その新鮮な思いに胸を満たされながらも、ふと現実の時間が気になり、視線を時計へ向ける。
時刻は22時をまわる。
時間の経過を感じた時、もう一つ渡すものを思い出し、蔵馬は引き出しを開けた。
「話し込んで忘れるところだった。葵、これをどうぞ」
椅子から立ち上がり、白いローテーブルを挟んで彼女の向かいに座る。
まだ少し早いけどと、蔵馬が渡したのは。
「去年のホワイトデーのお返しです」
「一年越しのお返しだなんて、律儀ね」
去年の出来事を思い出しながら、葵は笑って受け取った。
蔵馬と彼女が出逢って間もない頃。
彼から借りたコートを返すときに、同梱したのがホワイトデーのクッキーだった。
図書館で人間界について学んでいるとき、自習エリアで高校生が話していたのを葵は小耳に挟んだ。そこでホワイトデーという、感謝を形に表す日があることを知り、近くの商店街に買いに行った。
「あんなところで、プレゼントをもらったのは初めてだったから、とても印象深かったよ」
「そういえば…場所を選ばなかったわね」
顎に手を置いて思い出す彼女の仕草に、蔵馬がふっと微笑んだ。
電気もない暗い廃墟、しかも妖怪と対峙した後だった。
そういう時と場合だろうかと思いながら、蔵馬は当時受け取った。
彼女は出逢ったころから、大らかで独自のペースがあって、良いも悪いもなくこの男の調子を惑わす。
(今日は、やけに昔のことを思い出す日だな)
まるで、一昨夜見た夢の続きを現実の中でなぞっているかのようだった。
「開けてもいいかしら?」
「もちろん」
彼女の両手にちょうど収まる銀色の箱は、赤いリボンが丁寧に巻かれていた。
ゆっくりとリボンを解き、蓋を開ける。
中から現れたのは、形も色も異なる四粒のチョコレートだった。
「これ…チョコレートっていう食べ物?」
「そうだよ。初めて?」
「ええ。きれいね、宝石みたい」
目を輝かせる彼女に、蔵馬は柔らかく微笑んだ。
「食べてみて」
彼女は、その中でも特に目を引く柔らかな曲線を描いた一粒を手に取り、そっと口に運ぶ。
その瞬間、葵の顔が花が開くようにぱっと明るくなった。
彼は、この表情を見るのが好きだった。
(だから、つい君に何かを贈りたくなるんだ)
愛しさを包み隠すために、蔵馬は軽く口元に手をやる。
さりげない彼の愛情表現だった。
「美味しい…。甘くて深みのある香りがする。…ん?中に何か入ってる?」
「ああ、プラリネの方を食べたんだね。これは、中に木の実と砂糖を混ぜたものが入っているんだ」
チョコレートが何からできているのか尋ねられ、蔵馬は簡単に説明した。
「葵の体質を考慮して、カカオの含有量が多い、少し大人向けの味を選んでみたんだ」
と、彼は付け加えた。
「人間界の食べ物って面白いわね」
「気に入った?」
「ええ、とても。ご馳走様」
葵は箱のふたをしまいかけて、残る3つをしばらく眺めていた。
子供のように、その双眸はきらきらと輝いている。
ふとした縁で始まった彼女との関わりが、今では彼の中にしっかりと根を張っている。
こんなふうに誰かと心を通わせる未来が来るとは、想像もしていなかった。
そして今。
(どんな顔を、見せてくれるだろうか)
そう想いながら、彼女のために行動する自分がいることが、数千年の生を歩んできた今でも、どこか信じがたい不思議な心地だった。
そんな余韻に浸っていると、葵の何気ない言葉が、蔵馬を現実へと引き戻した。
「それじゃあ、今日は色々と頂いてありがとう」
蔵馬は、目を閉じて静かに息を吸う。
そして深い瞳を開き、心からの想いを、言葉に乗せた。
「…オレの方こそ、君に会えて良かった」
その声音は、誰よりも優しく、繊細で。そして、何よりも真実だった。
