――長い沈黙。
蔵馬は、先に視線を外した。
「……葵。君は一体――」
「説明は、後でするわ」
彼女は即座に言った。
「さっきの妖怪相手に、どうするの?」
木竜を見て、迷いなく妖怪と判断したその言葉。
蔵馬は、改めて彼女を観察する。
風が強まり、二人の髪が揺れる。
地中の気配は、意図的に消されていた。
「……手は考えた」
大きく空いた穴を見つめながら、蔵馬は静かに告げる。
「しかし、少々派手な攻撃になる。巻き添えになりたくなければ、離れた所にいてくれ」
彼女は無言で頷き、廃校のほうへ走り出す。
その背を見届けると、彼は深く息を吸う。
(……決めるのは、後でいい)
冴えた瞳の少年は、音もなく歩き出した。
「ふぅ……」
廃校の教室で、葵は壁に背を預け、胸の奥に渦巻いていた感情を鎮めようとしていた。
冷たい床の感触。
目を覚ましたとき、暗闇の中ここに一人だった。
断片的な記憶を巻き戻していると、外で土が崩れる音がした。
反射的に身を起こして、建物を出た。
そこには、夜の闇へと続く深い穴が口を開けていた。
暗がりで見えにくかったが、見慣れた姿が、獣のような影と激しく交錯していた。
咄嗟のことだった。考えるより先に、意識が探す。
『何か……つかめるものがあれば』
視界の端に、細長い雑草が映った。
次の瞬間、草は束ねられ、編まれ、縄へと形を変えていく。
まるで、応えるように。
自分がやったのか、それとも何かがそうさせたのかはわからない。
でも――迷いはなかった。
直感的に縄を掴み、穴へ投げ入れる。
そして彼に呼びかけていた。
ただ彼を助けたい、その想いだけだった。
瞬間的に回想の糸が、断ち切られる。
――ドンッ、ドン!
重低音とともに、強い衝撃が地面を通して腹の底に響いた。
続けざまに、もう一度、さらにもう一度。
廃校の壁が軋み、古い窓ガラスがガタガタと鳴る。
窓の外を見ると、土埃が舞い上がり、焦げた草と炎が混ざった、独特の匂いが鼻をつく。
(……無事、かしら)
葵は建物の陰から身を乗り出し、濛々と立ち込める黒煙の向こうを見つめた。
煙は重く、なかなか晴れない。
地響きが完全に収まるまで、どれほどの時間が過ぎたのか――わからない。
やがて、揺らぐ煙の帳の奥に、ひとつの影が浮かび上がった。
「……南野君!」
声が、思ったよりも大きく出た。
影は、ゆっくりと近づいてくる。
歩調は一定で、乱れがない。
彼は歩きながら、肩や袖についた土と煤を軽く払った。
近づくにつれ、輪郭がはっきりする。
足取りは確かで、崩れた様子はなかった。
「……倒したの?」
蔵馬は足を止める。一度だけ周囲を見渡し、煙の残る地面へ視線を落とす。
「ああ」
短く答えたあと、淡々と言葉を継ぐ。
「サボテンを爆弾に変えた。地中を移動する性質を利用して、地雷として複数埋めておいたんだ」
説明はそれだけだった。
勝敗を誇る調子でも、感情を含ませるでもない。
葵は、静かに彼を見つめた。
彼の冷静な判断力と、恐ろしいまでの戦術眼が垣間見える。
自分との差を、ありありと感じていた。
蔵馬は、ふと彼女の視線に気づいたのか、顔を上げた。
何とも言えない複雑な面持ち。
その目は、夜よりも深い魔が潜む影を帯びて、まっすぐ葵を捉える。
「……君は」
煙の中に、言葉と言葉の隙間が漂う。
「一体、何者なんだ?」
問いは低く、探るようだった。
だが、詰問ではない。
葵はすぐには答えなかった。
風の勢いが少し弱くなって、二人の間をすり抜ける。
埃をまとった空気が、少しだけ冷たく感じられた。
葵の象牙に近い、色素の薄い髪が揺れて、淡い光を反射する。
