蔵馬と葵の愛の成長がより感じられると思います。
お楽しみください。
蔵馬という名前
5月中旬。午後のやわらかな陽射しが、並木道の新緑を優しく照らしていた。
木々の葉がさらさらと小さく揺れ、淡い翡翠色の光が空気の層を染める。
その穏やかな風景のなか、帰宅途中の蔵馬はふと立ち止まった。
前方、数百メートルほど先の木の上に、柔らかな気配を感じ取る。
葵だった。
淡く輝く新緑の枝に軽く腰を下ろし、膝に小さな布袋をのせている。
桃色、象牙色が溶け合うその髪が、木漏れ日に照らされて、ふわりと光を帯びていた。
彼女は袋の中から何かを取り出し、指先でつまんで口元へ運んでいる。
その自然な仕草を見たとき、蔵馬の口元に自然と微笑みが浮かんだ。
胸の奥が静かに、温かくなる。
(……人間界に、馴染もうとしてくれているんだな)
食事をしなくても生きていけるはずの彼女が、自分の言葉を受け止め、こうして小さな習慣を身につけようとしている。その心が、嬉しかった。
彼女は、出逢ったときから変わらない。
迷いも疑いも知らず、子どものようにまっすぐな瞳で、自分を信じてくれる。
曇りの一切ない存在だった。
蔵馬は足音を忍ばせながら静かに歩を進め、やがてその木の下で立ち止まる。
そよ風が葉擦れの音を立て、陽射しがきらきらと降り注ぐ中、彼はそっと声をかけた。
「……何を食べてるんですか?」
下から届いた艶のある声に、葵は口元に運んでいた手を止めた。
「乾燥いちじくよ」
枝からふわりと飛び降りた彼女は、足元の草をやさしく踏みしめながら、自然な歩幅で蔵馬のもとへ近づいてくる。
その歩みも、呼吸のように静かだった。
二人が顔を合わせるのは、あの日、南野家で一晩を共にして以来だった。
葵はいつもと変わらない様子。
柔らかい笑顔、澄んだ潤いのある声で話す。
花色の髪は、木漏れ日に透けてつややかに揺れた。
ほんの二週間ぶりの再会。それだけのはずなのに、蔵馬には、何ヶ月も会っていないように感じた。
妖怪として数千年、孤高に生きてきた時間がそう思わせるのかもしれない。
葵と過ごす時間は、彼にとってあまりにも深く、尊くて、少し会わないだけで遠い昔のように感じてしまう。
特別な用事がなくても、会いに来るようになった。その変化が、彼女の心の距離の変化を物語っている。
自然と蔵馬の声も、より穏やかになる。
「それは、人間界のものだね」
「ええ。あなたに言われて、保存食になるものを、少しずつ食べるようにしているの。確かに体の調子が安定するわ」
自分もどうかと尋ねるような彼女の目に、蔵馬はまた今度と微笑みで返した。
人気のない並木道。この場所なら、誰にも気づかれずに、今すぐそっと抱きしめてしまえる。
そんな衝動が胸の奥に芽生えたが、蔵馬は何もせず、その想いを静かにしまった。
そのとき、また彼女の瞳が好奇心できらきらと輝いていることに気づいた。
(今度は、何を言われるんだろうな……)
きっと彼の知識や論理では捉えきれない言葉が、また飛び出してくる。
自身がまだ知らない感情を引き出されることへの期待と、その変化への戸惑いが、蔵馬の中に生まれ、内面を揺らしている。
「あなたの名前、いい名前よね」
唐突なその言葉に、彼は小さく目を瞬いた。
「……葵。またいきなりだね」
待っていた言葉は、自分の知識と経験の中のデータをやはり超えた。
まるで、どこか別の世界から降ってきたような言葉だった。
予想の斜め上をいく、彼女らしいUnkownな問いかけに、蔵馬はふっと笑った。
問い直す必要などなかった。
二つあるうちのどちらの名前を指しているか、すぐにわかったから。
「蔵馬っていう音。響きが心地よいわ」
「………そんなこと、初めて言われたよ」
魔界での蔵馬の名前は、伝説の極悪盗賊で通っていた。
妖狐蔵馬と聞けば、残忍な心と刃のような鋭い妖気をもち、恐ろしく冷たい目をした銀髪の男と畏怖の念を抱かれる。
生まれて間もない彼女が、その伝説を知っているのかはわからない。
しかし、少なくとも蔵馬には、その言葉が彼女の澄んだ瞳と、一切の迷いのない声から発せられた瞬間に、単なる思い付きや世辞ではなく、心から出たものだと感じた。
「どうして、そう思うのか……、聞かせてくれないか?」
すると彼女は、そっと微笑んだ。
「あなたの名前には、光と闇、生と死、破壊と再生。そのように陰陽対極にあるものが、美しく調和しているように感じるの。私の主観だから根拠はないけれど。きっと種から植物を芽吹かせるあなたの能力も、この『蔵馬』という名前から生まれていると思うわ」
その言葉を、蔵馬は胸の深いところへ静かに沈めた。
彼女の無垢な視点が、また自分の内側の何かを震わせていく。
(……それは、的を射ているのかもしれないな)
相変わらず、目を見張るような言葉だった。ただの感想にしては、核心を突いている。
彼女が語ったその一言は、蔵馬自身すら意識していなかった名前の本質を、古くから知っていたかのように告げた。
植物を成長させ、それを武器に相手を葬る。その能力は、破壊と再生、光と影の対極を内包していた。
それらを結ぶ名の力にまで、彼女は無意識に触れて、自分の名前までも、優しく包み込んでいた。
