アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

33 / 90
第33話

ゆっくりと南野家に戻ったら、午後になっていた。

蔵馬はいつもの穏やかな調子で家の中を案内し、リビングへと通した。

 

「こちらにどうぞ」

 

誘われるままに、葵はソファに座る。やがて彼も2人分のグラスを手に、そっと隣に腰を下ろす。

午後のやわらかな陽射しがレースのカーテンを透かして、部屋の空気を静かに照らしていた。

 

ふと彼女の髪に目を留める。

午前中、外で光を浴びていたときは、淡い白にほのかに桃色を溶かしたような髪色だった。

室内の光を含んだその髪は、今、根元から毛先に向かって桃色の濃淡を帯びている。

あたたかな空気に溶け込みながら、呼吸をするように、花びらの色が変化していた。

 

(魔界の酔芙蓉と同じだ……)

 

時間や光によって色を変えるその髪は、この世のどの花よりも美しくて、蔵馬は好きだった。

 

半日一緒にいて、その変化を間近で感じられること。

それは今日、彼が密かに望んでいたことのひとつだった。

 

静かに、その長い指で葵の髪に触れる。

指先に伝わる、しっとりとした絹のような感触。

いや、それ以上だ。花びらのような柔らかさ、薄く、みずみずしい質感。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「……君は、本当に花みたいだね」

 

「ええ。花から生まれてるから」

 

「うん……。そうだね」

 

葵は当たり前のようにそう答える。

その純粋な肯定に、蔵馬は苦笑するように目を細めた。

 

この言葉には、いろんな意味が込められている。

深い想いが、彼女に届かなくても構わない。

無垢で飾らないところが、彼女の魅力で、自分が敵わないと思う理由のひとつなのだから。

 

 

「……髪、結んでみてもいい?」

 

「ええ」

 

葵は結い紐を彼に渡して、背中を向けてソファに深く身を沈めた。

 

安心しきった後ろ姿を、蔵馬は数秒間見つめる。

そして彼女の髪に、再び指先で触れた。

 

「葵の髪は……花びらを触っているみたいなんだ。つややかで、しっとりとして柔らかくて…。手触りがいい」

 

静かにそう呟く声には、溶けるような響きがあった。

 

ベルベットのような感触を、彼は堪能する。

今まで、たくさんの価値ある財宝や骨董品を手に入れてきた蔵馬でも、このように生きた素材で、心を揺さぶる質感は初めてだった。

 

「そうかしら?」

 

突然、葵が後ろを振り向いて、蔵馬の髪を手にとる。

相変わらずの予想外の行動。

それに共鳴するように、彼の胸が一瞬鳴った。

もちろん、その表情は変わらない。長年の習慣がそれを許さない。

 

「確かに……蔵馬の髪と違うわね」

 

そう言いながら、葵は再び前を向く。

その行動を見送り、蔵馬は内心でふっと息を吐いた。

 

彼は紫の紐を取り、いつもより頭の高い位置で髪をひとつに結ぶ。次いで、彼女の髪の根元から毛先にかけて紐を巻き付けていく。

桃と白の髪に、紫の紐が良く映え、静かな華やかさを帯びた。

 

うなじから首筋へ。

結い上げた髪の下から、やわらかい光を受けた肌が静かに現れる。

その肌は雪のように白く、吸い込まれるような滑らかさを帯びていた。

 

(……きれいだな)

 

心の奥から、ひとつの声が静かに湧き上がる。

彼女の白い肌、細く整った首筋、うつむいた睫毛の影。

普段は無意識に隠している本能が、微かにざわめいた。

 

その時だった。葵がゆっくりとこちらを振り向いた。

その動きに、蔵馬の時間が一瞬、緩やかに引き延ばされた。

振り返るその顔、光を含んだ桃色の髪、吸い込まれるような瞳。

 

 

「蔵馬?」

 

小首をかしげる声に、蔵馬はふっと我に返る。

胸の奥に残る余韻は、まだ静かに波打っていた。

 

