アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第34話

「蔵馬は、そのままでいるの?」

 

「……そうだな。夕飯を作ったら外すよ。簡単なものしかできないけど、葵も食べる?」

 

「あら。作ってくれるのね。嬉しいわ」

 

「じゃあ、ゆっくり待ってて」

 

その花髪からする芳しい香りに、浸っていたいところだが。

蔵馬はそっと腰を上げ、キッチンへと向かう。

その背に、柔らかな声が追いかけた。

 

 

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「お邪魔じゃなければ、ここから見ていてもいいかしら?」

 

「いいよ。そんな面白いものじゃないけど」

 

「蔵馬が作業している姿を見るの、好きなの」

 

「……それは光栄だな」

 

「今日は髪型がいつもと違って貴重だわ」という彼女の声は楽しそうで。

背中越しにそれを感じながら、彼はくすりと笑った。

 

(こう時間も、いいもんだな……)

 

ソファに身を預け、背もたれに腕を置いた葵は、その腕に顎をのせ、じっとこちらを見つめている。

その視線を感じながら、蔵馬は冷蔵庫を開け、あるものを手際よく取り出していく。

 

まな板の上に包丁が落とされるたび、心地よい音が響いた。

油が熱せられ、食材が踊る。

ふわりと広がる醤油の香ばしさ、やわらかな味噌の香りが湯気とともに部屋を満たしていく。

 

貴重な蔵馬の人間としての日常。それを今日ここで、共に過ごしていることが葵は嬉しかった。

 

彼女の位置からは、キッチンに立つ蔵馬の姿が良く見える。

時々、「その食材はなに?」、「その道具は何に使うの?」と無邪気に問いかける。

蔵馬は手を止めることなく、穏やかに答えながら調理を進めた。

 

冷蔵庫に残っていた食材を使い、副菜二品と味噌汁。

決して豪華ではない、だが彼女と分け合うには十分だった。

 

「いい匂いね」

 

ダイニングテーブルに並べた料理を、葵が嬉しそうに見つめている。

二人が箸を手に取ろうとしたそのとき、玄関のチャイムが鳴った。

 

「出てくるよ。冷めないうちに食べてて」

 

「ありがとう」

 

立ち上がりながら、蔵馬は彼女の返事を背に受けた。

 

一瞬、彼が戻るまで食べるのを待とうと思った。しかし食事から湯気が上がる様子と、腹をいい具合に刺激する匂いに抗えず、葵はそっと箸をもった。

 

数分後、荷物を受け取って戻ってきた蔵馬が声をかけた。

 

「葵。ご飯のおかわりならあるから、食べたかったら遠慮なく」

 

「おかわりするわ」

 

空の茶碗を手に、子供のように待っていたと言わんばかりの嬉しそうな葵に、途中で言葉が止まった。

珍しく、この男の目が点になっている。

 

 

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「え……っと…。もう食べたの?」

 

(…しまった。早食いだったことを忘れていた)

 

差し出された手から茶碗を受け取りながら、注意しなかった自分に内心で突っ込みを入れた。

しかし、それ以上に、目の前の彼女の純粋な喜びで輝く瞳と、無邪気な笑顔に、蔵馬は抗えなかった。

この顔に弱い。それを認めることは、ある種の敗北にも等しい。

しかし、これほど心地よい敗北は、他にない。

 

 

「これ、初めて食べたわ。すごく美味しい」

 

(そうか……米を食べるのは初めてだったのか)

 

彼女の言葉に、冷静さを取り戻す。

ご飯の2膳目を茶碗によそいながら、彼女の人間界での体の維持に、米のような穀物のエネルギーが相性がいいのかもしれない。そんな仮説が浮かぶ。

 

一日一緒に過ごして、葵の特異体質の理解が進んだ。定期的に会っている方だが、日常生活を共にすることで、見えるものは大きかった。

 

「今度は、ゆっくり食べるんだよ」

 

渡す茶碗と一緒に、穏やかに釘を刺すことも忘れない。

葵は欲求が満たされた子供のように、満面の笑みで蔵馬を見た。

この笑顔には、二の句が継げぬ効果がある。

 

「ありがとう。美味しくてつい」

 

「……それは嬉しいけど、早食いは体に負担がかかるからね」

 

「わかったわ」

 

その素直さに、蔵馬は肩の力が抜けるのを感じる。

何も言えなくなってしまう。それが少しだけ、悔しかった。

 

(……本当に、オレのペースを変えてしまうのは才能だな)

 

彼女が2膳目を食べ始めるのを見届けてから、蔵馬もようやく自分の夕飯に箸をつけた。

 

 

「ごちそうさまでした」

 

「お粗末様でした」

 

食後の柔らかな空気の中で、葵の声がふわりと響いた。

微笑む彼女を見つめながら、蔵馬は静かに答える。

 

