そのとき。
突然電話がなった。
その無機質な電子音は、この穏やかな時間を終わらせる異質な存在のようだった。
数回コールがなっても蔵馬は動こうとしない。
もう少し、このままこの人を腕の中に閉じ込めていたい。
そんな彼のささやかな抵抗だった。
(……まだ、手放したくない)
けれど、葵がそっと体を起こし、彼を見上げた。
「蔵っ…」
蔵馬は迷わず、言葉と共に口唇を奪った。
短く、甘く。まるで別れ際に花弁をそっと摘むように。
口唇が離れて、彼はふっと笑う。
その笑みは、彼の深い満足と、別れを惜しむ微かな名残惜しさが混じり合ったものだった。
少し驚いている葵を、軽やかな身のこなしでソファへとそっと降ろす。
そして、ようやく電話の方へと歩き出したのだった。
「……あと1時間ほどで帰ってくるそうだ」
何事もなかったように、蔵馬は受話器を置いて彼女を見た。
その視線には、まだ冷めやらぬ熱がわずかに残っていた。
夢の終わりのような余韻。
もうそろそろ、お互いの日常に戻る時間だった。
「蔵馬、この服は洗って返すわ」
普段の服装に着替えた葵が、たたんだベージュのトレーナーとジーンズをそっと膝に乗せたとき、蔵馬はゆるやかに微笑んだ。
「持ってていいよ。今度また来るときに、着てきて」
彼の言葉は、無理のない自然な響きだった。まるで最初から彼女のものだったかのように。
「あなたに頂いてばかりだけど、大丈夫かしら?頂きすぎは申し訳なくて」
「オレがしたくてしてるから、素直に受け取ってくれたらいいよ」
蔵馬は葵の視線をそっと受け止めた。声にわずかな温度を含ませる。
「それに、お返しなんて考えなくていいから」
彼女の胸の内にある「受け取ることへの遠慮」を察して、その一歩先にある言葉を届ける。
そんな彼らしい返し方だった。
「その服、どうだった?」
「やわらかくて、動きやすくて。……最初に着たときは、自分に馴染んでいないようで落ち着かなかったけれど、今は好きよ」
「良かった。君の雰囲気に合うと思ったんだ」
蔵馬の眼差しは、葵の顔から手元の服へと滑っていく。
自分が選んだものが、彼女の一部になったという喜びが、胸の奥に静かに積もる。
「蔵馬は、元々何かを贈るのが好きな方なの?」
ふとした問いに、彼は目を伏せて小さく笑った。
「そうでもない。……ただ、以前君に言われた言葉が、良い意味で響いているのかもしれないな」
「私、何か言ったかしら?」
あれは数か月前。
葵の知らないところで、暗黒鏡を使って母親を助けるために命をかけた。そのことへの謝罪と、今までの感謝として、昔に蓄えた財を彼女に渡そうとした。
しかし、彼女はその意図を見抜き、受け取らなかった。
そのあと再会した折に、こう告げた。
「今後はこういう贈り物の仕方はなし」
それは一方的に贈るのではない、間接的に渡さない、換金性物品を贈らないなど、多様な意味が込められていると蔵馬は受け取った。
確かに、あの行動はらしくなかった。
「…そんなこともあったわね。随分と昔のことのよう」
「オレは葵に、大事なことを教えてもらってるよ」
「教えているつもりはないのだけど。もしそうなら、私たちお互い様ね」
「うん。それにね、葵にはわからないかもしれないけど……オレは、君からたくさんもらってるんだ。見えない形で」
葵の反応ひとつひとつ。
無垢な驚き、考え込む横顔、ふとした微笑み、柔らかな花髪、そして安息の酔芙蓉の香り。
それらがどれほど蔵馬の内側を満たしているか、当の本人は気づいていないだろう。
「だから、贈りたいと思う。自然と、ね」
その言葉に、葵は小さく頷き、目を伏せた。
「……ありがとう」
蔵馬はその表情を静かに見つめた。
心の中にある温かな満足感。与えることも、受け取ることも、どちらも自然で心地よい関係。
しばし沈黙が流れ、レースのカーテン越しにやわらかな風が二人の間を通り抜けた。
その穏やかな間合いの中、ふと思い出したように葵が顔を上げる。
「そういえば、蔵馬はどうして旅行に行かなかったの?」
帰り際の何気ない問い。
蔵馬は軽く身を乗り出し、彼女との距離をわずかに詰めた。
いたずらを含んだ、けれど誠実な光をたたえた目で。
「オレは……大切な用があったんです」
「……このために?」
含みのある言い方に、葵は少し目を丸くした。
柔らかく笑う蔵馬の表情は、南野秀一としての青年らしい無邪気さと、妖狐蔵馬としての深い思慮が入り混じっていた。
「たまには、こういうのもいいだろう?」
今後母が再婚し、新たな生活が始まろうとしている。
昨日今日のような静かで親密な時間は、そう多くは望めない。
だからこそ、彼は迷わなかった。今ここで、葵とのこの時間を選ぶことに。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
根無し草のような花は、蔵馬と言う大地に根ざした。
葵は花の妖怪でありながら、定まった場所に縛られない存在だった。
