蔵馬が暗黒武術会から帰ってきたその夜。
母親との何気ない会話の中で、それはふいに告げられた。
「そうそう。秀一がいない間に、何度か葵ちゃんに会ったわよ」
「へぇ、いつ?」
「あなたが出てすぐだったかしら?一緒に買物に行ったの」
それは、蔵馬が1回戦で対戦した
自分の知らない場所で、葵が母を見守っていた。
思いもよらない彼女のさりげない心遣いに、彼は胸の奥がふっと温かくなった。
今頃どこにいるのか。
数日間逢っていないだけなのに、もう何年も逢っていないような遠い感覚に、胸が締めつけられるような切なさがこみ上げる。
その深夜、蔵馬は自室の窓辺に立ち、星の瞬く空を見上げながら、想いをはせる。
手が届かないほど遠い光に、自らの焦がれる心が映し出される。
(…会いたい)
彼の心臓が、その願いを叩きつけるように脈打つ。
心の奥底から、熱い塊となって溢れ出した想いを、彼は静かに夜空に溶かした。
一方その頃、葵は遠く離れた場所から、蔵馬が首くくり島から自宅に帰ってきたのを静かに見届けていた。
その日は会いに行かなかった。
今は、久しぶりの家族の時間を優先してほしかったからだ。
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次の日、北の空に凜と冴えわたる三日月が浮かぶ夜だった。
蔵馬の家の二階、その屋根の上に、葵は静かに佇んでいた。
夜空を仰ぎ、耳を澄ます。
遠い星の微かな鼓動が、さらさらと零れる砂のように降り注ぐ。
今日はその音に、土のような深い匂いが混じっていた。
「葵」
後ろから自分を呼ぶ声。
失われた宝物を見つけ出したかのような喜びと、途方もない安堵が溶け合った、繊細で優しい蔵馬の音だった。
「おかえりなさい」
その声は、星空に溶け込むように静かで、温かさを宿していた。
ゆっくりと振り返った彼女の、優しくどこか悟ったような微笑みに、蔵馬の胸がふわりと温かく音を立てる。
(…そうだったな)
葵の言葉に、蔵馬は自分が確かにこの場所へ帰ってきたんだと、改めて深く実感した。
言葉にならない想いが、全身いっぱいに広がる。
「ただいま。君の予言…当たったね」
ふっと笑って、屋根を踏む音を立てることなく、蔵馬が歩み寄る。
葵もまた、柔らかく微笑み、そっと彼に近づく。
彼の身に宿る妖気が、以前よりずっと強くなっていることに気づいた。
妖狐の姿の蔵馬と対面したことを思い出す。
「あなた、また強くなったのね」
どんどん強くなる彼が、いや、元の強さをとり戻す彼が眩しく映る。
「怪我は?」
「大丈夫だ。オレがいない間、母さんのことを気にかけてくれてありがとう」
「どういたしまして」
そう言って、彼女は再び夜空を見上げた。
蔵馬は、会いたくてたまらなかった月のような白い横顔を眺める。
生きてまた会えたことに、心と魂が喜びで震える。
(…きれいだな)
全身で見惚れていた。
美しいから見てしまうだけでなく、葵の存在そのものを確かめる行為。
理性と感情が止まるほどの無音の衝撃の中、視覚を超えて、五感全てと魂で彼女を受け止めていた。
妖狐としての原初的な本能も働き、理屈ではなく、本能的に大切なものを嗅ぎ分けていた。
だから見惚れずにはいられない。
その立ち姿が、花のように星のように夜に浮かぶ。
会う前までは、葵に対していろんな想いが湧き起こり、胸を焦がしていた。
それが今はどうだろう。
彼女を目の前にして、その柔らかな花の香りを胸いっぱいに吸い込み、ただただ側で見つめているだけで、魂の奥が震えあがる。
言葉がいらない至福。言葉を超えたところでの至幸。
時間が止まり、星の輝きさえ二人のためだけに瞬いているような、世界に二人しかいないような感覚だった。
(オレは……こんなにも人間のように、誰かを深く想えるようになったんだな)
胸の奥でひそやかに、実感する。
この変化は、少し驚きつつも抵抗なく受け入れられる。今の蔵馬だからここまで来れた。
そしてふと、意識が現実の輪郭に戻っていく。
葵をもっと確かめたくて、視線がふっと、その腕に落ちた。
彼女は、夜空のようなビロードの籠手を手首から上腕まで装着していた。
蔵馬の目利きによれば、その籠手は魔界の希少価値の高い
藍銅鉱は治癒・防御効果に優れている。自分の怪我に気づくのがうとい彼女には、有効なお守りになるだろう。