これから、彼は勝算のない戦いに向かう。
もしかすると、今日が葵と会う最後かもしれない。
暗黒武術会がどのような大会か、彼女も知っている。
それでも、葵はいつもと変わらぬ笑顔を向けてくる。
その笑顔が、なぜか胸に痛かった。
なぜだろう、心の奥で何かが訴えていた。
引き留めたくて、伝えたくて。けれど、この男がうまく言葉にできなかった。
葵はもらったものを風呂敷に包むと、立ち上がって蔵馬に背中を向けた。
その背中がどこか遠くに行くようで、自分とのそこはとない距離を感じた。
次の瞬間、蔵馬の理性を打ち破るように、想いが、一気に、はじけるように花開いた。
(…行くなっ)
叫びたい衝動に突き動かされるままに、蔵馬は動いた。
伸ばした手で、彼女の左手を捕らえるようにぎゅっと掴んだ。
そして、迷いも戸惑いも全てを飲み込むように、葵の体を後ろからそっと、決して離さないという強い決意を込めて、抱きしめた。
ふわりと、手にした風呂敷が床に落ちる小さい音が響く。
その音さえ、今の二人には胸に響いた。
葵の首元と胸元にかかる彼の長い腕は、熱くて。いつかとは違う感触。
優しくて、けれどしっかりとした想いが伝わってくる。
「っ…蔵馬っ?」
小さく戸惑う葵の声が、彼の胸を震わす。
それでも蔵馬は離さなかった。
「……しばらく、このままで」
耳元で囁くような、繊細で少し高い声色に、彼女は後ろを振り返るのをやめた。
少し驚きながらも、葵は蔵馬に体を預けた。
背中越しに伝わる体温と、早まった鼓動が、彼女の中にじんわりと静かに染み込んでいく。
(あなたは、こんなにも温かくて、こんなにも熱いのね…)
胸の奥で、柔らかく芽吹くものがあった。
その静かに心をくすぐる涼やかな匂いに、葵は目を閉じた。
この温もりを、彼の匂いを、知っていた。
ちょうど一年前、同じように抱きしめられた記憶が、ゆっくりとよみがえる。
「……葵」
優しさと包容力のある声までも、切なく彼女を抱きしめていた。
葵の心は、揺れながら温かくなる。
蔵馬はこみ上げる想いを、もう抑えられなかった。
衝動は、思考に到達する前に冷静な彼を動かした。
腕を通して伝わる彼女の心の拍動は、いつもより強くて早い。
それは、この抱擁が確かに葵の心にも響いている証。
何よりも、彼女が今、この腕の中で確かに生きているという実感だった。
これは夢じゃない。
彼女の首筋にそっと、顔をうずめる。
柔らかく優しい匂いが強くなり、蔵馬は深く息を吸い込み、目を閉じた。
(君を…この腕の中で、ずっと感じていたい…)
あらゆる思考が消え去り、ただ今ある全てを、この温もりと香り、呼吸の全てを感じていた。
心が、魂が、得も言われぬ歓喜に震えた。
出会って間もないころは、それほど感じなかった葵の匂い。
今ではすっかりと馴染みになっていた。
蔵馬はこの香りを知っていた。
酔芙蓉の香り。
淡く優しく、乳香に近いどこか懐かしい安息の香り。
花から生まれたと言っていたが、きっと彼女は魔界の酸芙蓉から生まれたんだろう。
彼女の香りは、蔵馬の心を優しく包みこむ。心を柔らかく解きほぐしていく。
夜が深まり、部屋を包む静寂は、甘く切なく、優しかった。
二人だけの、静かでかけがえのない時間。
柔らかく温かい肌が心地よくて、愛おしい。そして切ない。
先に口を開いたのは葵だった。
自分の体に回された蔵馬の腕に、彼女はそっと両手を添えた。
「人肌というのは、こうも温かいのね」
「……うん」
蔵馬の声は少しかすれていた。
自分の中の愛しさが、どんどん育っていく。止められそうもなかった。
それがどんな花を咲かせるのか、今はまだわからない。実るかどうかさえも。
(先のことは考えなくていい。今の素直な気持ちを大切にしたい)
