アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第20話

一人になった室内は、静まり返っているはずなのに、どこか満ちている。

空気の温度。床に落ちる青白い月明かり。

ほんの少し前まで、そこにあった蔵馬の気配が、まだ残っていた。

 

葵は顔を上げ、彼が立っていた場所をぼんやりと見る。

何もない――はずなのに、視線が離れなかった。

 

 

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手を取られたときの、指先の感触。

穏やかで、押しつけがましくない声。

視線が重なったときの、静かな温かさ。

 

(この一か月で二度も、蔵馬に命を助けられたのね……)

 

そのたびに、彼は当たり前のように、彼女に寄り添った。

冷静に、的確に、必要な距離で。

そこに、打算や義務は感じられなかった。

あったのは――自分に向けられる純粋な思いやりだった。

 

――もう少し、オレを頼ってほしかった。

――オレは……葵に生きていてほしい。

 

彼自身の痛みを伴う想いは、葵の胸に深く刻まれた。

自分の奥に眠る不安や孤独を見透かされて、そっと抱きしめられたようだった。

 

「……。」

 

息を吐くと、胸の奥に溜まっていたものが、ほどけていく。

 

灰色の浴衣に着替え、練薬を口に含む。苦みが舌に広がり、喉に落ちていく。

現実へと引き戻される感覚。

ベッドに腰を下ろすと、柔らかく沈んだ。

体を預けた途端、張りつめていた力が、少しずつ抜けていく。

 

そして、ようやく自分の体の変調に気づく。

――熱。倦怠感。

そして、背中に走る鈍い痛み。

 

どれほど無理をしていたのか。

自覚はなかった。

無理をしているつもりもなかった。

 

それを蔵馬は、気づかせてくれた。行動と眼差しで。

 

葵は、虚空を見つめたまま、静かに息を整える。

ここ数日の彼の想いを、ゆっくりと辿っていた。

 

 

――そのとき。

戸の向こうで、気配が戻る。

音を立てない歩調。

 

蔵馬が部屋に入ると、葵は浴衣姿で、遠くを見るような目をしていた。

発熱のせいだけではない。

思考が、心が、どこか別の場所に向かっている。

 

「……葵?」

 

声をかけると、彼女はわずかに視線を動かした。

 

「……ごめんなさい。少し、あなたの立場になって、考えてみたの」

 

蔵馬は近づいていた歩みを止めた。意外な返答だった。

 

「この数日間……蔵馬はどんな気持ちでいたんだろうって」

 

力の入らない声が、空気のように流れていく。

 

「……そうか」

 

「おぼろげだけど、少しわかった気がするわ。あなたは、私が思っている以上に、私のことを案じてくれているのね……」

 

伏し目がちに窓の外を見ながら、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。

蔵馬は答えなかった。

ただ一つ、ある感情を伴って、白い横顔を見つめていた。

 

(葵なりに、オレを理解しようとしているんだな……)

 

しばらく、沈黙が続く。

夜の静けさの中、二人の呼吸が、かすかに響いている。

 

 

やがて蔵馬は、静かに距離を詰める。

ベッドに座る彼女の前に腰を下ろすと、そっと手を差し出した。

触れれば壊れそうなものを、扱う所作で。

 

「……この手は」

 

一瞬、言葉を置く。

葵が目を少し開いてその手を見つめる。

 

「君が望むとき、いつでも掴めるように空けてある」

 

柔らかく結ぶ声は、深かった。

葵の瞳に光が揺れた。

骨ばっていない、どこか知性を感じさせる長い指と手のひら。

静かで、揺るがない芯を感じた。

 

蔵馬は待った。

促さない。慰めも、導きもなく。

彼女の選択にゆだねた。

 

彼女の胸の奥が、ふっと温かくなる。

 

(あなたは、私を信じてくれているのね……)

 

ゆっくりと、指先を伸ばす。

迷いながらも、逃げずに。

 

 

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そっと、重ねた。

蔵馬の手が、静かに閉じる。

包み込むというより、受け止めるように。

 

夜の静かな接点。

二人の体温が混じり、境界が、ほんのわずかに溶ける。

 

 

何度か呼吸を整える。

蔵馬は静かに葵の手を返して、その手のひらを上に向けた。

指先に残る温度を、確かめるような一瞬の間。

そして。

 