「私は、あなたと同じ妖怪よ」
静かな湖に、一滴の波紋が生じるような声。
「なにっ?」
蔵馬の眉が、わずかに動いた。
「……妖怪、だと?」
「ええ」
蔵馬の視線が、無意識に彼女の全身をたどる。
妖気の気配を探る。
――だが、何も引っかからない。
深い夜の底のような双眸に、別の色が混ざる。
「君からは、妖気を感じない」
「そうでしょう?だから、言うかどうか迷って、様子を見ていたのよ。私、1年程前に魔界で生まれたばかりなの」
その言葉が、蔵馬の中で静かに反響した。
魔界とは――、妖怪たちの住む世界。蔵馬の故郷でもある。
記憶の底に沈んだ風景が、微かに揺れる。
「まだ妖力が安定していないのか?」
「自分でもわからないの。ただ、このおかげで、魔界でも人間と勘違いされることが多かったわ」
蔵馬は、黙ったまま彼女を見る。
肉体感覚が発展途上で、寒さを感じなかったこと。
鬼と対峙したときの落ち着き。蔵馬を助けたときの植物を操った、あの瞬間。
ようやく、いろんなことに合点がいった。
「……そうか」
一陣の風が吹き抜ける。
短いが、深い沈黙。
「知っていたら……」
言いかけて、彼は言葉を止めた。視線を逸らし、遠くの夜空を見る。
言うべきか。伏せるべきか。
「あんなことは、しなかった」
「あんなこと?」
葵が首を傾げる。
この日この時、彼の口は妙に素直だった。
「君がさっき眠ったのは、夢幻花の花粉を使ったからだ。睡眠と……記憶の消去の効果がある」
「……え?」
今まで以上に、葵の目が大きく見開かれた。
それに構わず、彼は続けた。
「オレの能力を見られた以上、そのままにできなかった」
「記憶を……消すつもりだったの?」
一瞬の沈黙。蔵馬の冷静な表情は変わらない。
「……そういうことだ」
風が少しだけ静まった。
葵は何も言わず、虚空を見つめていた。
時間が静かに流れる中、彼女の世界だけが止まっているようだった。
突然――葵は蔵馬へと駆け出した。
「……っ!」
拳が振り上げられる。
蔵馬はなんなく、それを受け止めた。
トン、と小さな衝撃。
さきほど死闘を繰り広げた蔵馬にとっては、それはあまりにひ弱な攻撃だった。
しかし、彼女の瞳は、真っ直ぐだった。
「っ……何をするんだ?!」
反射的に漏れた声にかぶさるように、葵は言った。
「私は、怒っている!」
空気を分けるような澄んだ声。
廃墟の敷地に、他に人影はない。
風に揺れる草と、まだ残る煙の匂いが、二人を包んでいる。
拳を立てたのは一度きり。
声を張った葵の肩が、感情の高まりゆえに、わずかに上下しているのがわかる。
それでも――目は、逸らさない。
「記憶を消そうとしたのには、それなりの理由があるのはわかるわ。ただ、こちらの都合も聞かないで、勝手に判断したのはどうかと思う!」
風が、二人の間を抜ける。
草の先が擦れ合い、乾いた音を立てた。
――……軽い。
そう体が捉えた直後、彼はもう一つの違和感に気づく。
重さだ。
手のひらに伝わるのは、衝撃というより、逃げも、迷いもないまま向けられた意志。
冷えた夜気の中で、そこだけが、じんわりと熱を帯びている。
「私は、あなたと話すのが楽しかった」
葵は、握られた拳を引こうとしなかった。
「だから……これからもそうしたい。その私の自由意志を奪う権利は、ないはずよ!」
「……っ」
蔵馬は何も言わなかった。
その曇りのない深い瞳と、剣幕から目が離せない。
時間が、完全に止まったようだった。
手のひらに残る熱を、無意識に確かめる。
――いつもなら、相手の感情にも冷静なのに。
これは、今までの経験が通用しない。敵意とも、脅威とも違う。
