新月の夜の下、交わされた言葉と指先が伝えた想い。
それは、ふたりの関係を変えていく。
「今の自分も気に入っている」
蔵馬がふと漏らしたその言葉に、読者のあなたは何を感じますか。
暗黒武術会中、葵は2度、見知らぬ者に尾行を受けていた。
妖怪ではなく霊気を感じたところから、霊界の依頼の報告も兼ねて、コエンマに相談しに来ていた。
彼の見解を聞いてから、蔵馬に伝えるつもりだった。
(…つけられている)
肌を粟立たせるような、冷たい視線。
いつものように会議室で待ち合わせだったが、道すがら、背筋に刺さるような気配が別々の方向から複数、まとわりついてくる。
一人になっては危険だと、直感が警鐘をならす。
時間には遅れるが、葵は敢えて人通りのある図書館を経由した。
広大な書架が連なるその館内は、計ったように誰もいない。静寂に包まれていた。
ひっそりとした空気は、逆に気配を探る者には好都合だったかもしれない。
葵は死角を避けながら静かに歩を進めていると、書物の並ぶ棚の隙間から、ひんやりとした空気が流れ込んできた。
「妖怪がここに何のようだ?」
背後から伸びてきた影が、不意に肩を掴む。
低く、獲物を追い詰めるような鋭い声。
冷たく見下ろす長身の男が1人と、離れた所に見定めるかのようにこちらを見ている気配が2人。
彼らの霊気は、どこか澱んだような違和感があった。
「私は葵。霊界からの仕事をこなしている者よ。この図書館の入館許可ももらっているわ」
彼女は、冷静に許可証を提示した。
「霊界が調査依頼をしている妖怪がいると聞いたが、それがお前か…」
男は口元を歪めて笑みを浮かべ、彼女に近づいた。後方にいる二つの気配も同様に、じりじりと詰め寄る。
葵はいつでも逃げれるように身構えた。
「おー、葵!探したぞ」
凍りついていた空気が、まるで熱湯を注がれたかのように、一瞬で熱を帯び、男たちの動きが目に見えて硬直した。
ひときわ目立つその声の主は、霊界で知らないものはいない。
青い制服に、同色の大きな帽子をかぶり、口元にはおしゃぶりをくわえた幼児の外見。
統治者の一人、コエンマだった。
「コエンマ。すみません、少し遅れてしまって」
「かまわん。向こうで話を聞こうかの。……で?なんじゃお前らは。彼女に何か用でもあるのか?」
「……いえ。なんでもありません」
一瞬の沈黙の後、男は静かに礼をすると、仲間と共に素早くその場を去って行った。
去り際、葵は彼らの瞳の奥に、獲物を取り逃がした悔しさと、次なる機会を伺うような執念を見た気がした。
コエンマは、いつもと違う会議室へ彼女を案内した。
白い長机と椅子以外何もない部屋は、窓もなかった。密室であるその空間は、重要な話をするには最適だった。
「いつからじゃ?」
言葉を発するたびに、コエンマの口元のおしゃぶりが軽く揺れる。
「暗黒武術会の開催中、人間界では先ほどの霊気の者に2回尾行されていたわ。直接対面したのは、今日が初めてでした」
「やつらは、霊界の中でも選ばれしエリート集団。そして、枉鵬と関わりがあるものたちだ。この一件、正聖神党が絡んでおるのかもしれん……」
2か月前の記憶がよみがえる。
確か枉鵬は、正聖神党という霊界の宗教団体に所属していた。
