アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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ここから8章スタートです。人間界の南野家で二人の日常のようなお話しです。書いててとても楽しかった。

8章は全体的に甘めなので、大丈夫な方はお進みください。


8章 春の夢ー愛を育むー
第32話


人間界では4月末の休日の9時。

 

「この日は、一日空けておいてください」

 

そう伝えられていた葵は、蔵馬の部屋で静かに待っていた。

 

 

「これに着替えて、オレの家族が外出したら下に降りてきてくれ」

 

変わらぬ穏やかな声で、彼はベージュのトレーナーとジーンズを手渡してきた。

 

葵は受け取った服を見つめた。

 

(人間界の私服に着替えるということは、どこかに行くのよね)

 

腕を通すと、やわらかな生地のトレーナーは、肌に触れると心地よい。

普段着ている道着タイプの服や制服とは、まったく違う感覚だった。

ゆったりとしていて温かい、でも守られていないような、そんな心もとなさを含んでいる。

 

 

西側の窓の外から、彼の家族が出かけていくのを見送る蔵馬の声が聞こえる。

どうやら、彼の母親、交際している男性、それからその息子が高校進学先を見学するために、1泊2日の小旅行に行くようだ。

 

(蔵馬は、一緒に行かないのね)

 

家の中が静けさに包まれて数分後、葵は階段を降りた。

玄関横のドアを開けてリビングに入ると、支度を終えた蔵馬が振り返り、いつもの柔らかな表情で迎えてくれる。

 

今日は紺色のシャツに白のパンツスタイルだ。

ごく控えめな色合い。

それなのに、不思議と目を惹く、この男ならではのさりげない気高さを感じる。

 

「良いタイミングだね」

 

「蔵馬、どこか出かけるの?」

 

「うん、ちょっとね」

 

彼はゆっくりと葵に歩み寄り、深い眼差しを向けた。

視線が、葵の柔らかな髪から首筋、そして足元へと滑る。

微かに香る花の匂いを捉えながら、ふむと口元に手を置いて呟いた。

 

制服以外で、人間界の私服に身を包んだ彼女を見るのは、これが初めて。

ベージュのトレーナーは、彼女の柔らかな髪色に溶け込むように馴染んでいる。ゆとりのあるシルエットが、普段の服よりも年齢相応に見えて、たおやかさを引き立てている。

 

ジーンズのサイズも、適当に見繕った割にはちょうどよく、程よく引き締まった柔らかい足の曲線が控えめにわかる。

いつも彼女が履いている足袋型のスニーカーにも、合うだろう。

 

(……似合うな)

 

自分が選んだにしては、なかなか良く満足しているが、もう一押ししたいところ。

口元を緩め、彼女の前に歩み寄ると、蔵馬は指先を花色の髪に伸ばした。

 

「今日は……これがいい」

 

「?」

 

彼女の髪を結んでいた紫の紐にそっと指を掛け、ゆるやかにほどく。

さらり。

柔らかい髪が、肩に落ちる。

手櫛で軽く整えると、それだけで、彼の思い描いていた「今日の葵」が、目の前に形を成していく。

 

(……これだ。これがいい)

 

「…うん。似合っているよ」

 

満足を隠しきれない微笑みが、口元に浮かぶ。

その顔を見ていると、葵は、聞こうとしていた疑問がいつのまにか消えていく。

ただ一つのことを除いて。

 

「………なんだか、自分がいつもより頼りない気がするわ」

 

 

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伏し目がちに、葵は少し戸惑いながら、ぽつりとこぼす。

自分の輪郭が、少し曖昧になったような気がした。

例えていうなら、地に足がついていないような感覚だった。

 

蔵馬はその気配を捉えると、静かにもう一歩だけ近づく。

湖の底のような深い瞳で、目の前の人を抱きしめた。

 

「……オレがいるときは、頼りなくてもいいんだよ」

 

「え?」

 

吐息が混じるような柔らかい声に、思わず見上げると、優しい眼差しが迎えてくれた。

葵の素直な疑問を、蔵馬は全身で包み込んだ。

 

(……もう君を守れるだけの力がある。だから……心配しなくていい)

 

声に出さなかったその想いは、彼女にはまだ届かない。

けれどそれでいいと、彼は静かに微笑んだ。

 

出会ったころは、今ほどの妖力はなかった。でも今の蔵馬は、その時を十分超えて強くなった。

彼女の「頼りなさ」ですら、今の自分には愛しい。

それが葵の、ありのままなのだから。

 

「じゃあ、行こうか」

 

葵には、蔵馬の声の奥にある小さな高鳴りの正体まではわからなかった。

けれどその響きが、少しだけ優しく心に残って、何も言わず彼のあとを追った。

 

春の光が差し込む玄関を抜けて、二人は南野家を後にした。

 

