言葉よりも速く、思考よりも先に、蔵馬の体は動いた。
突然の春の嵐のように。
迷いも逡巡もなかった。静かに、優しく、隣にいる葵の肩をそっと引き寄せた。
ほんの僅かな抵抗すらなく、彼女は吸い寄せられるように彼の胸元へと落ち着いた。
触れた瞬間、彼女の口唇から、驚きと安堵が入り混じった微かな吐息が漏れる。
あたたかい。
柔らかい。
心臓の鼓動を通して、その存在の全てが、蔵馬の奥底に沁みていく。
世界が無限の色彩で満たされていくようだった。
「……葵」
呼ぶ声は、夜の静寂を破る唯一の音。繊細で、静かに熱を帯びていた。
魂に直接語りかけるようだった。
静かで、深く、どこまでも甘美な、彼女のために紡がれた、蔵馬だけの声音。
葵は驚いたように顔を上げた。
その瞳を正面から見つめ、蔵馬はそっと腕に力をこめた。
「……蔵馬っ?」
その囁きを聞きながら、蔵馬は彼女の足元に視線を落とす。
音もなく、静かにその履物を外すと、最も大切な花を扱うように、葵の体を優しく抱き上げた。
夜の涼しい風が、彼らの熱を帯びた肌を優しく撫で、最後にふわりと二人の髪に触れた。
そっと彼女を抱えたまま部屋へ戻る。
灯りの落ちた部屋。
夜の闇と静けさが、二人の時間を守るかのように、柔らかく出迎えた。
蔵馬はベッドの縁にそっと膝をつき、まるで花びらをおろすように慎重に、葵をベッドの上へと横たえた。
スプリングがかすかに音を立てた。
そのまま身を屈め、自分の体を彼女に寄せる。
……近い。
これまでで、最も。
「……っ」
葵が小さく息をのんだ。
鼻先がふれあうほどの距離で、深い瞳と瞳がまっすぐ見つめあう。
蔵馬の双眸は、静かだった。
冷静で、透明で。でもその奥には、切なさを秘めた熱が、密やかに揺れている。
葵をとらえて離さない、深く深く、底知れぬ眼差し。
(ずっと……こうしたかった)
心の奥から湧き上がった焦がれる想いが、胸の内に満ちていく。
指の先からつま先まで電流が走るような、切ないほど愛おしい衝動に、全身が震えそうになる。
しばらくして、驚いていた葵の顔がふわりと和らいだ。
彼女は、そっと蔵馬の肩に手を添えた。
その小さな手の温もりが、優しい感触が胸の奥に甘く刺さる。
葵の背中に回した腕越しに伝わる、静かに弾む鼓動。
青白い宵闇の中に、互いの息遣いと命の音だけが響く。
重なる蔵馬の体の重みと温かさを感じ、葵は、今この時に、生きて共にあることを奇跡だと感じた。
蔵馬の目も葵の目も揺れている。口唇が触れ合いそうで、触れない距離。
「葵……」
絞り出すような、低く甘い声で名前を呼ぶ。
その響きは、夜の静寂に溶け、彼女の心を、魂を柔らかく震わせた。
蔵馬は彼女の柔らかい髪をすくい、頬と頭を撫でた。
その仕草は、花びらに触れるように繊細で、丁寧だった。
指先で触れるたびに、彼女の肌から伝わる温もりが、彼の理性の壁を静かに崩していく。
そして口づけた。
先ほどの手のひらの刺激を大きく超える恍惚の感触に、胸が熱くなる。
ふわりと、柔らかい
(口移しで、君が欲しい……)
この口唇から、その吐息も、香りも、葵の存在全てを、余すところなく、この内に迎え入れたい。
蔵馬は労わりながらも、ゆっくりとその花に酔い、その芳醇な香りに満たされ、夢中になる。
口唇を通して、その頬に触れる指を通して、彼女の全てを、奥深くから感じる。
命の輝きが伝わってくる。
一瞬ごとに、その口唇の柔らかさにかすかな変化が宿る。
とても微細で、触れている彼だけにわかる感触と熱の変化は、時間ごとに姿を変える酔芙蓉そのものだった。
重なる二つの胸の調べが、加速していく。
