「私も蔵馬に聞きたいことがあったんだったわ」
葵の目が、知的な光を宿して蔵馬を見つめた。
そのまっすぐな視線は、和やかだった場の空気に、すっと一本の糸を通したように、微かな緊張感をもたらす。そして彼の予想通りだった。
「霊界図書館で読んだ『魂の起源と統合』という本に、一つの肉体に一つの魂が宿ると書かれていて。蔵馬が、人間として生まれた時の話を聞いてみたいの」
(…また随分とニッチな本を読んでるな)
蔵馬は内心、わずかに呆れたように息を吐いた。
この人は、本当に生まれて2年しか経っていないのだろうか。
その精神性と知的好奇心に、いつも驚かされる。
「いいよ。そんなに面白い内容じゃないだろうけど」
「ハンターに追われて、人間の受精体に憑依したのよね?」
「そうだ。霊界特別防衛隊を魔界では通称ハンターと呼んでいる。霊界が管理している魔界の一部は、ほんの限られた場所だ。霊界は何百年もかけて、少しずつ管理地区を広げている。当時から、パトロールと称して、腕試しと研究目的で妖力の強い妖怪を狙って駆除していたこともある」
「蔵馬は、たまたま狙われたの?」
彼は、遠い目をして宙を見つめた。
深い湖の底のような双眸と脳裏が、長い魔界の記憶の断片を映し出す。
「計画的だった可能性も考えられる。振り返ると、定期的に理由もなく襲撃を受けることがあった。あれも、霊界が妖怪にさせていたのかもしれない。その後だ。700年ほど前に、オレは人間界にいった」
「活動拠点を人間界に移したということかしら?」
「そうとってくれていい」
「あなたを狙った理由は、名前が売れていたから?」
「そうかもしれないな。特防隊にとって、A級妖怪を退治したという経歴があれば、霊界の力を誇示できる。他にも狙われる理由はあったから、実際のところはわからないけどね」
「A級妖怪という定義は、霊界のもの?」
「ああ。霊界の力で手に負えない妖怪を、全てS級としているんだ。その下のA級妖怪が霊界の手に負える範囲内の中で、上位の階級となる。霊界が定めた力の階級に過ぎないため、魔界からみれば失礼な話しだけどね」
蔵馬の場合、A級妖怪の盗賊として、人間界で暗中飛躍していた経歴もある。
霊界にとって、危険因子として標的にできる要素がそろっている。
彼ほどのつわものでも、霊界の長年にわたる組織的な奸策に手こずった。
「そうだったのね…。それで深手を負って、霊体で今の体になったのね」
「ああ」
「もしかして、霊体で憑依したということは、蔵馬の肉体は、どこかに保管してあるのかしら?」
「いや。オレの体は、あの時のダメージが大きくて滅んでいるよ。そのため霊体の状態で人間界にいたんだ」
彼は当時を思い出していた。
あれほどの深手を負っていた肉体からは、離れるしかなかった。
もし肉体が残っていれば、再び妖狐として生きる道も、あったのかもしれない。
今となっては叶わぬ望みだった。
「蔵馬は、南野秀一として生きてきて、妖怪としての意識を保ったままなのよね?」
葵の声は、静かでありながら芯を持っていた。
「そうだよ」
蔵馬は短く答える。彼女を通して、どこか自分を見つめ直すような、不思議な時間だった。
「南野秀一としての意識になることはあるの?」
「オレの意識は、蔵馬のままだ。しかし時々、別の意識が重なっているように感じることもある。南野秀一の肉体に憑依したつもりだったんだが、どうやら融合に近いらしんだ。オレは蔵馬であると同時に南野秀一でもある」
「そうなのね」
彼女の瞳には、深い思索の光が宿る。
話題が意識の話になって、葵は何かに気づいたような表情をした。
彼女が霊界で見た本の一説には、『一つの肉体に一つの魂が宿る』と書かれていた。
しかし蔵馬の現在を知って、一つの見解にたどり着いた。
葵は、ゆっくりと息を吸い込み、静かに言葉を紡いだ。