 

 

 

駅から電車を乗り継いで、3駅先で降りる。

妖怪の二人にとっては、走って余裕で行ける距離。

しかし、蔵馬は敢えて時間をかけて目的地に向かった。

 

初めて電車に乗る葵は、彼の予想通り、目を輝かせて窓の外に広がる景色を眺めている。

流れる町並み、交差点で立ち止まる人々、電柱の影、遠くに霞む山々、そのすべてが新鮮でたまらない様子だった。

 

時折、蔵馬に小さな声で話しかけてくる。人間の耳には届かない、ほのかに響く声量で。

彼は穏やかに話し返しながら、心の中でふと微笑む。

 

(……こういう時は、本当に子どもみたいだな)

 

どこか守りたくなる。

そして、彼女の存在そのものが、この瞬間の空気を柔らかくしてくれる。

 

そんな葵の隣で過ごす、この何気ない日常。それがどれほど貴重なものか、蔵馬は、今、静かに実感していた。

 

(もっと……この世界を、君に見せたい)

 

自然と、そんな思いが芽吹いてくる。

 

 

 

駅を出ると、やわらかな風が頬を撫でた。

若葉の匂いが微かに混じり、足元の土には小さなタンポポの黄色。

山あいの空気は澄んで、遠くから鳥の声が聞こえてくる。

 

二人は、なだらかな坂道を並んで歩く。

蔵馬は自然と、隣の葵の歩調に合わせて足を運んだ。

ゆっくりと登っていくと、30分ほどで視界がひらけた。

 

里山の奥に広がる「ゆうつづ湖」。

 

 

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「ここに来たかったんだ。きっと、君が好きな風景じゃないかな」

 

澄んだ湖面に、周囲の山々がくっきりと映り込む。

足元の白い砂は、陽射しを受けて淡く光る。

湖畔の空気は涼しく清らかで、胸の奥にすっと染みこんでいく。

 

その光景に、葵の目が静かに見開かれ、そして微笑んだ。

 

「ありがとう。とてもきれいね」

 

 

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(……やっぱり、ここにして正解だった)

 

彼女の声に、胸の奥がふっと温かくなる。

 

「子供の頃、家族で来たのを思い出したんだ」

 

人間界の景色や季節の移ろいを楽しむ彼女には、市内の賑やかな場所よりも静かに過ごせる場所が合うと考えた。

何より、ここなら自然の気に満ちている。彼女の体にも、きっと良いはずだ。

 

そして、ただ景色を見せたかったわけじゃない。

彼女が何かを感じ、心を動かす。その瞬間に立ち会いたかった。

 

「……不思議ね。初めて来たのに、懐かしい気持ちになる」

 

湖面を見つめながら、葵の声が景色に溶け込んでいく。

その横顔に、蔵馬はそっと目を細めた。

 

「蔵馬。ここ……とてもきれいな音が聞こえるわ。まるで星屑が降るような音なの」

 

 

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「そうか。どんな音がするの?」

 

「ちょっと待って」

 

そう言うと葵は両手のひらをふわりと重ね、そっと目を閉じた。

空気の中に漂う音をすくいあげるように。

その仕草に、いつかの優しい夜が脳裏に浮かぶ。

 

しばらくして、彼女は蔵馬の耳元にその手を差し出した。

 

「ほら…聞こえる?」

 

ふわりと流れてきたその音は、オルゴールのように繊細で、氷が小さくはじけるような響きだった。

 

(……これが、君の聞いている世界か)

 

遠くの(そら)から、星屑が降る音は、優しく胸の奥をくすぐる。

蔵馬は目を閉じて、その音に静かに耳をすませた。

 

「……まるで、話しかけてくるようだね」

 

「ようこそって言ってるみたい」

 

二人はしばらく黙ったまま、音の余韻を感じていた。

湖面に映る二つの影が、静かに寄り添って揺れている。

 

その後、人通りもまばらな中、湖畔をゆっくり歩く。

風の爽やかな音と、鳥のさえずり、二人の足音だけが耳に残る。

 

言葉は交わさない。こうして並んでいるだけで、心地いい。

 

 

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緩やかな坂をくだっていく途中に、目の前にふわりと甘い香りが広がった。

満開の藤棚だ。

風に揺れる紫と白の藤の花のたわわな様子に、葵は立ち止まって、深呼吸をした

 

「豊かね。いい香り」

 

「ちょうど見頃だね」

 

「藤の花が青空に映えて、とてもきれいね」

 

頬をなでる風に、花の香りが混じり、蔵馬と葵の長い髪がさらりと揺れる。

藤棚の下から、二人で仰ぎ見る景色は鮮やかで、眩しいほど美しかった。

 

(……こんなに喜ぶとは、思わなかったな)