「……はい、できたよ」

 

「あなたは、本当に器用ね」

 

葵は小さく微笑んだ。

鏡がなくても、きれいに整えられているのがわかる。

それだけ、彼の手は丁寧で繊細だった。

 

「少し、アレンジしてみたかったんだ。似合ってるよ」

 

「ありがとう。私も、あなたの髪を結ってみたいわ」

 

その言葉は、彼女の無意識から漏れた想いだった。

蔵馬の髪は、草木のようにしなやかで、毛先に自然の気配を残している。

彼女はずっと、それに触れてみたいと感じていた。

立ち上がると、もう一つ結い紐を手にして彼の後ろに回った。

 

リビングに柔らかな西日が差し込み、室内をほのかに暖め、空気がゆったりと流れている。

窓際の観葉植物が、静かに揺れていた。

 

遠慮や戸惑いもなく、彼女の指が蔵馬の髪や頭皮に触れる。

それは、少し物足りないくらいに心地よい。

 

葵の手は、見ているだけでは気づけなかった髪の質感を、丁寧に確かめていく。

細くて、しなやかで、少しふわりと流れるクセのある髪。

そこに触れているうちに、自然と葵の頬がほころんでいた。

 

「蔵馬の髪……、良い香りがするわ」

 

「そう?普通のシャンプー使ってるんだけど」

 

「シャンプーよりも、花のような草木のような香りね」

 

(あなたらしい、奥深い匂いね)

 

静かに心をくすぐる涼やかな匂いが濃くなる。

蔵馬の匂いは、控えめなのに近づくと突然ふわっと香る。

爽やかなのに、不思議と落ち着く。深い森の奥にいるようだった。

 

 

「植物や種を出すとき、髪の中から出してるわよね。どうなってるのかしら?」

 

葵は小首を傾げ、不思議そうに髪を持ち上げてうなじを覗き込む。

特に変わった様子はない。

触れるたびに、少しクセのある髪がふわりと流れる。その動きも優雅だった。

 

 

背中を向けていても伝わるその仕草が、ひどく無垢で。

蔵馬は静かに微笑み、肩をすくめた。

 

「それは……企業秘密です」

 

「ふふ。秘密が多いのも、あなたの魅力の一つね」

 

「それは、お互い様だろう?」

 

「あら。私、秘密にしているつもりはないわよ。ただ、自分でもわかっていないことが多いだけ」

 

彼女らしい素直で、正直な言葉だった。

 

「確かに、そうだね。葵は、あまり自分のことを言わないから……」

 

こちらに質問したり、疑問を投げかけることは多いのに。

それがもどかしいこともあるが、この人の魅力でもある。

 

「基本的に聞かれたら、答えるわよ。ただ、わからないという回答も含むわ」

 

蔵馬はふっと笑った。

 

言葉では説明できない存在。理解が追い付かない場合も少なくないから、蔵馬は理解するのを一旦諦めて、「葵はこういう人」と受け止めるようにしている。

理解は彼女と共にいることで、後から追いつき腑に落ちる。

 

「はい、できたわ」

 

少し頭の高い位置に彼の髪を一つに結ぶと、ふんわりとした毛先が流れるようにまとまった。

 

「首回りが軽くなるね」

 

手を後ろに伸ばし、結ばれた部分を指先でなぞる。

彼女の指の形が、そこに宿っている気がした。葵の結び方は、思いのほか丁寧だった。

 

「あなたは、何をやっても麗しくなるわね」

 

(なんて言うのかしらね…。気品があって、眩い美しさを感じるわ)

 

葵の胸の奥が、小さく音を立てる。

この男は、ほんの少し髪型や服装を変えただけでも、内面も含めた魅力が際立つ。

稀有な存在だった。

 

「それは……褒めてる?」

 

「褒めるというよりも、事実かしら?」

 