蔵馬の鼓動が、葵の胸に直接響き渡り、二人の心が一体となって脈打つ。
お互いの熱が溶けあう中、もっと求めたくなる。
絶対的な信頼と安心感、そして敬愛のもと、葵は穏やかに蔵馬を受け入れた。
花の口唇が、かすかに揺れた。彼の愛に応えるように。
静かに心をくすぐる涼やかな匂いの中、優しくゆったりと口唇の動きが続く。
彼女は蔵馬の首に手を回した。
背中と頬にある彼の熱い指先は、ずっと優しく葵に寄り添っていた。
(あなたは…これほどに、私を大切に想っていてくれたのね)
言葉がなくても、想いは伝わっていた。
「愛している」という言葉さえ、この胸の溢れる感情の前では、あまりにも陳腐で、空虚にかすむ。
この胸の想いを、全て表現する言葉が、人間界にも魔界にも、きっと存在しない。
淡い星の光が窓辺にさしていた。
口唇が離れても、蔵馬と葵はしばらく見つめあっていた。
そっと触れ合う額、重なる呼吸。
ぴたりと寄り添う体が、互いの熱をわかちあい、心が、魂が、喜びで震えていた。
この夜、このひとときを、永遠のように感じていた。
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朝の陽ざしがカーテン越し差し込み、部屋を柔らかく照らす。
蔵馬は、肌に残る温もりと、淡い香りに包まれながら、静かにまどろみから目を覚ます。
まだ眠っていたい心地良さと、確かに目覚めつつある意識のはざま。
そっと瞼を開ければ、腕の中には、葵が穏やかな寝息をたてている。
その寝顔は、夢ではないと告げていた。
昨夜、たしかに交わしたぬくもり、言葉、想い、すべてがこの現実の続きなのだと。
彼女の細い肩が、自分の腕の中で静かに上下している。
その重み、その柔らかさ、その温かさ。たったそれだけで、胸の奥が満ちていく。
壊れものを抱くように、そっと腕に力をこめる。
この愛しいものを守りたい。
それは衝動でも欲望でもない、もっと根源的な、静かな誓いだった。
(……こんなにも、心が穏やかになるものなのか)
そっと目を細める。
ずっと寝顔を見ていても飽きない。こんなふうに、誰かの寝顔をただ見つめていたいと、心から思える日がくるとは。
かつての自分では、想像もしなかった感情。
柔らかい肌あたりは、男の自分と明らかに違う優しさ。
服越しでも伝わる弾力と温かさを、堪能する。
(母さんの病室で、回復を祈りながら見守ったあの寝顔とも違う……)
あの時は、人間として育ててもらった感謝と責任、温かな義務の想いだった。
しかし、いま腕の中のこの存在には、それ以上のものがある。
守りたい、共にいたい。
それが自分の意志であり、喜びなのだと、静かに悟る。
葵がいてくれることで、過去さえも変わった。
痛みも迷いも、すべてが意味を得て昇華されてゆく。
そして自分自身が、「愛する」という行為を恐れなくなった。
それこそが彼女の贈り物だった。
(ゆっくり、丁寧に……この想いを育てていきたい)
ふと目を落とせば、葵の髪。
昨夜、自らほどいた紫の紐が枕元に落ちている。
朝の光を受けて、象牙色の髪はかすかに輝き、花びらのような質感で彼の指先をくすぐった。
すっと、その頬に触れる。
名を呼ぶ。
「……葵」
声をかけても、髪や頬を撫でても、まだ安らぎの中。
彼女は、蔵馬の胸の優しさに眠る。
こんなにも無防備に、安心しきって。
(……目覚めた君の瞳が見たい)
思わず、そっとその口唇に顔を寄せた。
指でふれれば崩れてしまいそうなほど、薄く、柔らかな花びらのような口唇。
その場所は優しさが求められる。
繊細な口あたりだった。