自身の存在の根幹を、ここまで的確に、そして肯定的に捉えられたことに、蔵馬の心は深く揺さぶられた。
「これほどふさわしい名前はない」
そう言われているようだった。
彼女の言葉は、こちらが見せていないものすら、まるで見えているかのように届いてくる。
それは時に戸惑いであり、そして……甘い諦めでもある。
(君は、名も、生い立ちも、孤独も、問いすら持たないまま……ただ、受け入れるんだな)
蔵馬は、ひとつ息をついた。
「……君の感性には、本当に驚かされるよ」
思わず、素直な本音がこぼれる。
「もしかして、納得したのかしら?」
「……うん」
根拠がなくても、妙に説得力がある。
そして、その花のような口から、潤いのある声で自分の名前が呼ばれると、心は素直に反応する。
「葵の名前は、誰がつけたんだ?」
「生まれて最初に会った人」
即座に返す答え。
その言い方に、蔵馬は目を細め、彼女の顔へとそっと身を寄せた。
風が頬をかすめ、葉がそよぐ音が二人の間に落ちる。
「……それは本当?」
問いかけに、葵はふっと笑った。
「冗談よ。生まれた時に、私は『葵』だと思ったから、その名前を名乗っているの」
「なるほど。君らしいな」
(周りに親のような存在がいなかったというのは、本当なんだな……)
妖怪もいないような魔界の深い森で、一人生まれ落ちたと葵は言っていた。
生き物として、本来備わっているサバイバル能力が皆無に等しい気質と体質。
(この人は……どうやって、ここまで生き延びたんだろう)
想像しても謎が深まるばかりだ。
蔵馬の思考は、彼女の過去に手を伸ばす。
「森の中で生まれたと言っていたけど、その後大変だったんじゃないか?」
「…大変だったわ。とりあえず身一つの状態で集落を目指して、そこで親切な妖怪にお世話になって。生きるための基本的なことを教えてもらったの。」
「……生まれたときからこの姿だったって言ってたね」
「ええ。だから、生まれたてだって理解してもらうのに、すごく時間がかかったの。……当たり前よね、こう見えて赤ちゃんですって言われても、信じてもらえないわよね」
「少し前の君を思い出すと、その……。よく生きてたなって」
蔵馬は言いかけた言葉の続きを飲み込む。
彼女は小さく肩をすくめて、どこか他人事のように微笑んだ。
「私もそう思う」
その何気ない一言に、彼女らしさが滲む。
どこか地に足のつかない、不思議な軽さ。
なのに、その命は確かに、こうして目の前に生きている。
蔵馬は改めて思う。
生きて巡り合えたことは、奇跡の積み重ねの延長上にあるのだと。
嬉しさと同時に、そこはかとなく切ない気持ちが胸を占める。
風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
新緑の香りが、淡く残る。
「今さらだけど、葵の名前は……漢字?」
静かな間のあと、葵はこくりと頷いた。
「ええ」
「草冠の一字の花の名前?」
「そうよ」
葵というのは花の名前。
確かに、太陽を仰ぎ、まっすぐ伸びる様が彼女そのものだった。
「どうして、わかったの?」
葵が首をかしげると、蔵馬は目を細め、穏やかに微笑んだ。
「花から生まれたって言ってたから。……きっと、この字だと思ってたんだ」
蔵馬の頭には、あの花の姿がはっきり浮かんでいた。
酔芙蓉。
白から薄紅へとその色を変える、アオイ科フヨウ属の中国産の低木だ。
咲いた瞬間から変化し続け、そして、静かに閉じる。
その儚さも、強さも、まるで彼女を映しているようだった。
植物を操る蔵馬には、容易に予想ができる。
「あなたの名前は、草冠の蔵に馬という字?」
彼女はふわりと指を空に伸ばし、見えない文字をなぞる。
その柔らかい仕草に、蔵馬は静かに頷いた。
「うん。よくわかったね」
「颯爽として、しなやかで……あなたらしいわ」
その言葉に、蔵馬は一瞬まばたきをした。
音のない間に、風が草を撫でる。
(蔵馬という名は、漢字も音も含めて、あなたに似合っているわ)
そう心の中で思いながら、葵は胸が温かくなっていった。
今日彼に会えたことが、素直に嬉しい。
そして自分の何気なく思ったことを、優しく受け止めてくれるこの人の在り方が、胸の奥に、ほんのりとした温もりを灯す。
「葵には……オレがそう見えてるんだね」
「ええ」
褒めてるのかと尋ねると、きっと彼女は「事実」と言うだろう。
お互い世辞は言わない。ただ素直に感じたことを伝えあう。
そして葵には謙遜の美徳はなく、相手に気に入られようとする言動もない。
その子供のように純粋な精神と言動が、蔵馬の琴線に触れる。
抑えてもなお募る衝動、今すぐこの華奢な体を抱きしめたくなる。
けれど、その代わりに…。
蔵馬はその深い瞳で葵を抱きしめた。
気づいたのだろうか。
葵は応えるように、ふわっと花笑む表情を贈った。
「これから用事があるから、また寄るわ」
「いつでもどうぞ」
名残惜しい気持ちが残る中、二人はそれぞれの路に向かって行った。
名前の由来は、いずれ出したいと思っていた今回の内容です。
原作の冨樫先生の発想は秀逸で、飛影などの妖怪の名前もすごいなぁと思っています。