化という体験だ。
「オレにとっては、できなくなるという体験は、むしろ貴重だった」
幼い日の記憶が、一瞬よぎる。
あの人に怪我を負わせてしまったこと。
だが、その喪失が教えてくれたもの。
それは人間としての、血の通った温かい感情だった。
――もし、昔の蔵馬のままだったら。
考えを深追いせず、彼は言葉を選ぶ。
「人間だからこそ、得られたものもある。オレは……今の自分に不満はない」
葵は目を閉じ、彼の声に耳を澄ませていた。
静かな部屋に、中性的で繊細な声が柔らかく落ちる。
(あなたの音は……耳に優しいわ)
胸の奥がゆっくりと温まる。
蔵馬の言葉には、数千年の深みと人として積み重ねた時間の濃さを感じた。
「……できなくなるという体験ね。とても素敵な言葉。心に沁みるわ」
妖怪にできて、人間にはできないこと。
人間にできて、妖怪にはできないこと。
二つの世界を跨いで生きてきた者だからこそ、語れる言葉だと、葵は直感的に理解していた。
「あなたといると、人間の奥深さに触れることができる。人間界は……本当に面白いわ」
「人間に、興味を持った?」
蔵馬の深い瞳が彼女に向けられる。
問いは軽く、しかし様子を測るように。
「ええ。蔵馬は、妖怪と人間の両方を併せ持つ人だから」
葵はゆっくりとベッドから降りて、彼の前に立つ。
二人の距離が近づいた。
「あなたを通して、いろんな景色が見えるの。私にとっては、学びの宝庫よ。あなたの生きてきた軌跡が、私の世界を広げててくれるの」
人間界を、そして人間界で生きる蔵馬をもっと知りたいと思った。
底知れぬ深い生き様は、果てしない物語のように、一夜ではとても知り尽くせないだろう。
「そいつは……光栄だな」
真っ直ぐで、飾りのない言葉を受けて、蔵馬は目を伏せた。
「あなたのことを知ることで、私は自分に気づくことができるわ」
「……それは、オレもだよ」
「あら。私たちお互い様ね」
葵が澄んだ瞳を瞬かせる。
蔵馬は再びふっと息を吐いた。
口元が、わずかに緩む。
(お互い様か……。やっぱり君にはかなわないよ)
胸の奥で、小さな感覚が静かに反響する。
助けているつもりで、助けられている。
与えているつもりで、受け取っている。
言葉にするほど明確ではないが、何かが循環し始めている。
川に喩えるなら、細かった流れが、いつの間にか幅を持ち始めたような――。
行き先は、まだ見えない。
だが、不安はなかった。
(……共に歩けるなら、それも楽しみだ)
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
人間として生きることに、最初から意味があったわけではない。
ただ、命を繋ぐための選択だった。
蔵馬にとって、人間の受精体への憑依は「一時的な退避」。
妖力が回復すれば、妖狐に戻る――そのはずだった。
しかし目論見は完全に狂った。
霊体で憑依したというより、南野秀一の肉体と深く融合してしまったようだ。
かつての姿に戻ることはできないという現実を、受け入れるしかなかった。
それは蔵馬にとって、「人間の肉体」という檻に閉じ込められただけでなく、自分の存在そのものが、曖昧で不確かなものになった瞬間だった。
しかし、いつからだろう。
その名前で呼ばれることに、 違和感がなくなったのは。
家族の声。人として向けられる、無条件の温度。
仮面のはずだったものが、いつの間にか、皮膚の内側にまで染み込んでいた。
変わったのではない。
重なったのだ。
(……オレは、もう仮面をかぶっていない)
その後の蔵馬の人生は、本来の妖狐の姿を取り戻すための旅ではなくなった。
――この肉体で、この心で、今の蔵馬としてどう生きるか。
より深い問いへの旅に変わっていく。
幽助、桑原、飛影、そして、葵のような自分の正体を知ったうえで近づいてくる存在。
彼らとの出会いが、少しずつその問いに輪郭を与えていった。
「オレは、今の自分も気に入っている」
この言葉は、妖狐でも、人間でもない、唯一無二の蔵馬を見つけ出した誇りだった。
葵の存在は、穏やかな日常の象徴であると同時に、 たとえ命をかける戦いの只中にあっても、自分を見失わないための灯火になっていた。
だから、蔵馬はこの名を捨てない。
この顔を、偽りだとは思わない。
胸に芽生えた、この人を護りたいという想いも否定しない。
たとえ明日、再び苛烈な戦いに身を投じることになっても。
そのとき、迷いなく言える自分でいたい。
――護ると。
そう、静かに決めていた。
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♢おまけ
霊界に用を済ませにきた葵は、廊下の角で飛影と鉢合わせした。
「もう傷はいいのか?」
「昨日蔵馬に診てもらって、だいぶ楽になったわ。飛影、伝えてくれてありがとう」
「別に礼を言われるほどじゃない」
素っ気なく言いながら、飛影は視線を逸らす。
「お前のおかげで、こっちは収穫があったぜ。むしろ礼を言うのは、オレの方かもしれん」
「収穫?」
「破魔の剣を取り戻した謝礼として、霊界から金を巻き上げてやった」
度重なる霊界への不本意な協力、その労をねぎらう『お返し』とでも言うように。
飛影は口元を歪めてフンと笑った。
(そういえば……)
先ほどコエンマの元を訪れたとき、部屋の前から「うーん……うーん……」と唸り声が聞こえていた。
「……そういうことなのね」
葵はひとり、そっと納得した。