口唇が触れる直前、蔵馬の理性が最後の警鐘を鳴らした。
しかし、その囁きは甘やかな香りの中で溶け、消えていく。
そしてそっと、短く口づけた。
触れた瞬間、夜明けの森の露を思わせる清らかさと、そこに隠されたぬくもりが口唇に宿る。
安らぎと、満ちるような感覚。
それは、ただ肌に触れたというより、彼女という存在そのものに包まれたような、不思議な幸福だった。
(昨日の続きのように、夢中になりそうだな……)
そっと目を閉じて、もう一度、口づけた。
確かめるように、この愛しい重みが、夢ではなく、現実であることを。
なかなか起きる気配がないのをいいことに、蔵馬の口唇と舌の動きは、抑えきれない甘やかな衝動に誘われるように深くなっていく。
だがその動きも、慎重で、どこまでも丁寧だった。
愛しいものに触れる悦びと、破ってはならぬ一線とのせめぎ合いの中、蔵馬の理性と本能は、かすかな緊張の糸を張り続けている。
(……目を覚ましてくれれば、少しは心が落ち着くかもしれないな)
ふ、と微笑む。
彼女の額に口唇で触れ、そっと囁く。
「……葵。そろそろ、朝だよ」
部屋の空気はまだ静かで、夜の余韻が名残惜しげに漂う中。
まだ夢の中にいるかの人だけに向けられた、蔵馬の穏やかな声だった。
その声に応えるように、腕の中の彼女がわずかに身じろぎ、小さく吐息を漏らす。
「……ん」
口唇から零れた声は、淡い夢の淵から呼び戻されるかのように微かだった。
まつ毛がそっと揺れ、蔵馬の頬をかすめた。
やがて、静かに目が開く。
光を宿した瞳が、ゆっくりと彼を映し出す。
蔵馬は、口元に淡い笑みを浮かべたまま、ふっと口唇を離した。
「……お目覚めですか?」
何気ない風を装って声を掛ける。
その目の奥には、さりげなく起こしておいて何食わぬ顔をする、彼らしいいたずら心が宿っていた。
「……蔵馬」
まだ夢の続きにいるような表情で、葵は瞬きを繰り返す。
ゆっくりと意識が現実に戻り、今自分がどこにいるのかを思い出していく。
昨夜は彼とそのまま眠っていたようだ。
腕が涼しいと思ったら、籠手が外されている。
いつの間にか。
彼女の視線の先、目の前の男は、満足気に自分を腕に収めている。
そして朝から爽やかな笑顔だった。
「蔵馬は……けっこう積極的な愛情表現なのね」
「本当にそうだな……。自分でも驚いてるんだ」
蔵馬は上半身を起こし、さらりと返す。
妖狐だったころ、このように女とゆっくり寝ることはなかった。
記憶としてあるのは、本能の欲求で女と共寝して、用が済んだら、どちらかがその場を去っていた。
ぬくもりも、言葉も、何一つ持ち帰らなかった。
なのに今、こうして、誰かの眠りの隣にいて、その寝顔を愛おしみ、朝を迎える。
それを自然と思わせる存在が、今こうして腕の中にいる。
そんな自分を、心のどこかで不思議に思っていた。
(……君のおかげで、また新しい自分に出会っている)
積極的な愛情表現と言いながらも、自分を受け入れて、愛らしい反応を見せる彼女に、蔵馬はますます惹かれていく。
葵もゆっくりと体を起こすと、象牙色の髪がふわりと流れた。
わずかな朝の光が、透明感のある肌を浮き彫りにする。澄んだ瞳が、淡く輝いている。
彼は顔を近づけて、ゆっくりと彼女を見つめた。
「…そんなに見られると、穴が開くわ」
「開いたら……オレが埋めます」
くす、と喉の奥で笑う。その声には、わずかに甘さと深い情が宿る。
「きっと穴だらけになって、埋めるの大変よ」
寝起きのかすれた声は、柔らかく面白そうに彼に向けられた。
その無邪気な響きさえ、彼の心の琴線をくすぐる。
