最近、南野家では、ふとした折に彼女の名前が話題にのぼることが多くなっていた。
この日も、リビングで母が手帳を片手にスケジュールを確認していたとき、思い出したように口を開いた。
「そういえば、葵ちゃんの誕生日っていつかしら?」
その言葉に、蔵馬は読んでいた本に指を挟み、顔を上げた。
「あ。オレも知らないな」
母は意外そうに眉を上げる。
「まあ、そうなの」
「今度、聞いておくよ」
軽くそう答えながらも、内心で考える。
妖怪は基本長寿のため、人間ほど誕生日に対して思い入れがない。
蔵馬自身も、魔界で狐として生まれた数千年前のことは、とっくに記憶の彼方だ。
きっと彼女も覚えていないのではと、そんな気がした。
数日後。放課後の河川敷。
沈みかけた夕陽が、水面を淡い金色に染めている。
川べりの道を、蔵馬はひとり歩いていた。
左手には鞄、右手は制服のポケットに差し込み、ゆったりと歩を進める。
その何気ない仕草も、どこか気品と静けさを帯びているのは、彼の持つ独特の空気ゆえだった。
春の風。
ふわりと舞い上がる桜の花びらが、彼の長い髪にそっと絡み、また離れて空へ溶けていく。
光と影が揺らぐ、柔らかな時間。
そんな中、なじみ深い妖気を感じ取った。
振り返れば、少し離れた場所に葵の姿。
制服姿からして、人間界のどこかに寄ってきた帰りなのだろう。
「生まれた日…いつだったかしら」
やはり予想通りだった。
彼女は蔵馬に比べればずっと最近に生まれたはずなのに、確かな日付として心に刻まれていない。
「あなたと初めて会った時が、半年以上たったくらいかしら?」
「ということは、6月頃になるね」
「…えっと、少し待って」
足を止め、リュックを開く葵。
中から、木の皮を表紙にした手帳を取り出した。
それが妙に新鮮で、しばらく目に留まる。
(手帳を持っているなんて、意外だな)
使い込まれた風合いから、彼女が丁寧に扱ってきたことがわかる。
風にめくられないよう手で押さえつつ、カレンダーのページをじっと見つめている。
細くしなやかな指先が紙面をそっとなぞり、何かを探すように。
やがて顔を上げ、彼を見た。
「記憶が曖昧だけど…。蔵馬と会ってまもない頃、妖怪と戦ったのはいつ?」
「3月の始めだね」
「その頃が、生まれて一年経つか経たないくらいだったはず」
「ああ。確かにそう言ってたね」
つまり彼女の誕生日は、自分と同じく3月になる。
「でも、一年はしっかり経ってなかった気がするの」
「だとすると……3月末から4月の間か」
「たぶん。良かったら蔵馬が決めて」
手帳を静かに閉じ、葵はそれをリュックへ戻す。
魔界は人間界ほど明確な季節の移ろいがない。
思い出すのは難しかったのだろう。
隣にいた蔵馬が、音もなく一歩、歩き出す。
それにならうように、葵も歩みを進める。
並ぶ肩と肩、触れるか触れないかの、絶妙な距離。
以前より、少しだけ近い。
河川敷は静かだった。
遠くの対岸には、散歩する人影がわずかに揺れる。
春風が再び花びらを舞わせ、二人の間をふわりと通り過ぎていく。
「オレが、決めていいの?」
「あなたのお母さんのことを考えると、決まっていた方がいいんでしょう?」
「……まあ、そうだね」
蔵馬はふと目を伏せ、思う。
(こだわりはないが、いい加減にもできないな…)
人間界での誕生日は、その人のアイデンティティの一部になっている。
名と同じく、その人が「ここにいる」という証のようなもの。
おそらく彼女は、今後人間界で過ごすことが増えてくるだろう。
誕生日を決めることは、この世界に、葵という存在をある種根付かせるような意味もある。
そのことを思うと、軽々しく「この日だ」と決める気にはなれなかった。
桜の花びらがふわりと肩に落ちる。
蔵馬はそれを指先でそっと払いながら、夕空を見上げた。
茜に染まりかけた空。その淡い光の下で、何か静かに決めなければならない気がしていた。
人の時間に馴染むということ。
彼女の「生まれた日」という記憶の欠片を、どう編み直せばよいのか。
そんなことを思っている時だった。
隣の葵が、何かを閃いたように顔を上げた。
「もしかしたら、生まれた所に言ったら思い出すかもしれないわ」
「葵はどこで生まれたの?」
問いかけると、彼女は少し懐かしそうに目を細めた。
その表情は、遠い風景を見るようで、ほんの少し魔界の気配がした。
「妖怪もいないような深い森の中よ。次に魔界に戻る時に行ってくるわ」
その言葉に、蔵馬の脳裏に静かな情景が広がっていく。
深く静まり返った森。誰も足を踏み入れない奥地。
夜明け前の冷たい霧。ひっそりと咲く小さな花々。
淡い光に濡れる湿った大地。
そんな場所で、彼女は目覚めたのかもしれない。
自分の知らない魔界の風景。
(オレは……自分が思っている以上に、葵のことを知りたいようだな)
そんな自分に対して、別の所で笑っているもう一人の自分がいた。
ふと気づくと、隣の葵がリュックの中をごそごそと探り始めている。
話題は、いつの間にか次のものへと移っていた。
相変わらずだ。
彼女は自然と、境界を越える。
「ねぇ、蔵馬。あなたのお母さんが作ってくれたお菓子と同じものが売っていたの。今日買って食べたんだけど…」
彼女は市販の袋に入ったりんごパイを取り出して見せた。
その唐突さに、蔵馬は思わず肩の力が抜ける。
「あの時ほど、美味しいって思わなかったのは、どうしてかしら?」
(…よっぽど美味しかったんだな)
2か月前に、初めて葵と母が対面した日。
その情景が脳裏によみがえり、蔵馬は小さく笑みを漏らした。
「そうだな。作り手によって味が細かく変わるのもあるけど、一番は愛情が入ってるか入ってないかかな?」
「愛情?」
葵が首をかしげる。
食事摂取をあまり必要としない彼女は、料理にも縁遠い。
人間界の愛情を込めて作るという概念は、馴染みのないものだろう。
それでも、その言葉の意味を深く理解しようと、真剣な眼差しで蔵馬を見つめていた。
「うん。想いを込めて作るってことかな。それが料理に味を与えるんだ。今度母さんに直接言ってくれないか?きっと喜ぶよ」
「わかったわ」
素直な反応に、蔵馬の胸が、ふっと温かくなる。
こういう何気ない会話が増えていく。
それは彼女の心が、確かにこの世界に、そして自分に近づいているということ。
彼はそっと視線を隣にやる。
葵は春風に舞う桜を見上げている。
その横顔は、淡い光をまとって透き通るように美しかった。光そのものが彼女の内側から輝いているかのようだ。
(……オレの錯覚か?)