彼女の視線は、刃のようではなく、ただ純粋だった。
風が、ふと息を潜めた。
夜そのものが、二人の会話に耳を澄ませているかのようだった。
蔵馬は、ゆっくりと手を降ろした。
指先に残る感触を、振り払うこともせず。
沈黙。
煙の臭いが半減する頃、静寂を破ったのは彼だった。
「……すまなかった」
短く、息を含ませながら言う。
「君が人間だと思っていたんだ。これ以上関わらないほうが、お互いのためだと判断した」
言い訳や正当化はしない。
それだけで十分だと、彼は知っている。
その言葉に、彼女は蔵馬の深い意識の何かに触れた。心の奥の、影のような何かに。
葵は、一瞬だけ目を伏せた。それから、また顔を上げる。
表情が、柔らかさを取り戻した。
「……私が、妖怪だということを、黙っていたのは謝るわ。そして、感情的になったのも、ごめんなさい」
風に揺れる髪をそのまま流しながら、彼女は素直に言葉を続ける。
「でも、あなたが良かれと思ってしたことは、私の望まないことだったのは、伝えたかったの」
「……ああ」
彼は、少しだけ視線を逸らし、周囲を見渡す。
夜の冷たい風が、強く吹き抜ける。
蔵馬の中でいろんな想いが流れては、消えていった。
そして、彼の中で何かが変わり始めていた。
時間が再び動き出す。
「君は、普段はどこに住んでいるんだ?」
彼は話題を切り替えた。
「魔界よ。亜空間の割れ目から、行き来ができるの」
論より証拠と、葵は手のひらで空間をなぞる。空気が歪み、闇の裂け目が一瞬だけ開く。
その中に彼女の姿が消え、すぐに現れた。
手慣れた動きに、蔵馬は目を細めた。
「闇撫の種族ではないのか?」
「ええ、違うわ。こちらに来たのは、人間界でいう観光といったところ。あちこちうろついている時に、あなたに出会ったの」
図書館。
覚えたての人間界の知識。
常識から少しずれた言動。
蔵馬の中で、点と点がつながっていく。
「自分の能力について、まだよくわかってないの。とりあえず、自然の声を聞いたり、力を借りたりすることはできるみたい」
先ほど、蔵馬を助けた時のように。
彼は、ずっと疑問に思っていたことを投げかけた。
「……夢幻花が、効かなかったのは?」
「そうねぇ……。私が、花から生まれた妖怪だからかもしれないわね」
(耐性がある……いや、それ以上か)
夢幻花の催眠効果も短かった。
蔵馬の中で、彼女への疑問が次々と解消されていった。
警戒は、完全には消えない。
だが――消す必要も、今はない。
「その制服は?」
風に混じる焦げた匂いが、まだかすかに残っている。
蔵馬の視線は、無意識のうちに彼女の服装へと移っていた。
白いシャツに、紺色のブレザーとスカート。
人間界では、どこにでもいる女子学生の姿だ。
「これを着ていると、人間に見えるでしょ?」
あっさりと彼女は言う。
もちろん、学校に通っているわけではない。
妖怪が人間社会に溶け込むには、形から入るという選択は、妥当だ。
蔵馬がそう思っていると、彼女の視線がふっと落ちた。
「足の傷、大丈夫?」
見ているのは、先ほどの戦いで負傷した彼の片脚。
制服の裾が破れ、乾きかけた血の色がわずかに覗いている。
「問題ない。もう手当ては済ませた」
「……そう」
軽傷だったはずの痛みを、彼は今になって意識した。
じん、と鈍い感覚が遅れてくる。
――忘れていたな。
それほどまでに、意識が別のところへ引きずられていたらしい。
蔵馬は、夜空を一度だけ仰いだ。
雲の切れ間から、淡い月光が落ちてくる。
「……君は、これからどうするつもりだ?」
視線を戻さず、問いかける。
「このまま、町に留まるのか?」
