アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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蔵馬の告白ーその口唇に告げるー

「ああ、そうだ。君の体質を考えると、温泉も合うかもしれないよ」

 

ソファの端に座り、あくびを噛み殺す葵に向けて、ふと思いついたように蔵馬が言う。

その声に、彼女が緩やかに顔を向けた。

 

「……温泉。知識では知っているけど、行ったことはないの」

 

蔵馬は微笑むと、手にしていた旅行本を開き、彼女の隣、右側に足を組んで座る。

宣言通り、髪は下ろしていた。結んでいた束が解け、なじみ深い落ち着いた姿に戻っている。

 

隣で、興味深そうにそのページを覗き込む葵。

本の間から漂う紙の匂い、彼女の花のような香り、静かな時間が、二人の間を優しく満たしていく。

自然に、距離が近づく。

 

「人間界では、温泉旅行が人気みたいだね。魔界のとはだいぶ違う」

 

 

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ページを指しながら蔵馬は語る。

魔界の温泉は、百度を優に超える熱湯がほとんど。甲殻族や鎧族のような硬質な体の妖怪なら楽しめる特殊な湯が多い。

それに比べれば、人間界の温泉は柔らかく、癒しの気そのものだ。

 

「今回、母さんたちが行ってるのも……このあたりの温泉なんだ」

 

母の旅先の話を交えながら、地熱の気、効能、皮膚や傷、内臓の癒しなどについて、静かに説明していく。

彼女の体の維持のために。その気持ちは、言葉の端々に滲んでいた。

 

「葵は、ちょっとした傷にも気づかないことが多いから。温泉に入ると、回復も早まると思うよ」

 

「それは助かるわ」

 

「でも、湯あたりには気をつけて。君はきっと……しやすいから」

 

「湯あたりって?」

 

初めて聞く言葉に、葵は素直に反応した。

 

「気分が悪くなったり、めまいや立ちくらみが起きること。のぼせるってやつだね。長湯したり、温度が高すぎたりすると起きやすい」

 

「では、温度と時間に気をつければいいのね」

 

「……うん。君は温度の感覚が、ちょっと……大らかなところがあるから」

 

言いながら、今度は肩だけじゃなく、声も笑いを含んで漏れた。

口元を隠すこともせず、素直に笑う彼に、葵は本日二度目の突っ込みを入れた。

 

「蔵馬。顔だけじゃなく、声も笑ってるわよ?」

 

「……オレは元々、こういう顔でこういう声です」

 

冗談めかして言う彼は、心底楽しそうだった。

いつの間にか、こんなやりとりにも慣れた。蔵馬の笑いのツボは、未だによくわからないけれど、葵は彼のそんな素直な笑顔が好きだった。

 

だから詮索せず、最後には微笑んで受け止める。

この笑顔の奥に潜む、彼女へのどうしようもない想いに気づくのは、もう少し先のこと。

 

 

「温泉には、簡単な作法というか入り方があるから、調べてみるといいよ」

 

「わかったわ。この近くだと、どこかあるかしら?」

 

「山手に行けば見つけやすいよ。……今度、案内しようか?」

 

「ほんと?じゃあ、お願いしようかしら」

 

自然な言葉の交換に、葵の心がじんわりと温まる。

 

(これも……夢の続きみたい)

 

この安らぎに満ちた時間が、彼女の心に深く根を張り始めている。

現実のようで現実じゃないような今に、胸の中でありがとうと呟いた。

 

 

 

その後、蔵馬は手元の洋書を静かに読み進め、葵は町の地図を広げて何かを探していた。

やがて、ページをめくる彼女の手が止まる。

瞼が、花びらが静かに閉じるように、ゆっくりと下がりはじめる。

体も、ゆらり…とわずかに揺れた。

 

(……素直な反応だな)

 

帰宅ラッシュ時に、会社員が眠気で隣の人の肩にもたれかかりそうなのを、なんとかこらえているようだった。

 

