暗黒武術会、決勝戦を目前に控え、蔵馬は悟っていた。
今のままの姿では勝てない…。
もう一度妖狐の姿に戻る方法はないか考えていた。
葵がいれば、調査と調達を頼むこともできたが、こればかりはしょうがない。
仮にできたとしても、時間的に間に合う保証もない。
何よりも、この苛烈な戦いに彼女を巻き込むつもりはなかった。
裏御伽チームの主将に聞くしかないと思っていたところに、主将の鈴木が現れた。
そして前世の実を蔵馬に渡した。
前世の実は、若返りの作用がある。
裏御伽チーム戦で、対戦相手が蔵馬に使い、彼が一時的に妖狐の姿に戻ったのだ。
まだ試作段階のものではあるが、使う価値は十分にある。
蔵馬は人目を避け、首くくり島の静かな森の奥深くへと移動した。
夕暮れ時に、森は橙色に染まる。
前世の実を口に含み、数分後。
内側からあふれ出す妖力。体の隅々にまで満ちていくそれに、目を細めた。
「……戻れたか」
吐息混じりに漏れた声は、無人の夜の神殿に響く鐘の音のように、冷ややかで、圧倒的な存在感をもつ。
銀の長い髪が風をとらえ、獣の尾が静かに揺れる。
妖狐の姿に戻ると、聴覚、嗅覚などの五感や第六感も、麻痺が解けたように研ぎ澄まされる。
遠くの木の葉が揺れる音、土の中の微かな匂い、空気の流れ一つ一つが、肌に直接触れる。
世界をありありと映し出す。
かつての感覚を再び取り戻し、蔵馬は軽く跳躍して、風のように森の中を駆ける。
体が軽い。先日の裏御伽チーム戦以来の、懐かしい感覚だった。
しばらくして、風の流れる方向から、抗いがたいほど馴染みのある気配が届く。
妖狐の耳が反応して動く。
この場にあるはずのない、甘くどこか懐かしい香りが、鼻腔を直接撫でるようにかすめた。
南野秀一の肉体では気づくのが遅れていただろう。
妖狐の身となった今、その存在は、獲物を見つけるのと同じで、手に取るように鮮明だった。
蔵馬はしなやかに動きを止めた。
(…葵か。これも何かの縁というやつか)
この姿を見て、彼女がどのような反応をするのかと好奇心が湧く。
葵は妖狐の蔵馬の姿を知らない。今の蔵馬と、彼女との妖力の差は歴然。
(恐れを抱くのだろうか、妖気に圧倒されて言葉を失うか、それとも…。)
好奇心が、彼の胸に微かなざわめきを生んだ。
心臓の奥を細い指先で触れられるように、ぞくりと甘美な疼きが走った。
それは、獲物を前にした妖狐の衝動に限りなく近いが、対象が葵であることに、奇妙なまでの充足と、同時に僅かな困惑が伴った。
この手で、彼女を、その存在そのものを、隅々まで確かめたくなる。
蔵馬は嗅覚と聴覚、第六感を頼りに、葵が自分を見つけやすい場所に移動した。
程なくして、想定通りに彼女がやってきた。
気配を消しているが、今の蔵馬の前では意味をなさない。
葵の小さな呼吸さえ、愛おしいほど手に取るようにわかる。
妖狐はふっと口角を上げると、彼女が潜んでいる木の陰に向かって涼やかな声をかけた。
「…いるんだろう?葵」
静けさを切り裂く魔性の音に誘われるように、葵はゆっくりと姿を現した。
「飛影からあなたのいるところを聞いて、追ってきたんだけど、お取込み中だったみたいね。盗み見するつもりはなかったの」
(オレが、蔵馬だとわかるようだな…)
二人の距離はわずか1メートル。
夕暮れの名残を背負った葵が、いつもと変わらず彼をまっすぐ見上げていた。
この姿が蔵馬なのかと、疑いや恐怖もなく、穏やかに微笑んでいた。
「これが、妖狐のあなたなのね。しなやかでいて鋭く力強い、そして涼やかな妖気ね」