「はい」

 

差し出された白い器の中で、深緑色の液体がわずかに揺れた。

湯気とともに、鼻につく薬草の匂いが立ちのぼる。

途端に、葵は現実へ引き戻される。

 

(……さっきから漂っていたのは、これだったのね)

 

とても「おいしそう」とは言えない匂い。

こういうタイミングも、食えない男だ。

 

「味は保証しない。でもよく効くよ」

 

「……わかったわ」

 

葵は観念したように器を受け取り、そっと口をつける。

すぐに眉をひそめ、口唇を離した。

 

「……苦くて酸っぱいわ」

 

そう言いながらも、器を持つ手は止まらなかった。

もう一度、ゆっくりと口をつける。

喉を通るたび、顔を小さくしかめながらも、最後まで飲み干した。

 

蔵馬はその様子を、上弦の月と共に見守った。

 

「痛みを和らげる成分も入ってる。今夜は少し、楽に眠れるはずだよ」

 

(……そこまで考えていたのね)

 

発熱だけではない。

背中の傷、そしてその先の夜の痛みまで。

この男の深く隠された想いを、葵は少し垣間見た気がした。

 

「……蔵馬。ありがとう」

 

飾りのない、まっすぐな言葉だった。ふわっと花のような微笑みを添えて。

彼は一瞬だけ視線を彼女から外し、器を受け取る。

 

「……おやすみ」

 

それだけ言って、踵を返す。

月明かりの中、広い背中が遠ざかっていく。

 

閉まったドアの向こうに、彼の余韻が静かに残っていた。

葵はそのぬくもりを胸に感じ、しばらくしてそっとまぶたを閉じた。

 

 

 

深い夜の時間。

蔵馬は足音を消し、再び部屋に入った。

窓から差し込む月光が、ベッドに横たわる葵の花色の髪を淡く照らしている。

寝息は静かで、熱に浮かされている気配もない。

 

枕元に立ち、しばらく様子を観察する。

呼吸の間隔。眠りの深さ。痛みの有無。

問題はない。

 

彼は、無意識のうちに伸びかけた手を、途中で止めた。

しばらくして、指先で頬にかかる髪を、そっと払う。

触れるか触れないかの距離で。

 

「……。」

 

胸の奥に、静かな想いが満ちていく。

高揚でも、衝動でもない。ただ、確かにそこにあるという感覚。

かつての自分には、想像もできなかった。

 

どれほど時間をかけても、遠回りをしてもいい。

彼女がここにいて、眠っている。

それを守れる位置に、自分がいる。

 

(……今は、これでいい)

 

蔵馬は、眠る葵の髪を一房だけ、指に取る。

花びらのように手触りが良く、どこか懐かしい、安息の香りがする。

 

夜の静寂の中で、それは誓いというほど重くはないが、簡単に手放せるものでもなかった。彼が選んだ、想いの形だった。

 

そっと手を離し、蔵馬は音もなく部屋を出る。

青白い月光だけが、変わらずそこに残っていた。

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

翌日の午後のこと。

 

――今の弱った状態で、体を外に置いて霊界に行くのは危険だ。

という蔵馬の配慮で、霊界に行く間、葵は肉体を彼の部屋に置いていた。

 

手短に用件を済ませて、霊界から戻る。

ベッドに横たわっていた体に霊体が入り、意識が肉体と結びつく。

その瞬間に鮮明になる淡い緑と土の匂い。

彼は卓上で、薬草や種子を配合して何かを作っていた。

 

葵はしばらくその様子を見ていた。

静かな集中の気配。

時折、硬い種皮(しゅひ)がこすれ合う乾いた音が、室内に小さく響く。

 

何千年も生きてきた智慧と経験。そして植物を自在に扱う能力。

幾度も助けられてきた記憶が、胸の奥で重なっていく。

そのたびに、途方もない才を持つその背は眩しく映った。

 

ふと、蔵馬の手が止まる。

視線を察したように、振り向いた。

 

「……戻ったのか」

 

「ええ。それは、何を作ってるの?」

 

葵は上体を起こし、興味深そうに首を傾げる。

蔵馬は作業台の上を一瞥し、再び視線を彼女に戻した。

 