「……今思いついたんだけど」
葵は少し間をおいて、蔵馬を正面から見据えた。その瞳は、一瞬柔らかく光った。
彼の背後には、まだ小さく煙がたなびいていた。
「これは、あくまでこちらからの提案よ」
彼女は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「私は、人間界のことをもっと知りたい。それから……魔界のことも。あなたから」
蔵馬の肩口を、夜風が抜ける。彼は、視線を夜空から葵に移した。
「そのお返しに、あなたのために働くわ。魔界に行けるこの能力、きっと役に立つと思うの。もちろん、あなたの生活の邪魔はしない」
一息で言い切る声に、迷いはない。
――提案、か。
彼は、ほんのわずかに息を詰めた。
軽い社交辞令のつもりで投げた問いだったが、返ってきたのは、予想を超えた具体性だった。
「……いきなりだな」
彼は少し目を細める。
「まだ会って間もないオレを……信用していいのか?」
「ええ。私は、あなたに興味があるの」
即答だった。
蔵馬は静かに、観察を続けた。
「生まれたての世間知らずには、指南役が必要でしょう?」
無防備な微笑み。
葵には猜疑心のかけらもない。
――危うい。
そう判断する思考は、いつも通り冷静だった。
しかし、どうしたはずみか、その結論を即座に行動へ移さなかった。
蔵馬は、少し間を置いてから口元を緩めた。
それは計算された笑みではなく、15歳の少年の柔らかさを帯びていた。
「……魔界で、調達してほしいものがあるときは、頼むことになる」
条件提示。
受諾とも、拒絶とも言えない位置。
「交渉成立ね」
葵はふわりと微笑み、頷いた。
二人は並んで歩き出す。廃校を離れ、街灯の途切れた夜道へ。
砂利を踏む音が、一定のリズムを刻む。
道すがら、葵は今までの経緯を簡単に尋ねた。
蔵馬は、答えられる範囲で応じた。
妖狐だったこと。
盗賊だったこと。
霊界に追われ、今は南野秀一として生きていること。
普段なら伏せる類の話だった。
(今日のオレは……気まぐれが強いようだな)
内心で、そう思う。
葵の不思議な雰囲気に、ペースを崩しているだけだと、その時は片付けた。
霊界とは――死後、霊体となってから行く場所、また霊体の管理を司る世界。
蔵馬のような妖怪や、霊感が強いものは、生きながら霊体となり、霊界を訪れることも可能だ。
「そういえば」
彼女は足をとめた。
「あなたの、元々の名前は?」
「……蔵馬だ」
「よろしく、蔵馬」
改めての挨拶に、彼は視線を合わせなかった。
制服のパンツのポケットに片手を入れて、距離を置いて立ち止まる。
そして振り返り、挨拶代わりに忠告を一つ伝えた。
「君は妖怪の中でも、かなり素直な気質だ。オレに対して、警戒心がまるでない」
静かな抑揚の中に芯の強さを感じる声は、年相応のものとは異なる。
「一応言っておこう。オレの話は、鵜呑みにするな。全てが真実で、全てが嘘のこともある。半分真実で半分嘘だと思うくらいで、ちょうどいい」
葵は黙って聞いていた。澄んだ瞳に目の前の少年を映して。
「まずは、自分が最初に感じたことを優先しろ。それが、生きていくうえでの基本だ」
言い終えると、彼女は素直に微笑んだ。
「早速、ご指南をありがとう」
蔵馬の見立てでは、彼女は戦闘向きではないタイプの妖怪だった。
一時的な自分への興味で離れるか、厳しい魔界のサバイバルにいずれ負けてしまうだろう。
――そのはずだ。
そう思考を到達させながら、彼は夜道を進んだ。
AI画像生成ツールを使用して作っているため、服や彼女の顔など微妙に差があるのはご了承ください。