ふっと、蔵馬の喉から低く笑みがこぼれる。

そして後ろを見上げると、そっと左手を伸ばし、彼女のうなじに触れた。

少しひんやりとした指先が、葵の肌の温もりに沈んでいく。

 

 

肩越しに見つめ合う深い双眸。

その距離が、吸い寄せられるように静かに縮まっていく。

蔵馬の手がごく自然に彼女の体を引き寄せ、二人の影が重なる。

 

 

柔らかく、長く、優しい口づけ。

 

閉じた瞼の向こうで、蔵馬の心は静かに波打っていた。

こうしていると、自分の輪郭すら曖昧になる。腕の中に確かにいる彼女の存在が、それ以上の何かに変わっていく。

 

「君は……時々、さらっと口説き文句を言うよね」

 

触れていた口唇を数センチ離すと、蔵馬は微笑んだ。

葵にだけ向けられる彼の愛しさの表情。

指先が柔らかい頬に吸い寄せられる。

 

「え?」

 

自分が何を言ったのかわからず、葵は目を丸くする。

その純粋さに、彼の胸がまた小さく揺れた。

 

「……なんでもないよ」

 

再び口唇が合わさる。ごく自然に、何度でも。

 

無自覚で、葵は蔵馬の心を揺らしていく。その言葉で、仕草で、花のような髪で。

 

(本当に…かなわないな)

 

心の中でそっと呟く。

誰にも見せたことのないこの弱さだけは、彼女の前でなら許せた。

 

 

その後しばらく、他愛のない会話をしながら、ソファで寄り添っていた。

部屋には暖色の明かりが灯り、柔らかなカーテンが時折ふわりと揺れていた。

外の夕暮れの気配が、窓越しに薄く射し込んでいる。

 

蔵馬はそっと彼女の背に腕を回した。

今この瞬間に、ここにいる彼女の存在を感じるための静かな抱擁。

 

(……これ以上、何も望まなくていい)

 

そう思う自分に、静かに驚いていた。

これまで、欲しいものは手に入れてきた。強さも、知識も、財も。

必要なら奪い、計算し、選び取ってきた自分が、今ただ、この小さな存在をそばに感じるだけで、満たされている。

 

蔵馬はそっと、葵の頭に頬を寄せた。

頬を撫でる柔らかな絹のような感触。耳元で、かすかに立つ彼女の鼓動。

 

(……怖いな)

 

心の奥底で、無意識に言葉が生まれる。

こんなにも純粋に、心から誰かを愛しいと思ってしまえば、もしこの手から零れたとき、自分はどうなるのだろうか。

 

それでも、離れたくなかった。

葵の存在が、心に深く根を張っていくのを、もう止められなかった。

 

そのとき、腕の中の葵が、小さく彼を見上げた。何も言わず、ただ微笑んでいた。

煌めく双眸には曇りがなく、自分の恐怖が癒されていくようだった。

蔵馬はその瞳を歓迎し、抱きしめ返す。

 

(本当に……かなわないな)

 

もう一度、心の中で呟いた。さっきより、ずっと深く、温かく。

 

 

ふと見ると、彼女の髪に結んだ紐が緩んでいる。

なめらかな髪がほどけ、肩の下へと滑り落ちていた。

 

「……ほどけてる」

 

声に出しながら、彼女の髪にそっと指先を伸ばす。

紐を外すと、花びらのような光沢を帯びた髪がさらりと広がった。

 

その髪は、夕方近くになり象牙色に輝いていた。

 

蔵馬は、その色の移ろいを、まるで生命の周期そのものを見るように感じていた。

朝の純粋な白から、鮮やかな桃色へ、そして夕暮れの光を宿す象牙色へ。

この髪の移ろいは、まるで一輪の花が一日をかけて咲き誇り、やがて眠りに向かう姿そのものだった。

 

(……見事だな。飽きることがない)

 

その変化が、彼女がこの世界で生きている証、ここで、同じ時間を過ごしている証だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。