「南野秀一に入る予定だった魂は、とても器の広い優しい気質だったんでしょうね」
その言葉は、蔵馬の思考の全く届かない場所から飛来した。
彼女の声と言葉は、彼の意識の深い所に清らかな波紋を広げた。
「……っ」
蔵馬は息を呑み、驚愕に目を見開いて葵を見た。
今まで、人間として、妖怪として、この肉体で生きてきて、そのように考えたことは、一度たりともなかった。
彼の心の奥底で、これまで認識することのなかった何かが、微かに揺れ動いた。
「…そんな風に言われたのは初めてだよ。どうしてそう思うんだ?」
「本来、体に宿る魂は一つ。ただ例外もあると思ったの。蔵馬の場合、霊体で南野秀一になる前の受精体と融合して今があるのよね。元々は、南野秀一になる魂がそこに根付くはずだったところを、蔵馬の霊体が入った。その霊体にはあなたの魂も含まれている。そのため、主要なところをあなたに譲って共存しているんじゃないかしら」
「……なるほど」
霊体には、まだ個人としての意識がある。
魂は霊体よりさらに純粋な状態で、肉体と霊体を包んでいるもの。
個人を超えた、分離のない大きな意識となる。
蔵馬の体には、南野秀一の魂と蔵馬の魂の二つが共存して、今の蔵馬の肉体と霊体を包んでいるというのが葵の仮説だった。
彼女の仮説が正しければ、蔵馬の今の意識に、時々別の意識=南野秀一のものが重なっているように感じることもあり得る。
「もしそうだとしたら、本来自分だけが入る肉体のところを、あなたという妖怪との共存を受けいれた南野秀一の魂って、とても懐が深いと思ったの」
(やっぱり、葵は面白いな)
鋭く柔らかい感性で物事を観察して、自由で開かれた独自の考えを生み出す。
そしてどこか真理という的を得ているから、葵から言われたことを、素直に受け入れることができる。自分の中の何かが喜んでいた。
これまで、南野秀一として生きてきた日々を、彼はどこか「やむを得ず」受け入れてきたところがあった。
しかし今、彼女の何気ない一言が、そこに新たな意味と温かさを与えた。
「そうだな。オレは
自分の顕在意識に上がっていないことを、彼女が触れさせてくれる。
数千年生きてきても、まだ学びの途上だった。
蔵馬の言葉に、葵は目を細めた。温かく、優しく包み込むような眼差しだった。
「そうね。今の言葉、きっとあなたの中の南野秀一の魂は喜んでいると思うわ。そして蔵馬。南野秀一の体を大事にしてあげてね」
「…ああ」
柔らかい言葉だった。けれど、そこには強い願いのようなものが含まれていた。
これから向かう暗黒武術会の行く末を案じているのか、偶然なのかわからない。
しかし蔵馬への想いは確かに伝わった。
(伝え方が葵らしいな…)
彼女の性格上、今の言葉を伝えるために、話を持ち出したとは思えない。
偶然気になっていたことを尋ねて、その延長上に蔵馬への想いを伝える結果が生まれただけ。
その自然な流れも、心地の良いものだった。
「君は、時々真理を突く話しをするから驚かされるよ」
「伊達に霊界図書館で読書してないでしょう?」
「はは、そうだな」
蔵馬は組んでいた足をほどき、別の足を組み直す。
話に花が咲いて、あっという間に時間が過ぎていった。
窓の外の夜は深くなり、月の気配も変わる頃。
それでも、まだこの時間を続けていたかった。
「不思議だと思わない?」
ふと、葵が声のトーンを落とした。
「亡くなったら行くはずの霊界でも、魂がどこへ旅立つか完全にわかっていない。私たちの世界は、わかっていることのほうが、少ないのかもしれない。だからこそ、いろんな想像力をもって、多方面から物事をとらえると、真実が見えてくる気がするの。でもこれは、あなたが私に教えてくれたことよ」
その言葉に、蔵馬は軽く目を見開いた。
「教えた覚えはないけど、君は一つの出来事から多くを学び取るのがうまいな」