「正聖神党は、妖怪をも利用し、独自に霊界、人間界、そして魔界に影響を及ぼそうとしておる。お主の特殊な能力を、彼らが危険視しているか、あるいは利用しようとしているのかもしれぬな」
葵が狙われる理由はまだわからないが、命を狙うというよりも、捕獲しようとしているようにコエンマには見えた。
「お主は、しばらく魔界に戻っていた方がいい」
「魔界でも何度か軽い襲撃を受けたり、尾行されていたの」
「なにっ?……奴らが、妖怪を雇ってさせているのか?」
「それはわからない。でも魔界に戻っても事態はかわらないと思うの」
コエンマはしばらく黙り込んだ。小さく眉根を寄せ、その丸い頬に影が落ちる。
霊界の中に紛れている正聖神党の影響を、垣間見た気がした。
これを無かったことにするのは、霊界の統治者として許されない。しかし大っぴらに調査をすることも難しい問題だった。
「…ワシが責任をもって秘密裏に調査する。少しの間、このことは他言無用にできるか?」
「わかったわ」
コエンマの立場も考慮し、葵はこのことを蔵馬に言わなかった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
霊界から戻った夜。
葵は静かに、蔵馬の家の一階の屋根に腰掛けていた。
その場所は、彼の部屋の東側、通りから見えない位置にある。
22時前の空は、どこまでも澄んで高く、春の夜風が乾いて頬をなでる。
目を閉じれば、星々のかすかな囁きに混じり、遥かな宙の奥から「案ずるな」という声が意識の底に響いてきた。
霊界での出来事も、これから起こることも、流れに任せていい。そう告げるように。
「葵。来ていたのか」
ふいに聞こえた、少し高い艶のある声。
振り返ると、蔵馬が二階の自室の窓を越え、音もなく隣に降り立っていた。
月明かりも届かない夜、就寝前のラフな格好の姿は闇の中で淡く輝いている。
そっと彼女の隣に腰を下ろす。
肩が触れそうで触れない、互いの存在を確かめ合うような絶妙な距離。
その間には、柔らかな夜風が、二人の吐息をそっと運ぶように流れていた。
「今日は月が見えない夜だから、星が一段ときれいに見えるの」
「葵は、星を見るのが好きなんだね」
「ええ。人間界の空は不思議ね。魔界では、星空は見えないもの」
魔界の空は、基本的に厚い雲に覆われていて、雷が轟いている。
もちろん氷河の国のように、年中雪と氷に閉ざされた土地に行けば、空の景色はその土地特有のものになる。
しかしどこに行っても、まるで地の底のように星は見えない。
太陽の光さえ、ほんのわずかしか差し込まない。
魔界の構造が深淵に沈んでいるせいかもしれないが、はっきりとした理由は、誰にもわからない。
「今も、何か音を聞いてるように見えたね」
「ええ。蔵馬も聞いてみる?」
「……できるの?」
「手を出して」
葵は小さく微笑んで、彼の左手をそっと取る。
小さな指先が、彼の手のひらに文字を描きはじめた。
ゆるやかに、慎重に、まるで祝詞を紡ぐように。
皮膚をなぞるその感覚は、淡く、くすぐったくて、切ない。
蔵馬は静かに息を吸い、その動きを見つめた。
(これは……古代文字か……?)