「蔵馬は、いつもこんなに美味しいものを食べてるのね」

 

「……そうかな。母さんの作る料理の方が、もっと美味しいよ」

 

その言葉を口にしながら、ふと胸に浮かぶ光景があった。

普段、母と二人だけの静かな食卓。

そこに今、こうして彼女が座っている。それは確かに非日常のはずだった。

けれど、不思議なほどに馴染んでいる。

 

(……非日常でもないな)

 

思えば、初めてこの家に来たときから彼女はそうだった。

まるで昔からここにいたかのように、自然と空間に溶け込み、人間としての日常に、鮮やかな色を添えてくれた。

先のことはわからないが、こういう未来があっても面白いと思った。

 

 

 

夕食を終えた葵は、ソファへと戻り、ゆったりと身を預けた。

背もたれに肘を置き、その上に頬をのせ、静かにキッチンに立つ蔵馬を眺めている。

リビングには淡く温かな照明が灯り、外の夜の静けさと相まって、室内は包まれたような安心感に満ちている。

 

キッチンからは、水の流れる音や、食器がかすかに触れ合う軽やかな音が、一定のリズムを刻んで聞こえてくる。

 

「私、何もせずに、こんなに至れり尽くせりの状態でいいのかしら?」

 

ぼんやりとした呟き。

背中越しにそれを聞き、蔵馬は振り返らずに答えた。

 

「いいんだよ。オレがこうしたいんだ」

 

「あなたもお母さんも、おもてなしが上手ね」

 

「君には……何かしたくなるんだ」

 

何でもないように告げたその言葉が、ふわりと彼女の胸に染み渡る。

小さな波紋のように心の奥へ広がって、温かさを残した。

 

 

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キッチンに立つ蔵馬の所作には無駄がなく、相変わらず美しかった。

流れるような動きで食器が洗われ、並べられていく。

それだけなのに、その姿は絵のように整っている。

 

(なんだか、夢を見ているみたいね…)

 

今日一日、ゆっくりと人間界で蔵馬と過ごした時間は、自分にとって想像を超えた長い夢のようだった。

この夢物語のような優しい数ページを、大切な思い出としてずっと忘れないでいたい。

葵は目を細め、ゆっくりと息を吐いた。

 

 

後ろから視線を感じなくなったと思い、蔵馬はそっと振り返る。

視線の先。ソファにもたれた葵は、いつの間にか眠っていた。

腕を前に投げ出し、頬を背もたれに預けて、無防備な寝息を立てている。

なかなか貴重な姿だ。

 

(……寝てる)

 

蔵馬は手を止めてそっと近づき、しゃがんでその顔を覗き込む。

ほのかに赤みを帯びた頬、緩んだ口元、規則正しい寝息。

子供のように素直で、あどけない姿に、思わずため息とともに笑みがこぼれた。

 

 

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(あんなに早く、しかも食べ過ぎるから、高血糖だ……)

 

普段食事摂取をしないにもかかわらず、ご飯二膳と副菜、味噌汁もたいらげた。

食べ過ぎと早食いで胃の許容量を超えて、こうして眠りに落ちてしまうのも無理はない。

胃がもたれていないだけ、良かったとしよう。

 

「葵。食後にすぐ寝たら、体に良くないよ」

 

「……ん?」

 

葵は半分だけ目を開けて、彼をぼんやりと見つめる。

視界いっぱいにある彼の優しい顔に、ふと名前を呼んでしまう。

 

「……蔵馬」

 

夢うつつの声は、甘い誘惑を含んでいた。

ふわっと微笑むと、そのまま眠りに落ちていく。

 

「…………。」

 

気が緩みそうになった。

これは、理性の試練だろうか。しかも今までで最上級の。

 

無防備な寝顔、ほんのりと開いた口唇、そして微かに香る甘い匂い。

葵の全てが、この男の本能を激しく揺さぶる。

このまま腕の中に抱きしめ、熱情に身を任せたいという衝動が、音もなく押し寄せてくる。

 

(だめだ……)

 

彼はそっと息を吐いた。

この愛しい存在を、今はただ慈しみたい。

その理性と本能との狭間で、蔵馬は静かに戦いを繰り広げていた。

 

(……葵のペースに、はまってはいけない)

 

愛らしい子猫のような脳殺級の可愛さにも屈せず、彼は理性を保って彼女を立たせた。

そして優しく手を引き、洗面所に誘導した。

 

「はい、これもって」

 

「……これは?」

 

「歯ブラシ。こうやって磨くんだよ」

 

「……なんだか爽やかね」

 

彼女の眠気を少しでも和らげようとしながら、静かに、自分の心の揺れも整えていく。

その間に、蔵馬は手早くキッチンの片付けを終えた。

 

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