そう思った時、視線が重なった。
その瞳は、次の好奇心で輝いているように見えた。
今度はその口から何を言うのか、検討もつかない。
蔵馬は心の中でやんわりと身構えた。それは警戒ではない。
彼女が放つ予期せぬ言葉の波を、一片たりとも逃すまいとするかのような静かな準備。
そして、心を全て開いて受け止めるための準備だった。
「そういえば、蔵馬が『人間として生まれた日』はわかってるの?」
「……。」
(そう来るか……)
自分の心臓の音がはっきりと聞こえる。
一度流れた話題が、音もなくブーメランのように戻ってきた。
この意表を突くやり取りに、蔵馬の心は揺れて、惹かれていく。
直感的に身構えたのは、こういうことだったと気づく。
心の奥では、この言葉を期待していた。
「…うん」
「それはいつ?」
「3月3日だよ」
その言葉は、春風にそっと乗せるように、優しく流れ出た。
蔵馬は目を伏せて、足を止める。
隣で歩いていた葵も立ち止まり、振り返った。
二人の足元には、桜の花びらが薄く積もっている。
舞い散る花びらの隙間に、ほのかに香る春の匂いが、蔵馬の胸の奥を素直にした。
「先月だったのね」
「……葵。その日に覚えはない?」
「えっと…。なんだったかしら?」
(覚えてないのも当然か…)
蔵馬は顔を上げて彼女を見た。その瞳の奥に、深い喜びを宿してふっと笑った。
忘れられるはずがない日だった。だからこそ、伝えたかった。
「君がオレに……コートを借りたお礼と言って、ホワイトデーのプレゼントをくれた日だよ」
言葉にした途端、葵の表情が変わった。
驚きと、懐かしさと、どこか優しい想いが、彼女の瞳に一瞬にして溢れ、きらきらと光を宿した。
時が止まる。
遠くの鳥の声も、川の音も、すうっと消えていく。
風さえも、二人の秘密の時間を見守るように、静かに止まった。
「あ…」
思わず漏れた小さな声。
その響きが、あの日の記憶を呼び覚ます。
お互いの正体を知った、忘れられない日。
あの瞬間の空気さえ、桜の香りに紛れて蘇る。
蔵馬は静かに、葵に微笑みかけた。口元に手は置いていない。
言葉はなくとも、その静かに熱い眼差しは、遠い記憶の中の彼女を、そして目の前の彼女を、深く抱きしめていた。
葵も思い出していた。
まだ短髪だった頃の蔵馬が脳裏に現れて、ふっと笑った。
そういえば、1年以上たって蔵馬の顔は幼さが無くなり、髪は長く伸び、眉目秀麗に磨きがかかった。
(少し気恥ずかしいような、懐かしい気持ちね…。初めて感じるわ)
彼女の頬がほのかに色づいた。
知らずに渡したあのクッキーが、彼の「生まれた日」への贈り物になっていた。
今さらながら、その偶然に気づく。
「そう……。その日だったのね」
「……偶然だったけど、嬉しかったよ。君が、そうしてくれたことが」
「あなたと、これからも話したいと、一緒にいたいと、感情的になったあの頃の自分に感謝しているわ」
「……オレもだ」
想いをぶつけてくれた葵と、その想いに心を動かされ、距離を縮めてきた自分。
振り返っても誇れる、かけがえのない時間だった。
なんだろう、今すぐ目の前の純粋無垢な人をこの胸に抱きしめて、感謝を伝えたくなった。
(これはどうしようもないな…)
胸の衝動は激しく、すぐにでも腕に閉じ込めたいと言っている。
だが、数千年生きた経験と理性が、そんな自分を落ち着かせる。
焦る必要はない。
この時間、この温もり、この歩幅を、大切にしよう。
そうすれば、二人の愛はもっと深く、確かなものになるから。
「今ので、しっかりと覚えたわ」
ふわっと花のように笑う彼女を、蔵馬は深く愛おしむような目で抱きしめた。
その眼差しは、誰も見たことのないものだった。
慈しみと共鳴、そして誠実な愛の形だった。
西に傾いた太陽が、少し濃い色の光で二人を包み込む。
その柔らかなオレンジが、彼女の頬にも、彼の瞳にも、優しく差し込んでいた。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
もし「こんな蔵馬をもっと見たい」「葵とこんなやりとりをしてほしい」など、ご希望やご感想がありましたら、ぜひお聞かせください。
今後の短編やエピソードの参考にさせていただけたら嬉しいです。
あなたの一言が、次のお話を動かすかもしれません。