盗賊時代の経験から暗号解読ができる彼は、どこかで覚えのある綴りを思い出していた。
読み解こうとする意識の奥で、彼の聴覚が、いや五感を超えた領域が、微かな音の震えを捉えた。
それは、遠い海の波のように繰り返される、宇宙の呼吸のような、限りなく優しく、懐かしい波動だった。
「…これが君が聞こえている世界……か。繊細で柔らかい、不思議な音だね」
初めて触れた葵の音の世界。
それは、彼が何千年と生きてきた中で、一度も知覚したことのない領域。
蔵馬は、彼女の世界に一歩深く踏み入れた気がして、魂が喜ぶように、胸がふわりと温かくなった。
「葵は……古代呪文を知ってるんだね」
「少しね」
ふと彼の手のひらが白く光る。
彼女の指がなぞった跡、かすかに輝く軌跡が消えていく。
ぬくもりだけが、そこに静かに残っていた。
蔵馬はそっと指を閉じ、しばらくその感触を心にとどめた。
「ねえ、少し聞いてもいい?」
「うん」
彼は隣の想い人を見た。葵の瞳は、今の星空よりも深い輝きを放っていた。
その瞳の奥を、もっと近くで見つめたくなる。
蔵馬は、無意識に顔を少し近づけていた。
妖狐の本能が、彼女の光を求めて惹き寄せられる。
同時にその瞳は、人間としての蔵馬の心も震わせる。
理性と本能が、同じ方向を向く。そんな稀有な感覚だった。
「蔵馬は人間界で生きてきて、魔界と人間界の違いをどう感じていたの?」
「……そうだな」
彼は夜空を仰ぎ、言葉を選んだ。
「はじめは慣れないことも多かったけど、こちらも悪くないと思えるようになった。人間という生き物は不思議で…面白い。何より、人間界では様々な感情を体験できる」
静かに告げるその声に、葵はふわりと微笑んだ。喜びと、安心と、感謝がこもった笑顔。
その表情に、蔵馬の胸が一度だけ、大きく鳴る。
「あなたが人間としての人生を歩んだおかげで、私もいろんな感情を体験できている。妖怪として、生きる以上の学びだと思っているわ」
「君は……そう感じてくれているんだね」
「ええ。あなたと出会ってからの時間は、とても深く、濃くて……生きているって感じるわ」
それは蔵馬も同じだった。
この一年が何百年にも感じるほど、かけがえのない時間だった。
彼女と出会ってからの時間は、自分に確かな変化を与えてくれた。
葵が再び星空を見上げた。
その横顔が、淡い夜の光を浴びて、静かに輝く。
蔵馬の目に、その姿はひどく眩しく映った。
(オレは、こんなにも……)
胸が、切ないほど熱く満たされていく。
そっと握った指先に、自然と力がこもった。
葵の柔らかな横顔から、再び星空へと視線を移す。
その輝きは、彼の人生を彩った全ての出逢いを祝福しているかのようだった。
「少なくとも、オレは今の自分も気に入っている。妖狐だった頃では味わえない生き方を体験して、幽助や飛影、桑原君たち、そして君にも出会えた。この巡りあわせに感謝している」
(繊細で、優しい音ね…)
星空を見ながら耳に届いた蔵馬の言葉に、彼女の心の奥が震えた。
「今の自分も気に入っている」という、蔵馬ならではの表現に、長い歴史と深い経験と想いを感じた。
「この世界に偶然があるとしたら、それは偶然という名の必然よ。みんなと巡り合えて、あなたが感謝しているなら、望んでそれが必然だからそうなっているだけ。だから蔵馬…今のあなたを誇りに思って」
「……。」
蔵馬はわずかに目を見開いて、彼女を見た。
葵の声は、彼の魂の根源に語りかけるようだった。
彼の心の奥底に染み入り、長年抱えていたであろう迷いや葛藤さえも溶かす。
何もかもが肯定されたような、絶対的な安らぎをもたらした。
「……そうだな。君には色々と教えられてばかりだな」
「あら、私たちお互い様ね」
柔らかな声でそう返し、葵はその深い双眸で蔵馬を見た。
「そうだね。今のも占断?」
「私の主観よ」
ふっと笑った葵に、蔵馬も微笑み返した。
再び夜空を見上げる二人。
二人の間に、静かな熱が灯る。
言葉にならない、けれど確かな想い。
夜は深まり、風が音を運ぶ。星々が囁くように煌めいていた。
蔵馬は、先ほどの左手に残る感触を思い出した。
甘く、螺旋を描くような指の軌跡。
柔らかくも確かなぬくもりは、まだ残っている。
蔵馬はその文字の意味を知っていた。だからこそ心と魂が揺り動かされる。
これも偶然という名の必然なのか、背中を押したのは葵の存在そのものだった。
(オレは……今の気持ちに正直でありたい)
胸の奥から湧き上がる想いは、堰を切った激流のように、もう抑えられない。
数千年生きた理性が警鐘を鳴らすも、その声は届かない。
次回は、二人の心が重なっていく一夜。
ぜひ、そっと寄り添う気持ちで読みに来てください。
枉鵬については、3章9話~をご参照ください。