言葉とともに流れ出る清らかな声に、彼の銀髪から見える獣の耳が反応する。
時刻は逢魔が時。夕日が沈み夜が降りてくる空に、颯爽とした白銀の妖狐の姿は、よりいっそう鮮やかに浮かび上がっていた。
「葵…。思っていた反応と違うのが、興味深い」
その声には、微かな愉悦と、抑えきれない独占欲がにじんでいた。
銀色の髪と尾を揺らしながら、蔵馬は風を纏うように距離を縮めた。
そして自分より華奢な彼女の腕を取った。
「やっと妖狐のあなたに会えたと思うと、嬉しいの」
(やはりお前は、オレが見込んだ通り、そこらへんの女とは違うな)
右手で掴んだ腕から、慣れ親しんだ彼女の妖気が伝わる。
この身を変えても、葵は変わらない。
こんなところで、こんな姿で邂逅するのは運命のいたずらか。
それにしては出来すぎている。
蔵馬は、獲物の存在を確信した獣のように、低く、しかし悦びに満ちた声で、ふっと喉を鳴らした。
「お前は、オレのどんな姿を想像していたんだ?」
好奇心の混ざった声が、葵の
「知りたい?」
葵が小さく微笑むと、蔵馬は彼女を見つめた。
金色の双眸は、月の光を宿した氷のようにクールでありながら、燃えるような熱を宿し、目の前の愛しい存在をその瞳の奥深くへと、余すところなく抱きしめている。
「言うまで、この手は離さんぞ」
彼の左手が葵の頬にそっと触れた。
言葉とは裏腹に、その手は生命の息吹を確かめるように、彼女の柔らかな輪郭を、熱を帯びた指先で撫でる。
その触れる妖気が、蔵馬の肌の奥深くへと染み入り、葵の存在を彼自身のものとして刻みつけるようだった。
同様に、蔵馬の指先から、微かな妖気が肌を伝い、彼女の体の奥へと染み入る。
それは通常の妖怪なら、身を竦ませるほどの圧力のはずだった。
しかし葵はそれを心地よい温度として受け止め、臆することなく微笑んだ。
彼の妖気は、彼女の魂を揺るがすのではなく、むしろ優しく包み込むようだった。
「そうね。妖狐と聞いて、人型だと思っていなかったと言ったら信じる?」
「フ。葵ならそれもあり得るが、今のは冗談に聞こえるな」
「ええ。実は、あなたの妖狐の姿を意識的に予想することはなかったの。ただ、蔵馬から聞く過去の話を通して、南野秀一の姿とは陰陽のように対極にある存在だと感じていたわ」
(…お前らしいな)
葵にしかできない、そんな受け止め方。
予想を超える答えに、妖狐の蔵馬は満足気に微笑した。
葵の言動は、今の蔵馬も十全に魅了する。
「この姿、初めて見るはずなのに、お前の眼差しは懐かしそうにオレを見る。羨望や称賛でないことが好ましい」
(どんな姿になっても、お前は、オレを見失わないか…)
月華のような瞳が、葵の姿を映して光る。
弾力のある頬と、瑞々しい花のような髪を、蔵馬の熱い指がなぞる。
それでも、彼女の視線は揺るがない。まっすぐ、温かく、ただ彼を見ていた。
その無垢さが、蔵馬の心を密やかに震わせた。
妖狐になった今も、彼の意識は南野秀一の肉体に宿る蔵馬のまま。
声質や口調は変わるが、葵への想いは変わらない。
むしろ、妖怪としての性が色濃く出る分、自分に正直になり、好みのものを手に入れたくなる。
本能は、美しく、気高く、そして慣れ親しんだ存在を、躊躇いなく求める。
(妖狐では、さらに葵を求めるか…)
五感が鋭くなった彼の嗅覚を誘惑するように、芳しい彼女の花の香りがくすぐる。
深い星空のような瞳が、より鮮明に細部まで輝いて見える。