ただ彼女をかけがえなく思う、この気持ちだけは、確かだった。
やがて、抱きしめた腕の力をそっと緩める。
名残惜しさに胸を焦がしながら、蔵馬は葵を離した。
その深く切ない眼差しが、想い人をそっと包む。
二人の間の温度が、部屋の中に溶けていくようにたゆたう。
これより2週間後、蔵馬は暗黒武術会が開かれる首くくり島へ旅立って行った。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
「オレは葵の容姿、好きだよ」
自分でも驚くほど自然に出た。
しかし、言葉を放った直後。 蔵馬の内心で、何かが小さく崩れる音がした。
好きだと思った。心が動いた。
けれど、それをそのまま言葉にするには時期尚早で、ほんの一部だけを拾って伝える。
君の考え方、 君の髪、 その瞳。
まるでそれだけに心惹かれているかのように。
(本当は知ってる。どの一部にも、全部が宿ってる)
その「考え方」には、彼女の生き方が透けていた。
その「髪」には、魔界の風を受けて育った彼女の歩みがあった。
その「瞳」には、誰かを信じるという強さがあった。
理性的な選択だった。
全てを愛していると気づいてしまえば、もう制御できない。
だから、「部分」に名前をつけて、蔵馬は好きのかけらを差し出す。
でも今夜。
静かな空気の中で彼女を見ていたら、気づいてしまった。
葵の一部を好きになるということは、結局、全体を抱きしめているのと同じだった。
(……オレはもう、君という存在すべてに、心を明け渡している)
彼女が何も知らず、柔らかく微笑むのが、苦しいほど愛しい。
どうしてそんなに無防備で、真っ直ぐなんだ。
蔵馬は目を伏せた。 小さく、声にならない心の声が胸の奥で揺れていた。
葵がそこにいるだけで、自分はどれだけ救われているだろうか。
(もう、隠せない…。君の全部が、オレの心に根を張ってしまってる)
その夜、彼は結局それ以上の言葉を発せなかった。
「好き」という一言さえも、持て余すほどの想い。
窓の外の夜空を眺める。
小さな背中を見送った余韻が、月夜に残っている。
蔵馬は、恋する理性の敗北を感じた。
沈黙の奥にある愛は、すでに葵に向かって、優しく流れていた。
それが言葉になるのは、もう少し先の夜かもしれない。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
おまけ♢
数か月後。
「赤や銀がきれいで、宝石みたいだったから、時々眺めてるの」
ひょんなところから、ホワイトデーのお返しに彼がわたしたチョコレートの話になり、葵が未だ食べずに手元に置いていることを知った。
「えっと、葵。食べ物には賞味期限というのがあって」
説明していくと、葵の表情がだんだんとしおれた花のようになっていく。
食べ物の賞味期限について、知識としては知っていたが、失念していた様子だ。
彼女は、食事摂取をあまり必要としない妖怪だ。無理もない。
「…もう食べられないのね」
「ああ…」
どうにも悪いことをしたような気持ちになり、蔵馬は翌日、似たようものを彼女に渡した。
「温かい季節だから、早めに食べるんだよ」
葵は嬉しそうに箱を開けると、蔵馬に差し出した。
「一緒に食べると、もっと美味しいわ」
「……そうだね」
心臓を鷲摑みされるような笑顔に、一瞬彼の時はとまった。
これで6章オープンハート終了です。
少しずつ、読んでくださる方が増えて、嬉しいです。
蔵馬好きな方に届けばと思っています。
ナレーション部分も、蔵馬が話しているように想像して聞くと、蔵馬好きさんには堪らないかもしれません。
ご感想、頂けると励みになります。
ヘーゼル