ゆっくりと南野家に戻ったら、午後になっていた。
蔵馬はいつもの穏やかな調子で家の中を案内し、リビングへと通した。
「こちらにどうぞ」
誘われるままに、葵はソファに座る。やがて彼も2人分のグラスを手に、そっと隣に腰を下ろす。
午後のやわらかな陽射しがレースのカーテンを透かして、部屋の空気を静かに照らしていた。
ふと彼女の髪に目を留める。
午前中、外で光を浴びていたときは、淡い白にほのかに桃色を溶かしたような髪色だった。
室内の光を含んだその髪は、今、根元から毛先に向かって桃色の濃淡を帯びている。
あたたかな空気に溶け込みながら、呼吸をするように、花びらの色が変化していた。
(魔界の酔芙蓉と同じだ……)
時間や光によって色を変えるその髪は、この世のどの花よりも美しくて、蔵馬は好きだった。
半日一緒にいて、その変化を間近で感じられること。
それは今日、彼が密かに望んでいたことのひとつだった。
静かに、その長い指で葵の髪に触れる。
指先に伝わる、しっとりとした絹のような感触。
いや、それ以上だ。花びらのような柔らかさ、薄く、みずみずしい質感。
「……君は、本当に花みたいだね」
「ええ。花から生まれてるから」
「うん……。そうだね」
葵は当たり前のようにそう答える。
その純粋な肯定に、蔵馬は苦笑するように目を細めた。
この言葉には、いろんな意味が込められている。
深い想いが、彼女に届かなくても構わない。
無垢で飾らないところが、彼女の魅力で、自分が敵わないと思う理由のひとつなのだから。
「……髪、結んでみてもいい?」
「ええ」
葵は結い紐を彼に渡して、背中を向けてソファに深く身を沈めた。
安心しきった後ろ姿を、蔵馬は数秒間見つめる。
そして彼女の髪に、再び指先で触れた。
「葵の髪は……花びらを触っているみたいなんだ。つややかで、しっとりとして柔らかくて…。手触りがいい」
静かにそう呟く声には、溶けるような響きがあった。
ベルベットのような感触を、彼は堪能する。
今まで、たくさんの価値ある財宝や骨董品を手に入れてきた蔵馬でも、このように生きた素材で、心を揺さぶる質感は初めてだった。
「そうかしら?」
突然、葵が後ろを振り向いて、蔵馬の髪を手にとる。
相変わらずの予想外の行動。
それに共鳴するように、彼の胸が一瞬鳴った。
もちろん、その表情は変わらない。長年の習慣がそれを許さない。
「確かに……蔵馬の髪と違うわね」
そう言いながら、葵は再び前を向く。
その行動を見送り、蔵馬は内心でふっと息を吐いた。
彼は紫の紐を取り、いつもより頭の高い位置で髪をひとつに結ぶ。次いで、彼女の髪の根元から毛先にかけて紐を巻き付けていく。
桃と白の髪に、紫の紐が良く映え、静かな華やかさを帯びた。
うなじから首筋へ。
結い上げた髪の下から、やわらかい光を受けた肌が静かに現れる。
その肌は雪のように白く、吸い込まれるような滑らかさを帯びていた。
(……きれいだな)
心の奥から、ひとつの声が静かに湧き上がる。
彼女の白い肌、細く整った首筋、うつむいた睫毛の影。
普段は無意識に隠している本能が、微かにざわめいた。
その時だった。葵がゆっくりとこちらを振り向いた。
その動きに、蔵馬の時間が一瞬、緩やかに引き延ばされた。
振り返るその顔、光を含んだ桃色の髪、吸い込まれるような瞳。
「蔵馬?」
小首をかしげる声に、蔵馬はふっと我に返る。
胸の奥に残る余韻は、まだ静かに波打っていた。
「……はい、できたよ」
「あなたは、本当に器用ね」
葵は小さく微笑んだ。
鏡がなくても、きれいに整えられているのがわかる。
それだけ、彼の手は丁寧で繊細だった。
「少し、アレンジしてみたかったんだ。似合ってるよ」
「ありがとう。私も、あなたの髪を結ってみたいわ」
その言葉は、彼女の無意識から漏れた想いだった。
蔵馬の髪は、草木のようにしなやかで、毛先に自然の気配を残している。
彼女はずっと、それに触れてみたいと感じていた。
立ち上がると、もう一つ結い紐を手にして彼の後ろに回った。
リビングに柔らかな西日が差し込み、室内をほのかに暖め、空気がゆったりと流れている。
窓際の観葉植物が、静かに揺れていた。
遠慮や戸惑いもなく、彼女の指が蔵馬の髪や頭皮に触れる。
それは、少し物足りないくらいに心地よい。
葵の手は、見ているだけでは気づけなかった髪の質感を、丁寧に確かめていく。
細くて、しなやかで、少しふわりと流れるクセのある髪。
そこに触れているうちに、自然と葵の頬がほころんでいた。
「蔵馬の髪……、良い香りがするわ」
「そう?普通のシャンプー使ってるんだけど」
「シャンプーよりも、花のような草木のような香りね」
(あなたらしい、奥深い匂いね)
静かに心をくすぐる涼やかな匂いが濃くなる。
蔵馬の匂いは、控えめなのに近づくと突然ふわっと香る。
爽やかなのに、不思議と落ち着く。深い森の奥にいるようだった。
「植物や種を出すとき、髪の中から出してるわよね。どうなってるのかしら?」
葵は小首を傾げ、不思議そうに髪を持ち上げてうなじを覗き込む。