今日は、柔らかくて隙のある彼女をたくさん見た。そして今の、ひときわ無防備なこの姿。

愛おしくて、蔵馬の胸の中心から全身に温かいものが広がる。

 

彼の視線は、葵の安らかな寝顔を優しくなぞった。

微かに開いた口唇から漏れる寝息が、夜の静寂の中に溶けていく。

 

(……このまま、時間を止めてしまえたら)

 

けれど、眠たい彼女を休ませてやりたいという慈しみもまた、彼の胸に強く灯る。

 

(これはもう、限界だな……)

 

食後1時間半。食べた直後に、寝そうになっていたのを十分引き延ばせた。

 

蔵馬は、そっと彼女の肩を引き寄せる。

軽やかな重みが、自分の鎖骨に触れる。

その一瞬で、温もりの波が、心の奥に広がっていった。

 

頭に当たる軽い衝撃に、葵はかすかに目を開いた。

 

「……蔵馬?」

 

寝入りばなの、ふわりとした声。

いつもより高く、隙のある音に、蔵馬は内心で小さく笑った。

 

「眠いだろ。こうしてていいよ」

 

葵がゆっくりと彼を見上げて、小さく瞬きをした。

夜の灯りを受けて、象牙色に輝く花髪が、彼の紺色のシャツの上で動き、柔らかな摩擦音を立てる。

その滑らかな髪の束が、心地よく彼を包み込むようだった。

 

わずかに開いた目と出会った時、彼の心臓は一瞬跳ねた。

 

「本……読みにくくない?」

 

「……大丈夫だよ」

 

片手で本を持ち替えながら、蔵馬は優しく微笑む。

その仕草に安心したのか、葵は彼の胸元に身を預けた。

 

「……お言葉に、甘えるわ」

 

 

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その声とともに、彼女の瞳がゆっくりと閉じていく。

蔵馬の左手が、肩から腰へ降りて行った。そして彼女の体を軽く引き寄せる。

 

「温かい……」

 

お互いの体温が合わさる安らぎに、葵は柔らかく微笑んだ。

小さな吐息が、蔵馬の胸をくすぐる。

 

しばらくして、彼女の膝にあった本が、重力に従ってゆっくりと滑り落ちていく。

床に落ちる前に、彼はそれを右手ですくい取った。

葵の意識の電池が、完全に切れた。

 

その姿は、あまりにも無防備で、あまりにも無垢だった。

この状況、何をされてもおかしくない。男としては、何をしても許されるかもしれないような。

 

彼女は絶対的な信頼のもと、自分に全てをゆだねて寝ている。

それが嬉しくて、そして切ない。

 

(……本当に、オレは惚れ込んでるんだな)

 

本を手にしたまま、彼女を胸に抱き、温もりを感じる自分。

そしてその様子を冷静に俯瞰する、もう一人の自分。

蔵馬の中に、いくつもの彼がいた。

 

彼女の体の重みが心地よくて、伝わる温もりが優しくて、この上ない多幸感に心と体が細かく振動する。

強大な妖狐として、そして南野秀一として、幾多の感情を経験してきたはずの自分が、これほど純粋に、ただ一人の存在によって満たされるのは初めてだった。

 

この時間が尊くて、1時間ほど蔵馬はこの感覚を堪能した。

静かな夜がゆっくりと更けていく。

 

 

その状況が一変した。

葵の体が、スローモーションのように蔵馬の膝へと滑り落ちていく。

重力に任せて、鎖骨にもたれかかっていた彼女の頭は、徐々に彼の胸の方へ移る。

程なくして、膝の上に落ちていった。

 

静かな室内。

柔らかな服の擦れる音。そして肌と布地が擦れるかすかな感触が、じわじわと蔵馬の五感をくすぐる。

甘く、焦れるような刺激。

それでも彼は、膝へと崩れ落ちる直前の葵を、左手で静かに、優しく支えた。

いつものように、決して忘れることなく。

 