「ふふ。『オレの話は半分本当で半分嘘だと思うくらいでちょうどいい』って言ってたでしょう?あなたに教えてもらって、物事を表と裏の両方から見るようにしているの」
「そんなこと…言ったかな」
蔵馬は穏やかに笑った。
彼にとってはなんて事のない言葉も、彼女にとっては胸にしっかりと刻まれるものだった。
不思議と、葵と何気ない会話をしていると、南野秀一としての自分、妖怪蔵馬としての自分というものが溶けだして、素の自分に還ることができる。
肩から力が抜け、呼吸が深まる。
(葵のことを無防備と思いながら、オレは彼女の前で無防備でいることを許されているのかもしれない)
過去も未来も、全てがこの「今」に集まっているように思えて、それでいいと心から感じられる。
不意に、過去の記憶がよみがえる。
「言えるわけないじゃないか」と諦めに似た感情と共に、クラスメイトに想いを告げることなく、夢幻花で記憶を消した過去。
その冷たい蓋をしていた記憶が、今は、葵の存在のおかげで変わった。
純粋に相手を想うことを、臆することなく自分に許せるようになった。
その温かい変化が、冷え固まっていた過去の傷すらも、まるで春の陽光のように、優しく塗り替えていくようだった。
今更だが、どうして葵に惹かれ始めたのかと考えていた。
以前に夢幻花で彼女の記憶を消そうとした時、自分に感情をストレートにぶつけてきた。
(あの怒った顔が忘れられないんだ…)
彼女が怒りを露わにして拳を向けたこと、損得勘定抜きで自分といたいと純粋に言われたことが衝撃だった。
あのように言われたのは、初めてだった。
一度閉ざされた心が、彼女によって少しずつ開かれた瞬間だった。
雪解けのように、静かに、確かに。
そして蔵馬の脳裏に、ふと、別の記憶がよみがえった。
彼が暗黒鏡を使って、自分の命と引き換えに母親を助けようとしたとき、幽助が言った言葉があった。
「母親が自分のことで泣いているの、見たことがあるか?」
幽助は自分の命を分け与えることで、蔵馬の命を助けた。
(……あの時と、どこか似ている)
蔵馬は、今目の前にいる人をちらりと見た。
葵が彼に拳を向けて、真っ直ぐな瞳で言った言葉。
「私は、あなたと話すのが楽しかった。だからこれからもそうしたい。その私の自由意志を奪う権利はない」
一見まったく異なる状況。だが本質は同じだった。
どちらも、飾らない気持ちを真正面からぶつけてきたこと。
そのまっすぐさが、蔵馬の深く閉ざされた心の奥に、静かに温かい光を差し込んだ。
幽助と出会ったときに感じた、どこか懐かしいような既視感。
それは、葵とのあの瞬間が先に彼の中に刻まれていたからだ。
(オレは葵に、心を素直に通わせることを教えてもらったんだな)
虚空を見つめながら、そこに当時の葵と自分の面影をみた。
心の奥に、小さく温もりが灯る。
「…蔵馬?」
葵の声に、蔵馬はゆっくりと視線を戻した。
「……ああ、なんでもない」
先ほどの会話からやや間があって、彼は静かに何かを思い返しているようだった。
(変なこと言ったかしら)
葵がそう思っていると、蔵馬がふっと目を細めて笑いかけてきた。
「ちょっと、昔のことを思い出していたんだ」
「魔界にいた時のこと?」
「いや、君のことだよ」
その瞬間、葵の瞳がわずかに見開かれた。
しばらく蔵馬に柔らかい眼差しを送った後、ふっと微笑んだ。
「あら。ちなみにどのような?」
「…それは内緒」
少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべる。意味深長な言い方は、彼らしい。
「相変わらず、秘密主義なのね」
(秘密主義は、君といい勝負だな)
蔵馬は心の中でそう思ったが、言葉にはしなかった。
葵の場合、秘密主義というよりも、謎が多いという表現の方が適切かもしれない。
数千年生きてきた彼でさえも、彼女のようなタイプは初めてだった。