翌夜。
外見の優劣を判断基準にしていなかった蔵馬は、訪ねてきた彼女を、改めて俯瞰的に眺めていた。まるで初めて出逢った時のように。
葵はローテーブルの向こうに座っている。
透明感と煌めきのある大きな目、穏やかでどこか儚さの漂う雰囲気、妖怪にしては線の細い体躯。そして、桃色が混ざった象牙色の髪は、
確かに母が言うように、人間界にも魔界にもあまりいないような透明感のある容貌だった。
そして夢の中と同じ、幻想から今しがた生まれてきたようだった。
静かな視線の意図がわからない葵は、素直に疑問を口にした。
「どうしたの?」
「ちょっとね。母さんに言われたことを、思い出していたんだ」
母が言った言葉をそのまま彼女に伝えると、今度は葵が「そうねぇ」と言いながら蔵馬の顔をしばらく見上げた。
互いが互いの顔を見つめる構図になる。
純粋な瞳に観察されるという、不思議な時間が流れる。
「自分のことはよくわからないんだけど、きれいで物腰柔らかで不思議な魅力があるって、あなたのことじゃないかしら?」
「……。」
(君にそんな風にまっすぐ言われると、何とも言えない気持ちになる…)
客観的に人間のこの容姿がそうなのは、理解していた。
今まで、似たような世辞を言われたこともある。
しかし、なぜか彼女から言われると複雑な気持ちになった。
しかもしばらく顔を観察した後で。
(中性的な顔立ちなのが、きれいという表現になるのか…。それともオレが理解していない領域に触れて、そう感じているのか)
椅子に深く腰掛けたまま、蔵馬は胸の奥で小さくため息をついた。
まぁ、こういう感情の動きも悪くない。
そんな彼の心の揺れに気づいたのか、葵はいつもと変わらない表情で言葉をつづけた。
「誤解がないようにしてほしいんだけど、私、あなたの外見はあまり気に留めてないの」
「?」
再び予想を超える発言に、蔵馬は少し戸惑った。
次に何を言われるのかと。
葵の言葉は、爆弾並みの破壊力を秘めている。
「私は、蔵馬の生き様に惹かれているの。あなたの生き様は、強くて、深くて、美しい。私にはない輝きを持っているから」
「……。」
蔵馬の時が一瞬止まった。言葉の破壊力により、しばらく二の句が継げなかった。
どんな褒め言葉をもらうよりも、彼女の飾らない本音が嬉しかった。
自分という存在の「見えない部分」を、葵が見てくれていたこと。
それを「美しい」と言ってもらえたことが、これほどまでに心を震わせるとは思ってもいなかった。
彼は無意識に目を伏せた。
「君は……、さらっと殺し文句を言うんだね」
「そうかしら?今思ったままを言っただけよ」
柔らかな微笑みと共に返ってきた言葉が、またしても蔵馬の心を甘く、確実に揺らす。
(それも殺し文句なんだよ…)
返しに何か言葉を送ろうにも、彼女の天真爛漫な言葉に匹敵する殺し文句は見つからない。
もはや張り合おうとも思わないほど、その言動は蔵馬のコントロールを超えていた。
彼は、今の自分の気持ちに忠実な言葉を伝えた。
「君は、自分のことをよくわからないって言ってたけど…。オレは葵の容姿、好きだよ」
蔵馬の深い眼差しが葵を包む。
その言葉と視線を受けて、彼女の目が少し丸くなった。
姿形を評価、称賛されるのではなく、まっすぐ好意を伝えられ、葵は今まで知っていた蔵馬の意外な側面を見たように感じた。
「…ありがとう」
花が静かに咲くような、優しい笑顔が広がった。
少し気恥ずかしさの混じる表情に、彼は自分の意図が伝わったと感じた。
蔵馬は「君が好きだ」と言わなかった。
「容姿が好きだ」と言ったのは、多層的で繊細な感情からだった。
まだ育てたい葵への想い。
それは自分の感情の輪郭を、あくまで曖昧に、しかし確かに伝える方法だった。
彼にとって、理性を一枚脱いだ瞬間だった。
「お世辞じゃないよ」
「ええ。蔵馬は私に世辞は言わないもの」
「…よくわかってるじゃないか」
互いのことを少しずつ理解し、心の層が一枚一枚重なり合うように、距離が縮まっていく。
その過程が、愛おしいと思える沈黙が流れる。
窓の外の遠い三日月は、二人の密やかな時間をそっと見守るかのように、静かに輝いている。
言葉が無くても、温かい会話が続いているようだった。
心地よい余韻の中、蔵馬は今日彼女に来てもらった本来の理由を思い出し、机の上に視線を移した。
「練薬を改良したんだ。また使ってみて教えてくれ。それと、これは背中の傷跡に」
練薬が入った二枚貝と、5cmほどの白い陶器製の器を葵に差し出した。
「もしかして、先日配合していたもの?」
「ああ。ちょっと配合過程が複雑で時間がかかったんだ。効果は期待できるよ」
「傷跡は本当に気にしていなかったのよ?」
「オレがしたいんだ。受け取ってくれると嬉しい」
そう話した蔵馬の声音は少し低く、何か深い意図が込められているようだった。
葵は彼の手から、二つの薬を受け取った。
陶器の蓋を開けると、中には紫色の光沢のある粘調な軟膏が入っていた。
香りは穏やかで、鼻や目を刺激するようなものではない。
「ありがとう。手が届かないところは、お願いしようかしら?」
「オレは別にかまわないよ」
「ふふ、冗談よ」
涼しい顔で流れるように返答する蔵馬に、彼らしいと葵は思った。
しかし彼女は、蔵馬が抱く傷跡に対する想いの深い部分を知らない。
彼も言うつもりはない。
ただ、過去の体験から、その古傷をそのままにしておけなかった。