 

彼女の素直な喜びに応えるように、次はどこに連れて行こうかと考えが自然と巡る。

そしてその心の動きを、どこか他人事のように静かに見つめる自分もいた。

それもまた、悪くない。

 

 

「……蔵馬、何かいい香りがするわ」

 

坂を下る途中、ふいに立ち止まり、葵が通りの先を見やった。

視線の先、ゆるやかな坂道の向こうに、通りを行き交う人々と、小さなのぼり旗と屋台が揺れている。

鯛焼きだった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

甘く、香ばしい匂いが春風に乗って流れてきた。

 

 

(……本当にわかりやすいな)

 

蔵馬は心の中でそっと笑みを浮かべる。

 

彼女の場合、食事は本来あまり必要ない。

けれど、こうして匂いに反応する時は、体が静かに「気」を求めている合図だろう。

 

「食べてみる?」

 

声をかけると、葵の目がぱっと輝いた。

本当に素直だ。

 

「いいの?」

 

「もちろん。そこに座ってて」

 

柔らかく言い置いて、蔵馬は屋台へ歩いていった。

葵は通りの端に置かれた、木製のベンチにそっと腰を下ろす。

目の前には、やわらかな日差しに照らされた石畳の坂道。

足元をかすめる春の風が、ほのかに甘く香ばしい香りを運んでくる。

 

ふと見上げれば、数百メートル先に藤棚の紫と白の花が風に揺れ、光を受けて静かにきらめいていた。

葵はそんな人間界の音や匂いをひとつひとつ拾うように、耳を澄ませていた。

 

(こうしていると、人間になったみたいね)

 

魔界とは違う平穏な世界は、夢のように感じた。

 

 

しばらくして、湯気の立つ鯛焼きを手に蔵馬が戻ってくる。

 

「ちょっと待ってね」

 

彼は手際よく、2つの鯛焼きを半分ずつに分けた。

ひとつは定番の小豆。

もう一つは、この土地ならではのほうじ茶生地に粒あん。

寒暖差のある山間の町ならではの、香り豊かな一品だった。

 

2種類を2つずつ買っても良かったが、彼女の場合小食の可能性もある。

それに、今の気分はこうしたかった。

 

「はい。熱いから気を付けて」

 

「ありがとう」

 

葵の小さな手に、ほんのり湯気のたつ鯛焼きが渡される。

前回の南野家での「教訓」から、少しずつ口に含んでいる様子に、蔵馬は内心でふっと笑った。

 

まずは小豆の鯛焼きから。ふわっとした生地に、とろりとした甘さが舌に広がる。

素朴で優しい甘さが、じんわりと心に染み渡るようだった。

次にほうじ茶の鯛焼きへ。一口頬張ると、香ばしいお茶の香りがふわりと立ち上り、小豆とはまた違う、深みのある甘さが口の中に広がった。

 

「……美味しい。魚の形をしているのに、甘いのが面白いわ」

 

「これはあんこって言って、豆からできているんだよ」

 

「チョコレートも豆だったわよね?こんなに味が違うなんて、人間界の食べ物は奥深いわ」

 

葵の純粋な感性に、彼は微笑ましく目元を緩めた。

こうして人間界で、同じものを味わい、感じ合えること。それが嬉しかった。

 

「豆の種類が違うからね。人間界では、頭のほうを先に食べるか尻尾のほうを先に食べるかで、好みが別れるみたいだよ」

 

「面白いわね。蔵馬はどちら?」

 

「オレは、どちらでもない派」

 

「ふふ。あなたらしいわ」

 

葵が肩を揺らして笑う。

蔵馬も一口かじりながら、隣で味比べをして満足気の彼女を横目で見る。

子供のように素直な反応が、見ていて飽きない。

 

「蔵馬?さっきから楽しそうにしてるけど、どうしたの?」

 

葵がじっと蔵馬を見る。

よく見ると、肩が少し震えてるような。

微笑んでいるけど、その笑みがいつもと少し違う。

 

「ん……。オレは元々こんな顔です」

 

それはいつぞやの南野家での一コマ。

彼女の口の中の火傷を思い出し、笑いをこらえていることは黙っておいた。

 

 

そこへ、屋台の女性が近づいてきて、手拭きのタオルを一枚ずつ渡した。

蔵馬が穏やかにお礼を言うと、その女性は嬉しそうに去って行った。

 

(蔵馬は、やっぱり麗しいのよね)

 

人間界の「好意」や「魅力」という価値観は、彼女にはまだよくわからない。

けれども、彼が外見も中身も、自然と人を惹きつけてしまう存在だということだけは、確かにわかった。

 

春の空の下。

香ばしい甘さとやさしい風に包まれて、蔵馬と葵の距離は、少しずつ近づいていた。

 

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