「……。」

 

蔵馬は小さく息を吐く。

気持ちよさそうに眠る葵の寝顔を、膝の上から見下ろした。

 

 

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その瞳は、湖面のように深く、静か。

だがその水面の底には、微かに熱が揺らめいている。

沈黙のうちに、少しずつ、音もなく燃え広がっていく炎。

 

たぎるような情熱が喉元までせり上がるのを、彼はゆっくりと、深く息を吐き出すことで、理性の水面下へ沈めようと努めた。

 

(……なるほど、これはなかなか…)

 

甘い拷問のようだった。

もう、活字を追っている余裕は無くなっていた。彼は本をテーブルの上に置いた。

 

自分の中で芽を出した欲求を紛らわすように、彼女の頬へ指を伸ばし、優しく触れる。

軽く、ぺしぺしと。

反応はない。

眠気の海に完全に沈んでいるように、健やかな寝息が静かな室内に響く。

 

(…なんて、無防備なんだ……)

 

今はいいが、魔界で一体この人は、どう生きているんだろうか。

そこは、力の均衡が崩れればすぐに命を脅かされる、弱肉強食の世界だ。

警戒心を持たず、こんなにも柔らかく、他者を信じて眠っているのは、魔界でも同じなのか。

 

妖怪としてのサバイバル能力は当てにできないが、この人は、何よりも「強運」を持っているのだ。

そう信じるしかない。そして、だからこそ、彼女を守りたいと、心から思う。

 

 

頬に添えた指に、微かな熱が伝わる。

そのまま、蔵馬はゆっくりと顔を近づけた。

愛しい寝顔。揺るぎのない、静けさ。

 

(……どうして君は、こんなにもオレの心をとらえるんだ…)

 

理由なんて単純で、あってないようなもの。

当の本人は、こちらの焦がれるような想いなど露知らずなわけで。

無自覚に、心を惹きつけるほど強力だった。

抗えない程に。

 

胸の奥が熱くなる。

彼の体は、男として素直に彼女を欲している。でも、それを許すのはまだ、今じゃない。

わずかな理性が、そっと自分を戒めた。

 

(……いけないな。少し浮かれすぎている)

 

口唇を彼女に近づけ、寸前で止める。

ほんのわずか、その柔らかな輪郭を舌先でなぞり、触れる。

それさえも、甘く陶酔するように、脳髄が痺れる。

 

すると、葵が小さく身じろぎし、微かな吐息を漏らした。

蔵馬は微笑む。音を立てず、その仕草を見つめる。

 

そして、蔵馬は葵の口唇にそっと告げた。

 

 

 

『愛してる』

 

 

 

それは、誰かに聞かせるための言葉ではなく、誓いとしての密やかな告白。

その口唇に、葵の存在そのものに誓う、祈りに近いものだった。

言葉を記憶ではなく、感覚として、心と肌にそっと染み込ませる。

 

この深い愛は、言葉では伝わりきらないから。

蔵馬は、自分の胸の奥で育てた愛を、彼女の口唇に預けた。

 

長く、花びらのような口唇を抱きしめて、そっと離れる。

葵はそのまま眠り続け、幸福そうな表情を浮かべた。

その笑みに、彼女の夢の奥底に、ささやかな光が灯ったような気がして、蔵馬の胸にもまた、温かなものが満ちていく。

 

彼女が意識していないときでも、蔵馬の愛はそこにある。

眠っている時だからこそ、言葉が要らない領域で、彼女に想いを伝える。

 

 

「……。」

 

右手で頬杖をつきながら、蔵馬はしばらくその寝顔を見つめていた。

心地よく、それでいて甘美な誘惑にも似た痺れに耐える、静かな時間が流れていた。

 

 




書いてて楽しかったと同時に、蔵馬の深い想いを感じて切なかったシーンです。

彼の大人な葛藤を、彼女は知らないわけで。

私も二人を通して、愛を学び直しています。
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