蔵馬は言葉無くそっと手を伸ばし、誘われるように籠手ごしに彼女の左腕に触れた。
星の光を浴びて、藍銅鉱は淡く、確かな存在感で優しく煌めく。
その向こうに感じる葵の肌のぬくもりに、蔵馬は自分の鼓動が、喜びで速まるのを感じた。
彼女の視線が、夜空から蔵馬に移る。
その瞳と、彼の深い双眸が真っ直ぐに交錯した瞬間、彼の胸の奥で、確かな愛の音が響き渡った。
「…きれいだね」
それは、彼が普段、最も理性で律している部分から、無意識に、純粋に漏れ出た言葉だった。
照れも誤魔化しもなく、ただ真っすぐに。
本心と本能が重なる瞬間だった。
葵は小さく目を瞬かせた後、ふわりと微笑んだ。
「お得意様にって、いつもお世話になってるよろず屋の店主がくれたの」
「葵は……そういう色がよく似合う」
蔵馬はそっと目を細めた。
色素の薄い彼女の髪や肌の色に、星屑のように調和していて美しかった。
ふと、決勝戦の前に、妖狐の姿で邂逅したときを思い出す。
あの時は少し強引だった。熱烈な衝動とは異なり、今の蔵馬は、まるで壊れ物を扱うように、確かめるように、ゆっくりと、彼女の柔らかい腕のぬくもりをなぞっていく。
彼の指先は籠手の上を滑り、やがて手首から、迷いなく彼女の手の平へとたどり着く。
籠手ごしでもわかる、少しくすぐったいような不思議な感覚。
それは防具を確かめるためだけではないことを、彼女は微かに感じ取った。
その距離は、呼吸ひとつで触れ合いそうなほど。
夜の涼やかな空気の中で、彼の指が触れている場所だけがふわりと温かくなる。
葵は、小さく声を出した。
「…蔵馬?」
少しの戸惑いと共に、静かに自分の名を呼ぶ声。
それに応えるように、そっと彼女の手を包み込んだ。
優しく、壊れ物を扱うように、大切に。
柔らかく滑らかな感触と、温かい妖気が直に伝わってくるのが心地よい。
そのぬくもりに触れた瞬間、何千年も生きてきた彼の魂に、初めて触れるような形容しがたい歓喜の熱が静かに音を立てて震えた。
(オレは、この手を…離したくない)
たとえどれだけ遠回りしても、たどり着きたい場所は、もう決まっている。
夜空の下、静かに触れた手のひらの温もりに、蔵馬は小さく心の中で誓った。
言葉が交わされないまま、優しい時間と星の光が二人を包む。
しばらくして、蔵馬はゆっくりと彼女を見つめた。それは熱い眼差しだった。
葵は不思議そうに、少し驚いた顔で彼を見上げている。
彼の瞳はあたたかく、心地よくて。心の奥深くに響いて、思わず目を伏せそうになる。
そして、蔵馬は微笑む。
二人の手のひらの中に「何か」、言葉にはできないほどの深い絆と、未来への希望があることを伝えようとする。
「はい。これ」
「……あ」
彼の手に包まれていた温もりの中心に、小さな何かがそっと存在していた。
言われて彼女は初めて気づいた。
そこには、彼の指の付け根に隠れるように、3cm程の柔らかい懐紙に包まれたものが、静かに息を潜めていた。
その存在は、二人の間で密かに育まれた想いそのもののようだった。
葵がそれを指先で受け取ったのを感じ、蔵馬は名残を惜しむように手を離した。
その手から遠ざかっても、彼の指先には柔らかい温もりと肌の感触、妖気が残っていた。
残る彼女の気配を愛おしむように、蔵馬はその手を密かに握った。
見えない糸で結びついているような感覚。
痺れるような、かすかな振動が指先から心の奥へと沁みていく。
「お土産?」
「そんなところ。開けてみて」
今夜の星空の光で青白く見える懐紙を、葵はゆっくりと広げた。
膨大な気と共に中から姿を現したのは、鮮やかな黄金色に輝く小さな石のようなもの。
彼女の目が少し大きく開いた。
「これってもしかして…」
「知ってた?魔界の琥珀だよ」
その声には、微かな高揚と、隠しきれないほどの愛情が宿っていた。
どこか誇らしげで、彼女の驚きと喜びを見つめるその目は、優しかった。
葵は、蔵馬と手の中の琥珀を交互に見た。
「こんな貴重なものを、受け取っていいの?」
「オレは、君に受け取ってほしいんだ」
静かに、強く、揺るぎのない声だった。
それは言葉以上の重みをもって、葵の胸へと静かに染み渡る。
「…ありがとう」
葵がふわりと微笑むと、彼の胸の奥に灯がともる。
AI画像と格闘中。
蔵馬が贈った琥珀のイメージが想像できれば嬉しいです。