朝の淡い光が、カーテン越しに部屋の空気をやわらかく染めていた。
ぬくもりに包まれながら、葵はゆっくりと瞼を開く。
頬に触れるのは、見覚えのある紺色の布地。
視界の先に広がる蔵馬の胸。静かな寝息と、規則正しく伝わってくる鼓動。
思わず息をのんだ。
自分はその上に身を預け、まるで小さな動物のように彼の上で眠っていたのだと、ようやく気づく。
(寄りかかっていたところまでしか、覚えていない……)
一晩ずっと抱えてくれていたのだろうか。
いつの間にか、二人の体にはブランケットがかけられていた。
朝の柔らかな光が、彼女の肌を優しく撫でる。
体中が、彼の体温とブランケットの暖かさに包まれて、じんわりと心地よい。
この世界に溶け込んでいくような、不思議な感覚。
目覚めたばかりの心に、静かな幸福が広がっていく。
(……こんなに、安心して眠れたのは初めて)
そっと身じろぎをしかけて、葵は動きを止めた。起き上がれば、彼を起こしてしまう、と。
見上げると、すぐそこに、静かに眠る蔵馬の顔があった。
長い睫毛が影を落とし、凛とした眉が、眠りの中でも何かを守っているかのように揺るぎなく在る。
包むように、葵を抱きしめる腕。静かに心をくすぐる涼やかな匂いが、広がる。
その胸元に触れる自分の手のひらから、彼の命の音が、確かに伝わってくる。
(温かい…。ありがとう)
その瞬間、蔵馬の睫毛がかすかに震えた。
目が、ゆっくりと開く。
朝の光を宿した深い瞳が、まっすぐに葵を映した。
「ん……」
少し上体を起こすと、蔵馬はふっと目を細めた。
「……おはよう、葵」
微笑む彼の顔は、いつもより少し柔らかい。
「おはよう。ずっと、こうしてくれてたの?」
「……うん」
寝起きの蔵馬の声は、少し高くてかすれていて、どこか少年のような響きを帯びていた。
その柔らかさに、葵の胸の中心が温かく音を立てた。
きっと、合わさる肌を通して、目の前の人に伝わっている。
それでもいいと思えた。
「重くなかった?」
「……ちょうどいいよ」
その言葉の裏に潜む本音。
『むしろ、もっと重くてもいい』
そこまでは、言葉にしなかった。それは物質的な重さではなく、精神的な重さ。
寝起きに愛すべき人が自分を見ているのは、なかなかいいものだった。
今までの関係性を考えると、感慨深い。
蔵馬はそのまま、葵の背中に回した腕にそっと力を込めた。
抱きとめた感触は、儚いほどに柔らかい。
無防備な存在を、この胸の中に迎え入れること。
それは、単なる欲望ではなく、この男の静かな誇りで誓いだった。
「蔵馬……。私、こんなに良く寝たの初めて」
「……そうか。それなら、良かった」
(オレは、いろんな意味で眠りが浅かったのは、黙っておこう……)
昨夜の衝動をちらっと思い出すだけでも、今は少し危険だった。
夜の間じゅう、腕の中の体温と柔らかさに意識を奪われ、静かな誘惑と本能に試され続けていたことなど、彼女には言えない。
それでも、葵とともにある安らぎが、何よりの喜びだった。
「前も思ったけど、誰かと一緒に眠るのは、とてもいいものね」
「……もしかして、初めてだったの?」
「ええ。なんだか安心して眠れたわ」
数週間前に一緒に眠ったのが初めてとは、さすがの彼も思わなかった。
生まれて2年の幼さ、そして家族という概念が薄い彼女にとって、身を寄せる相手がいるという感覚は、どれほど貴重なものだろうか。
安心して眠れたという言葉に、再びこの人は、魔界でどうしているのかという想いがよみがえった。
(……もっと、君の隣にいたいと思ってしまうな)
「じゃあ……また一緒に眠ろうか」
「ええ」
蔵馬は、彼女の頬にそっと触れた。
この角度から見るのは初めてで、新鮮だった。
朝一の葵の花髪は、ほぼ柔らかい象牙色で、妖狐の自分の銀髪とは違う輝きを放っていた。温かく生命力に満ちた、この命の色を、尊く思う。
蔵馬の好きな、星を宿したような深い瞳が、目の前にある。
部屋の少ない光の中、その双眸が小さく煌めく。
見惚れていると、彼女がそっと顔を近づけた。
思いがけない行動に名前を呼ぼうとしたとき、葵の口唇が蔵馬のものと重なった。
「……っ」
軽く驚きつつも、彼の心と体は素直に熱くなった。
たった数秒でも、そのぬくもりと感触は、蔵馬の内側を深く満たした。
口唇が離れて、彼女が目を開ける。視線が交わる。
「人間界では……こうして感謝を伝える方法もあるんでしょう?」
(……参ったな…)
「そうだね。でも……誰にでもしないように」
「わかってるわ」
彼の手が葵の後頭部にかかり、手前に引き寄せた。
今度は蔵馬から、静かな口づけを贈る。
好きでたまらない、その想いを指先に、口唇に込めて。
花びらをなぞるように、口づけを繰り返す。
口唇が離れるわずかな合間に漏れる吐息さえ、愛おしく抱きしめる。
「……葵」
彼女の名を、心の奥から呼ぶ。
その響きだけで、また彼の胸の奥に熱が灯る。
この朝は、終わらせたくない。
そんな願いが、ほんの一瞬、彼の理性を揺らした。
しばらくして、満ち足りた彼は口唇を解放した。
ひとつ深く息を吸い、腕を回し直すと、自然に葵の華奢な体を引き寄せる。
その頬が、ふわりと彼の肩に吸い込まれるようにもたれかかった。