特に変わった様子はない。
触れるたびに、少しクセのある髪がふわりと流れる。その動きも優雅だった。
背中を向けていても伝わるその仕草が、ひどく無垢で。
蔵馬は静かに微笑み、肩をすくめた。
「それは……企業秘密です」
「ふふ。秘密が多いのも、あなたの魅力の一つね」
「それは、お互い様だろう?」
「あら。私、秘密にしているつもりはないわよ。ただ、自分でもわかっていないことが多いだけ」
彼女らしい素直で、正直な言葉だった。
「確かに、そうだね。葵は、あまり自分のことを言わないから……」
こちらに質問したり、疑問を投げかけることは多いのに。
それがもどかしいこともあるが、この人の魅力でもある。
「基本的に聞かれたら、答えるわよ。ただ、わからないという回答も含むわ」
蔵馬はふっと笑った。
言葉では説明できない存在。理解が追い付かない場合も少なくないから、蔵馬は理解するのを一旦諦めて、「葵はこういう人」と受け止めるようにしている。
理解は彼女と共にいることで、後から追いつき腑に落ちる。
「はい、できたわ」
少し頭の高い位置に彼の髪を一つに結ぶと、ふんわりとした毛先が流れるようにまとまった。
「首回りが軽くなるね」
手を後ろに伸ばし、結ばれた部分を指先でなぞる。
彼女の指の形が、そこに宿っている気がした。葵の結び方は、思いのほか丁寧だった。
「あなたは、何をやっても麗しくなるわね」
(なんて言うのかしらね…。気品があって、眩い美しさを感じるわ)
葵の胸の奥が、小さく音を立てる。
この男は、ほんの少し髪型や服装を変えただけでも、内面も含めた魅力が際立つ。
稀有な存在だった。
「それは……褒めてる?」
「褒めるというよりも、事実かしら?」
ふっと、蔵馬の喉から低く笑みがこぼれる。
そして後ろを見上げると、そっと左手を伸ばし、彼女のうなじに触れた。
少しひんやりとした指先が、葵の肌の温もりに沈んでいく。
肩越しに見つめ合う深い双眸。
その距離が、吸い寄せられるように静かに縮まっていく。
蔵馬の手がごく自然に彼女の体を引き寄せ、二人の影が重なる。
柔らかく、長く、優しい口づけ。
閉じた瞼の向こうで、蔵馬の心は静かに波打っていた。
こうしていると、自分の輪郭すら曖昧になる。腕の中に確かにいる彼女の存在が、それ以上の何かに変わっていく。
「君は……時々、さらっと口説き文句を言うよね」
触れていた口唇を数センチ離すと、蔵馬は微笑んだ。
葵にだけ向けられる彼の愛しさの表情。
指先が柔らかい頬に吸い寄せられる。
「え?」
自分が何を言ったのかわからず、葵は目を丸くする。
その純粋さに、彼の胸がまた小さく揺れた。
「……なんでもないよ」
再び口唇が合わさる。ごく自然に、何度でも。
無自覚で、葵は蔵馬の心を揺らしていく。その言葉で、仕草で、花のような髪で。
(本当に…かなわないな)
心の中でそっと呟く。
誰にも見せたことのないこの弱さだけは、彼女の前でなら許せた。
その後しばらく、他愛のない会話をしながら、ソファで寄り添っていた。
部屋には暖色の明かりが灯り、柔らかなカーテンが時折ふわりと揺れていた。
外の夕暮れの気配が、窓越しに薄く射し込んでいる。
蔵馬はそっと彼女の背に腕を回した。
今この瞬間に、ここにいる彼女の存在を感じるための静かな抱擁。
(……これ以上、何も望まなくていい)
そう思う自分に、静かに驚いていた。
これまで、欲しいものは手に入れてきた。強さも、知識も、財も。
必要なら奪い、計算し、選び取ってきた自分が、今ただ、この小さな存在をそばに感じるだけで、満たされている。
蔵馬はそっと、葵の頭に頬を寄せた。
頬を撫でる柔らかな絹のような感触。耳元で、かすかに立つ彼女の鼓動。
(……怖いな)
心の奥底で、無意識に言葉が生まれる。
こんなにも純粋に、心から誰かを愛しいと思ってしまえば、もしこの手から零れたとき、自分はどうなるのだろうか。
それでも、離れたくなかった。
葵の存在が、心に深く根を張っていくのを、もう止められなかった。
そのとき、腕の中の葵が、小さく彼を見上げた。何も言わず、ただ微笑んでいた。
煌めく双眸には曇りがなく、自分の恐怖が癒されていくようだった。
蔵馬はその瞳を歓迎し、抱きしめ返す。
(本当に……かなわないな)
もう一度、心の中で呟いた。さっきより、ずっと深く、温かく。
ふと見ると、彼女の髪に結んだ紐が緩んでいる。
なめらかな髪がほどけ、肩の下へと滑り落ちていた。
「……ほどけてる」
声に出しながら、彼女の髪にそっと指先を伸ばす。
紐を外すと、花びらのような光沢を帯びた髪がさらりと広がった。
その髪は、夕方近くになり象牙色に輝いていた。
蔵馬は、その色の移ろいを、まるで生命の周期そのものを見るように感じていた。
朝の純粋な白から、鮮やかな桃色へ、そして夕暮れの光を宿す象牙色へ。
この髪の移ろいは、まるで一輪の花が一日をかけて咲き誇り、やがて眠りに向かう姿そのものだった。
(……見事だな。飽きることがない)
その変化が、彼女がこの世界で生きている証、ここで、同じ時間を過ごしている証だった。