もう少し近くで見たい、今すぐにでも抱き寄せたい、その甘い匂いを胸いっぱいに吸い込み、この腕に閉じ込め、二度と離したくない。
そんな抗いがたい衝動が、鋭く爪を立てて彼の胸の奥を、獣のように叩いた。
それでも蔵馬は、全身の力を振り絞るように、ぎりぎりのところで自制を保った。
深く息を潜める感情の揺らぎを映すかのように、銀の尾がわずかに震える。
乾いた風が、二人の髪を揺らす。
そんな中、ふいに落ちた彼女の言葉。
「とても私では敵わないでしょうね」
その声は、静かな水面に落ちる雫のようだった。
純粋無垢な一言が、理性に深い亀裂を入れる。
目の前の女は、無自覚に、的確に妖狐の心を揺らす。
「…なんだ、試したいのか?」
低く甘い声で囁く。冗談に紛れた言葉の中に、抑えきれないような熱が宿る。
せっかくこの姿に戻ったんだ。戯れに過ぎぬと知りながら、この場で、この姿で手合わせするのも悪くない。
そんな本能的な欲求が、彼の理性の淵をかすめた。
「お前が望むなら、それも悪くない…」
ぐいっと蔵馬は葵の腕を引く。
互いの体が合わさる直前のところで、それは起こった。
彼は手を止めた。
「残念だったな…。時間切れのようだ」
彼女の体温が、柔らかな肌が、こんなにも愛おしく名残惜しい。
蔵馬は小さな腕をゆっくりと放し、一歩、また一歩と距離をとる。
銀髪が風にほどけ、長い尾が溶けるように消える。妖狐の姿の輪郭が曖昧になっていく。
それはやがて、刹那の夢のように5,6歳の子供になり、徐々に大きくなり、いつもの人間の蔵馬の姿に戻っていた。
闇が落ちた孤島。
星が淡く輝く空の下、目の前に立つ葵の眼差しは、妖狐の姿を披露したばかりの蔵馬の心を、複雑な波で揺らした。
妖狐としての本能が呼び覚まされた興奮と、その姿を彼女に見せてしまったことへの戸惑いが胸の奥でせめぎ合う。
それでも、彼女が一切変わらない態度でそこにいることに、安堵の熱がじんわりと広がっていくのを感じた。
二人の間に、先ほどの余韻が漂う。
数週間ぶりに会ったのが、まさか妖狐の姿で、というのも不思議な巡り合わせだった。
今の蔵馬の姿になったことで、改めて再会したように二人は見つめあう。
深い眼差しが交錯する。
「…驚かせてしまったかな」
繊細で艶のある声は、いつもより少し低かった。
「いいえ。昔のあなたと、今のあなたと同時にお会いできるなんて、光栄よ」
「…そうか」
命の保証のない戦いの前に、蔵馬は葵に出会えて良かったと思った。
彼女の性格を考えると、きっと飛影に言われなければ自分の所に来なかっただろう。
柔らかく微笑む顔を見て、彼の胸の中で何かがほぐれて、温かくなった。
(ありがとう…葵)
蔵馬は心の奥底から湧き上がる感謝を、言葉にはせず、ただ静かに彼女の存在そのものへ贈った。
夜風が二人の間を吹き抜け、その風に乗せて。
それは、触れることのできない、確かな繋がりだった。
明日の決勝戦に対して、よくある応援の言葉を言うわけではなく、いつもと変わらない彼女でいることが嬉しかった。
二人の間に漂う温かな空気、そして夜空に包まれ、彼女が言葉を紡ぐ。
「魔界の占断師として、予言します。蔵馬、あなたは死なない。無事に帰ってくる」
その言葉は、呪文のようにすっと彼の心と体に刻み込まれた。
このシーン、前回の第3者視点と今回の蔵馬視点で書いて、とても感慨深かった覚えがあります。
私は妖狐の蔵馬も好きなので、彼の醸し出す魔の本能と数千歳の歩み、そして圧倒的存在感が表現できていれば嬉しいです。