薬を渡した後も、蔵馬はどこか気にかかる様子で、何かを確かめるように葵を見つめていた。
その視線の奥には、安堵と同時に、まだ拭いきれない一抹の不安が揺らいでいた。
「蔵馬。何か言いたそうだわ」
その微かな揺らぎに気づいたのか、葵は膝を揃えて座り直し、柔らかく問いかけた。
蔵馬は目を細めて微笑し、そしてゆっくりと切り出した。
「ずっと気になっていたんだが、君の魔界での生活について聞いてもいい?」
「ええ、もちろんよ」
「普段はどこを拠点にしているんだ?」
「D地区郊外に市場があって、そこのよろず屋の一角を借りて占断の仕事をしているの」
葵は手持ちの紙を取りだし、簡単な町の地図を描いた。
「オレや飛影の依頼品も、そこで?」
「ええ。よろず屋の店主が、目利きのある方なの。彼にお願いすると、なんでも収集してくれるのよ」
蔵馬は彼女の指が地図の上をなぞる様子を見ながら、遠い記憶を辿る。
かつて彼が妖狐だった頃、何度か訪れた場所。
「D地区と言えば、比較的妖怪も大人しくて治安もいいところだったな。オレが魔界にいたころは、どこの国にも属さない中立地域で、交易や情報交換も盛んだった。ならず者をかくまいながらも、無法地帯にならない、妙にバランスの取れた場所だった」
「その通りよ。私は最近のことしかわからないけど、店主によれば、千年以上地域性は変わっていないそうよ」
葵は、よろず屋店主一家にお世話になっているそうだ。
店主は鬼の妖怪で、その地域に根差して700年。
知らない者はいないほど顔が通っていて、腕っぷしも強い。
「占断の客入りはどう?」
「ぼちぼちかしらね。生きるのに困らない稼ぎはできているわ。店主と奥さんが、とにかく人を惹きつけるの。上手にお客さんを連れてきてくれるのよ」
「それは頼もしいな」
彼女のような存在を迎え入れ、守ってくれるものがいることに、蔵馬は安心した。
孤独に生き抜いているのではなく、地域に馴染んでいるようだった。
「葵には、不思議と自分の深い話をしてしまう魅力があるから、占断の仕事は合ってるよ」
相手を否定も肯定もせずに、受け止める葵の雰囲気は、初対面でも緊張せず、自然とパーソナルスペースを狭める。
それは蔵馬自身も例外でなく、会って間もない頃に、自分の妖怪から人間となるまでの生い立ちについて喋っていた。
彼の言葉に、葵は数度瞬きを繰り返した。
「なんだか、今日のあなたは褒め上手に見えるわ。お世辞でないことはわかってるけど」
「オレが感じた事実を言っているだけだよ。君はしっかりしているように見えて、その…。何というか、この世界で生きていくには、あまりに無防備で、少しばかり抜けているところがあるから。正直なところ、生活能力があるのか気になっていたんだ」
「おっしゃる通り、よくわかったわね。それ店主にも言われたの」
(やっぱりか…)
蔵馬は心の中で、ため息まじりに呟いた。
人間界ならまだしも、弱肉強食の魔界で、このおっとりした気質の人はどう生きているのかと、ずっと気がかりだった。
自然と、葵を支えたいという感情が湧き上がる。
しかし、同時に彼は知っている。彼女は、守られるだけの存在ではないことを。
「でも、それを補うくらいの縁には恵まれていると思うの」
葵はそっと視線を上げて、蔵馬をまっすぐに見つめた。
「人間界ではあなたのおかげで、いろんな人に出会えた。あなたは私の世界を広げてくれたわ」
「そうか」
指南役として、意識をしていたわけではない。
ただ彼の冷静な判断と客観性から提案したことで、霊界公認の妖怪となり、彼女自身の能力を伸ばし、体質の改善をすることにつながった。
蔵馬がいなければ、決してたどり着けなかった今だった。
葵はふわりと笑った。
どこか満ち足りたその微笑みが、蔵馬の胸の奥を温かく撫でた。
「蔵馬は面倒見がいいけど、これは元々なの?」
「オレは面倒見がいい方じゃないよ」
「そうかしら?」
「何かしら目的があったり、興味をもてば面倒を見ることもあるけどね。基本的には放っておくタイプだ」
盗賊団の頭領をしていた時代もある彼は、部下を育てたり集団を発展させることには縁があった。昔その行動原理は、己の野心だった。
育てるためではなく、使うために。
「私の場合はどちらかしら?」
葵の問いに、蔵馬の瞳がわずかに緩む。
「好奇心があったよ。君は、オレにとって色々と新鮮だった。たとえば…、道を尋ねるのに、人間界では一般的に声をかけるのをためらう彼らに、堂々と聞いていたからね」
蔵馬の脳裏に浮かんだのは、茶髪のリーゼントの男たちに、臆せず話しかける葵の姿。
その光景を思い出すだけで、蔵馬の表情が無意識に緩んだ。
数秒後、自分の表情に気づき、口元に手をやった。
どこか居た堪れなくなり、視線を窓の外へと逃がした。
「そうだったかしら?」
「…うん」
(……自分がこれほど思い出し笑いをするとはな)
特に彼女との出来事は、一つ思い出すと尾を引いて別のことも思い出されてしまう。
葵が目の前にいる時は、どうにも調子が狂って、油断ならない。
そう心の中で、苦笑するしかなかった。
この心の動きを表面には一切出さず、涼しい顔のまま、蔵馬は椅子にもたれていた。
そんな彼の内心を知る由もなく、葵は少し身を乗り出して、きらきらとした瞳を向けた。
また、いつものいきなりな質問が来る。
彼の直感がそう伝えた。