「蔵馬?」
「……オレは、もう少し…このまま寝たい」
耳元でささやく声は、寝起きの甘さを隠しきれず、思わず彼自身も小さく笑ってしまいそうになる。
静かに抱きしめる腕に、ごくわずかに力がこもる。
薄手のトレーナー越しに伝わる、彼女の柔らかな温もり。
健全な範囲の欲求だ。これくらいは、許されるだろう。
蔵馬は、夢か現かのまどろみの中に落ちていった。
意識の深い場所で、葵の温もりと微かな呼吸が、彼の全てを包み込む。
それは、まるで自身の存在が彼女の中に溶け込んでいくようだった。
世界の音も、時間の流れも、遠のいてゆく。
今はただ、葵と一つになっているという至福の中に身を委ねていた。
見た目は、互いに同じ年頃に見えても、葵はまだ生まれて間もない。
蔵馬の中身は、円熟した数千年を生きた妖狐。
齢約2年の彼女は、彼にとって赤ちゃんも同然だ。
でも彼は、発達途上ということを考慮はするが、彼女を子ども扱いしたことはなかった。
彼女の無垢さや純粋さは、確かに幼いゆえかもしれないが、その瞳の奥に宿る揺るぎない意志と、未知への探求心は、まさしく一人の独立した女性のものだ。
守るものへの慈しみと、並び立つものへの敬意。
この二つの感情が、蔵馬の胸の中で矛盾することなく自然に溶け合っていた。
それが、彼にとっての「葵」という存在の、何よりの尊さだった。
(……君の心が育つまで、どれだけでも待とう)
彼の想いは、朝の光とともに、静かに愛しい花を包んでいた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
葵が再び目を覚ますと、そこはソファの上だった。
ブランケットにくるまれ、柔らかな感触とわずかに残る温もりに包まれている。
淡く差し込む朝の光が、レースのカーテン越しに室内に広がり、やわらかく頬を照らす。
(……二度寝、したみたいね)
まどろみの余韻を残した頭のまま、ぼんやりと天井を仰ぐ。
白く滑らかな天井に朝の光が反射して、ゆらゆらと揺れている。
夢と現の境がまだ曖昧のなか、心地よい余韻が胸の奥に残る。
寝起きの瞳に、窓から射し込む光が少し眩しい。
目を細めながら、ゆっくりと顔を横に向けた。
ソファの隣のテーブルの上には、昨夜彼が読んでいた本が一冊置かれている。
(蔵馬は…どこにいったのかしら?)
ブランケットに残る彼の香り。淡い花と森の気配のような、涼やかで清らかな匂いが、そっと鼻先をくすぐる。
思わずそのまま、もう一度眠りに落ちてしまいそうになったが、かすかに眉を寄せて意識を取り直す。
(顔を洗って……昨日したように歯を磨けば頭がすっきりする)
心の中でそうつぶやくと、葵はブランケットをそっとめくり、裸足のままフローリングへと足を下ろした。
木の床は思いのほかひんやりとしていて、足裏に適度な刺激を与える。
ぼんやりとした意識が少しずつ覚醒していく。
静かな中、洗面所へ向かった。
「……あら」
そこで、ふと視線が交わった。
脱衣所の扉がわずかに開いていて、その奥で上着を脱いだ蔵馬がこちらを振り返ったところだった。
肩のラインから鎖骨にかけて、滑らかに伸びる肌が目に入る。
まるで計算されたかのようで、あまりに自然なその一瞬。
どうやら、これからシャワーを浴びるところらしい。
見慣れた落ち着いた微笑みで、彼は言った。
「……やだなぁ。一緒に入るなら、もっと早く誘ってくれたらよかったのに」
艶のある冗談めいた声が、至極楽しそうだ。
「……遠慮するわ。それよりも……わざと気配消してたでしょう?」
もちろんこんな状況で、葵は人間界の一般女子高生のようにきゃーと驚かない。
治癒の一環として、彼の上半身の素肌を見たこともある。
しかし彼女が洗面所に近づくのをわかっていて、気配を消して、声をかけずにほくそ笑んでいたであろう蔵馬には、少し驚いている。
(この人は…どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか、まるでわからないわ)
本当に、例えようのない多面的な性格をしている。
妖狐の理性、普段の温厚な人柄、時に見せる少年のような茶目っ気、時に獲物を狙う冷徹さ。
そのすべてが、彼の中で矛盾なく存在している。
存在だけでなく、性格さえも神出鬼没で掴みどころがない。
(だからこそ、目が離せないのよね…)
「はは。昔からの癖なんだ。はい、これ使って」
「……どうも」
何食わぬ顔で、畳まれたフェイスタオルを差し出す。
葵が受け取ると、彼はさりげなく脱衣所の奥へと姿を消した。
ほどなくして、浴室からシャワーの音が静かに響いてきた。水音は涼やかで、部屋の空気をさらりと洗い流していくようだった。
葵は静かに、洗面台の前に立つ。
歯ブラシを手に取り、目覚めたばかりの心でそっと歯を磨き始めた。
もう目はとっくに覚めていた。
今回のシーンも書いてて、面白かった。
蔵馬の大人のいたずら心は、彼らしいお茶目な側面が信頼できる相手にだけ出現するイメージがあって。
原作の飛影とのやりとりを見て、そう感じております。
今後も、葵への愛情表現の中で、蔵馬のいたずら心を書いていくのが楽しみです。