魔界、人間界、霊界と、時と場所を選ばずに行き来する彼女の姿は、風に舞う花びら、あるいは「根無し草」のよう。
どこにも深く根を下ろさず、流れるままに世界を渡り歩いてきた日々は、彼女にとっての「生」の形そのものだった。
その自由さの裏には、どこか漠然とした不安と、誰とも深く関わることのない微かな孤独が常に寄り添っていた。
しかし、そのあり方は大きく変わった。
蔵馬との出逢い、そして彼との関係が深まるにつれて、葵は「蔵馬という大地」に、ゆっくりと、確かに根を張っていった。
彼の深い理解と愛情、そして彼女の存在を丸ごと肯定する包容力は、葵が初めて安心して身を預けられる場所となった。
彼という大地から、人間としての感情や学びという豊かな養分を吸収し、彼女は「生きていると感じる」ほどの深い充実を得ていく。
それは、これまで見慣れていたはずの世界に、突然鮮やかな色がつき始めたような感覚だった。
五感がより研ぎ澄まされ、風の匂い、光の暖かさ、蔵馬の優しい声、その全てが以前にも増して鮮烈に心に響く。
自分の存在が、確かな意味と居場所を持った喜びが、体の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
特定の場所に固執せずとも、彼女の精神が深い安定と成長を見出した証拠だった。
根無し草が大地に根ざすように、葵は蔵馬という存在によって、心の拠り所を得て、その生命をさらに豊かに花開かせていくだろう。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
数週間後。
「あなたに言われてから、人間界ではなるべくご飯を食べるようにしているの」
「どこか行きつけでも見つけた?」
蔵馬は穏やかな声で問い返す。葵が食事に意識を向け始めたことが、素直に嬉しかった。
「とても親切なご夫婦がやっている食堂に、お世話になってるの」
「そうか。いいお店を見つけたんだね」
彼女のこうした変化もまた、成長の一端。蔵馬の胸に、静かな満足感が灯る。
葵によれば、夫婦で経営している町の食堂のようだった。
場所は、蔵馬の家からは二駅先。葵の要望に合わせてご飯多めに、おかず少な目のカスタマイズをしてくれるそうだ。
「へえ。何食べたの?」
「この前、閉店間際に行ったらハムカツをサービスしてもらったわ」
「今度、オレも行ってみたいな」
「ええ。案内するわ」
その時、蔵馬はまだ知らなかった。葵の行きつけの町食堂は、彼の友人の幼馴染の両親が経営する雪村食堂だった。
この事実を知った時、彼はどんな顔をするだろうか。
きっと、驚くと同時に、深い安堵と喜びが込み上げるに違いない。それはもう少し先の話。
「あのお嬢ちゃん、いつもご飯大盛りで、おかずはちょっとなんだよな」
食堂夫婦が微笑ましく見守る中、南野家以外に安心して食事をとれる場所を見つけた葵。
実は、彼女のことは、幽助たちの皿屋敷中学で噂になっていた。
「螢子、オメーのうちの常連で、ちょっと変わった注文の仕方する可愛いねーちゃんがいるって本当か?いつ行ったら会えるんだ?」
幽助は幼馴染に、雪村食堂に出没する噂の女子生徒についてたずねた。
「うちの母さんが、神出鬼没で決まった時間に来ることはないって言ってたわよ」
「……なんか妖怪みてぇだな」
知らずに核心を突く幽助の言葉に、気づくものはいなかった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
おまけ♢
葵が南野家に宿泊した翌週の高校にて。
「なぁ、南野。先週末に女の子と出かけていたって噂になってるけど、実際のところ、どうなんだ?」
「……へぇ、そうなんだ。人違いじゃないかな」
「でも見たって言ってる子いるみたいだぜ?」
「噂は尾ひれがつくものさ。他人の空似だよ」
生物部の同級生の問いに、蔵馬はいつも通りの微笑みでかわしていた。
ほんの少しだけ、嬉しそうに。
その微笑みの奥には、誰にも知られることなく、葵と過ごした密やかな時間への充足感。
そして彼女が人間界の日常に、確かな足跡を残し始めていることへの、静かな喜びが潜んでいた。
これで8章終了です。この後、短編が3話続きます。
短編3つ目の「葵とぼたんの霊界探訪記」は、少し長く前編後編となります。そこで、この短編更新期間のみ、更新頻度を増やします。
7/19㈯「その隠し事を君だけが見つけるー境界線にたつ蔵馬ー」、
7/20㈰「この愛は共鳴ー無垢な葵と理性の蔵馬ー」、
7/21㈪「葵とぼたんの霊界探訪記」前編、
7/23㈬「葵とぼたんの霊界探訪記」後編 を更新。
7/26㈯本編9章スタートとなります。この日より、通常更新頻度に戻ります。
詳しくは活動報告にて。
ぜひ短編もお楽しみ頂ければ嬉しいです。
短編URL:https://syosetu.org/novel/378019/