「ちょっとした試作品だ。できたら教えるよ」

 

「蔵馬は医者になれるわね」

 

「そんな柄にもないことはしません」

 

布で手を拭うと、彼は椅子に腰かけたまま彼女に向き直った。

改めて観察すると、顔色は明らかに良い。

頬に血の気が戻り、声にも張りがある。

 

――回復は順調だな。

客観的な判断を胸に留め、彼は問いかける。

 

「傷はどう?」

 

「だいぶ楽になったわ。ありがとう」

 

「全く、君は……。ひと月に2度も、大怪我をするなんて」

 

「本当にそうね。私は、あなたのおかげで生きているわ」

 

「……。」

 

 

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小言の続きも言えなくなるような、葵の屈託のない笑顔と殺し文句。

蔵馬は一瞬、息を呑んだ。

視線が行き場を失う。

小さく息を整えると、わずかに口元がゆるむのを手で覆った。

 

まるで、完璧な戦略をたった一言で崩されるようだった。

弱みを握られているわけではない。

それでも、この花笑む顔と返す言葉を失う物言いに、反論も回避も意味を失う。

 

蔵馬は、言葉で人を導くことを知っている。

だがそれは、意図があってこそだ。

 

――葵のように無自覚なものほど、強い。

そんな思考が浮かび、消える。

 

 

「ねぇ、蔵馬。ずっと聞いてみたかったんだけど、一ついいかしら?」

 

そして、そんな彼の物思いも露知らず、彼女は話題を変えてくる。

 

「……どうぞ」

 

「蔵馬のように、妖怪から人間になると、身体能力や妖力の低下が起こるわよね。前はできていたことが、できなくなる。それについては、どう感じていたの?」

 

蔵馬は一瞬、視線を窓の外へ向けた。

曇天の向こう、揺れる木々。

 

(また、ずいぶんと核心を突く……)

 

彼女らしい問いだ。

蔵馬はふっと微笑んだ。

どうやら自分は、このコントロール不能な人の言動を楽しんでいるようだ。

 

少しの間を置いて、彼は答える。

 

「……そうだな。生き延びるための選択だった。できなくなることへの覚悟は、していた。人間の身体能力の限界も理解していたから、それほど驚かなかったよ」

 

整理された事実が語られる。

葵は手を胸元に添えて、口を開いた。

 

「私は生まれて間もないから。成長過程で、できないことができるようになるでしょう?その逆を歩んだ蔵馬が、どう感じていたのか知りたかったの」

 

「……君らしいな」

 

時折見せる彼女の物事に対する着眼点に、驚かされる。

できなくなること。

できるようになること。

真逆のようで、本質は同じ――変化という体験だ。

 

「オレにとっては、できなくなるという体験は、むしろ貴重だった」

 

幼い日の記憶が、一瞬よぎる。

あの人に怪我を負わせてしまったこと。

だが、その喪失が教えてくれたもの。

それは人間としての、血の通った温かい感情だった。

 

――もし、昔の蔵馬のままだったら。

考えを深追いせず、彼は言葉を選ぶ。

 

「人間だからこそ、得られたものもある。オレは……今の自分に不満はない」

 

葵は目を閉じ、彼の声に耳を澄ませていた。

静かな部屋に、中性的で繊細な声が柔らかく落ちる。

 

(あなたの音は……耳に優しいわ)

 

胸の奥がゆっくりと温まる。

蔵馬の言葉には、数千年の深みと人として積み重ねた時間の濃さを感じた。

 

「……できなくなるという体験ね。とても素敵な言葉。心に沁みるわ」

 

妖怪にできて、人間にはできないこと。

人間にできて、妖怪にはできないこと。

二つの世界を跨いで生きてきた者だからこそ、語れる言葉だと、葵は直感的に理解していた。

 

「あなたといると、人間の奥深さに触れることができる。人間界は……本当に面白いわ」

 

「人間に、興味を持った?」

 

蔵馬の深い瞳が彼女に向けられる。

問いは軽く、しかし様子を測るように。

 

「ええ。蔵馬は、妖怪と人間の両方を併せ持つ人だから」

 

葵はゆっくりとベッドから降りて、彼の前に立つ。

二人の距離が近づいた。

 