蔵馬は手を伸ばし、そっと彼女の前髪をよけ、頬に触れた。
「ずっと……見ていたいんだ。葵の目は、不思議な光り方をする」
「猫の目のようってことかしら?」
「……動物とは違うな。もっと澄んでいて……光を良く映しているように見えるんだ」
太陽の光も、月も、星も、彼女の瞳はそれを映して、自分を見返す。
その中に映る自分は、何も偽れない。
愛しさも、欲しさも、すべて晒されている。
(……本当に、かなわないな…)
優しい沈黙の中、彼女の手が蔵馬の頬に触れた。
「蔵馬の目は、澄んでいて、とても深い色ね。慈愛と底知れぬ思慮深さ、幾重にも重なる歴史、そして奥深い冷厳さを感じるわ」
「葵には……そう見えるんだね」
「ええ。……私は、あなたの目に、深く吸い込まれそうだわ」
(こんな気持ちは…初めて…)
懐深いまっすぐな想いを向けられ、心が様々に反応する。
葵にとって、生まれて初めて経験する喜びだった。
その言葉に、蔵馬は更に顔を近づけた。
顔が触れるか触れないかの、ギリギリの距離。
彼女の手は、ためらいがちに彼の頬から離れていく。
この男は、葵の反応を確かめるために、わざとやっている。
大人の余裕と愛情に満ちた表情で、彼は目の前の愛しい花を鑑賞する。
「もしかして……恥ずかしい?」
「恥ずかしいわけじゃないけど、なんだか、心がざわついて…。そんなに見つめれると、どうしたらいいか…わからなくなるわ」
伏し目がちに揺れる睫毛。その影に隠れた頬の紅色。
その面差しに、彼女の心が少しだけ動いたのを感じる。
「……それを、照れるって言うんだよ」
「…これが、照れるという感情なのね」
葵は小さく息を吐く。まるで、初めて心の動きに気づいた子供のように。
彼女の中で、自分のことを少し意識する気持ちが芽生えたと蔵馬は感じた。
喜びと共に、淡く切ない恋の芽の発見だった。
「どうして、照れるのかしら?」
「それは……君の心に聞いてみるといい」
(葵の心が気づくまで、ゆっくり待とう……)
蔵馬はそっと彼女の髪に触れ、目を細めた
時計の針は、6時を少し過ぎていた。
もうすぐ、蔵馬が高校生の顔に戻る時だった。
でも、今だけは、彼女の隣でもう少し……。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
おまけ♢
4月某日。学校から帰宅した蔵馬は母親に話しかけた。
「葵の誕生日、4月1日だったよ」
「あら、最近だったのね。エイプリルフールだなんて、なんだか葵ちゃんらしいわ」
母親の言葉に、彼はくすりと笑った。
確かに。
軽やかで、掴みどころがなくて、でもふいに自分の心を掴んで離さない。
彼女との会話の断片が、ふいに胸に蘇る。
1年前の3月3日は、蔵馬にとって大きな転機となっていた。
あの時に芽を出したものが、今や確かに花開いている。
「秀一。何か良いことあったの?とても嬉しそうよ」
「…そう?いつもと変わらないよ。それより母さん…鍋が沸騰してるよ」
「あら、いけない!」
そう言って、彼は淡々と自室に戻っていた。
胸に芽吹いた想いを、密かにそっと抱きしめながら。
これで7章「想いが実を結ぶ」終了です。
ここまで読んでくださっている方々に、感謝しています。
幽遊白書好きな方、蔵馬好きの方に届いていれば嬉しいです。
次回より8章スタート。7章で縮まった二人の関係性が、しっかりと根を張る内容です。
ふと思った…。これ、朝に更新してるんだけど大丈夫なのかな。通勤中にお読みの皆さま、夏なのに、熱くさせているかもしれませぬ。
今回のシーン、愛が溢れています。
ご感想いただけますと励みになります。