「あなたを通して、いろんな景色が見えるの。私にとっては、学びの宝庫よ。あなたの生きてきた軌跡が、私の世界を広げててくれるの」

 

人間界を、そして人間界で生きる蔵馬をもっと知りたいと思った。

底知れぬ深い生き様は、果てしない物語のように、一夜ではとても知り尽くせないだろう。

 

「そいつは……光栄だな」

 

真っ直ぐで、飾りのない言葉を受けて、蔵馬は目を伏せた。

 

「あなたのことを知ることで、私は自分に気づくことができるわ」

 

「……それは、オレもだよ」

 

「あら。私たちお互い様ね」

 

葵が澄んだ瞳を瞬かせる。

蔵馬は再びふっと息を吐いた。

口元が、わずかに緩む。

 

(お互い様か……。やっぱり君にはかなわないよ)

 

胸の奥で、小さな感覚が静かに反響する。

助けているつもりで、助けられている。

与えているつもりで、受け取っている。

 

言葉にするほど明確ではないが、何かが循環し始めている。

 

川に喩えるなら、細かった流れが、いつの間にか幅を持ち始めたような――。

行き先は、まだ見えない。

だが、不安はなかった。

 

(……共に歩けるなら、それも楽しみだ)

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

人間として生きることに、最初から意味があったわけではない。

ただ、命を繋ぐための選択だった。

 

蔵馬にとって、人間の受精体への憑依は「一時的な退避」。

妖力が回復すれば、妖狐に戻る――そのはずだった。

 

しかし目論見は完全に狂った。

霊体で憑依したというより、南野秀一の肉体と深く融合してしまったようだ。

かつての姿に戻ることはできないという現実を、受け入れるしかなかった。

 

それは蔵馬にとって、「人間の肉体」という檻に閉じ込められただけでなく、自分の存在そのものが、曖昧で不確かなものになった瞬間だった。

 

 

しかし、いつからだろう。

その名前で呼ばれることに、 違和感がなくなったのは。

家族の声。人として向けられる、無条件の温度。

 

仮面のはずだったものが、いつの間にか、皮膚の内側にまで染み込んでいた。

 

変わったのではない。

重なったのだ。

 

(……オレは、もう仮面をかぶっていない)

 

 

その後の蔵馬の人生は、本来の妖狐の姿を取り戻すための旅ではなくなった。

 

――この肉体で、この心で、今の蔵馬としてどう生きるか。

より深い問いへの旅に変わっていく。

 

幽助、桑原、飛影、そして、葵のような自分の正体を知ったうえで近づいてくる存在。

彼らとの出会いが、少しずつその問いに輪郭を与えていった。

 

「オレは、今の自分も気に入っている」

 

この言葉は、妖狐でも、人間でもない、唯一無二の蔵馬を見つけ出した誇りだった。

 

 

葵の存在は、穏やかな日常の象徴であると同時に、 たとえ命をかける戦いの只中にあっても、自分を見失わないための灯火になっていた。

 

だから、蔵馬はこの名を捨てない。

この顔を、偽りだとは思わない。

 

胸に芽生えた、この人を護りたいという想いも否定しない。

 

たとえ明日、再び苛烈な戦いに身を投じることになっても。

そのとき、迷いなく言える自分でいたい。

 

――護ると。

 

そう、静かに決めていた。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

♢おまけ

 

霊界に用を済ませにきた葵は、廊下の角で飛影と鉢合わせした。

 

「もう傷はいいのか?」

 

「昨日蔵馬に診てもらって、だいぶ楽になったわ。飛影、伝えてくれてありがとう」

 

「別に礼を言われるほどじゃない」

 

素っ気なく言いながら、飛影は視線を逸らす。

 

「お前のおかげで、こっちは収穫があったぜ。むしろ礼を言うのは、オレの方かもしれん」

 

「収穫?」

 

「破魔の剣を取り戻した謝礼として、霊界から金を巻き上げてやった」

 

度重なる霊界への不本意な協力、その労をねぎらう『お返し』とでも言うように。

飛影は口元を歪めてフンと笑った。

 

(そういえば……)

 

先ほどコエンマの元を訪れたとき、部屋の前から「うーん……うーん……」と唸り声が聞こえていた。

 

「……そういうことなのね」

 

葵はひとり、そっと納得した。

 

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