(気づけば、もう一年か……)
蔵馬は机の上の書物から視線を外し、東の窓へと目を向けた。
夜の気配にわずかに混ざる、穏やかな妖気をとらえていた。
「蔵馬」
時刻は22時。
窓枠に手をかけ、軽やかに身を翻した葵が、部屋の中へ降り立つ。
淡藤色の上着に、ゆったりとした白地のパンツ。
魔界の住人らしい、落ち着いた出で立ちだ。
「遅くなってしまったかしら?」
「いや。ちょうど区切りのいいところだった」
蔵馬は立ち上がり、彼女が肩から下ろした麻袋を受け取る。
ずしりとした重み。中で乾いた葉が擦れ合う音がした。
「今回は、たくさん頼んでしまって……すまない」
一年前より、かなり伸びた蔵馬の髪は背中まであり、短髪よりも彼になじんでいた。
「大丈夫よ。中身を確認してね」
麻袋の口を解くと、乾燥させた根、結晶化した樹液、布で包まれた種子などの資源が数十種類――
見慣れたものの中に、依頼した記憶にないものが混じっている。
蔵馬は、そのひとつを手に取った。
「……葵、これは?」
「最近、魔界で見つかった新種なの。薬効が高いと言われている植物を、いくつか持ってきたわ」
彼の指先が、わずかに動く。
数度呼吸を置いて、視線を落としたまま言った。
「……そうか。気を遣わせてしまったようだな」
「私の意志でやっていることだから。気にしないで受け取って」
淡々と発した声の中に、さりげない優しさの温度が含まれていた。
蔵馬は小さく息を吐いた。
それはため息というほど重くもなく、かといって軽く流せるものでもなかった。
依頼品の傾向から、何かしらの治療に用いるものだと、彼女は感じ取っていた。
対象が誰なのかまでは、聞いていない。
けれど――家の中に、彼以外の気配がないことが、一つの答えのように思えた。
彼から直接聞いたことはない。
それでも、わかってしまうことはある。
――言わない優しさ。
――聞かない優しさ。
蔵馬は、それを好ましく思っていた。
物分かりの良い彼女らしい。
これから自分が踏み込もうとしている領域は、彼女には関係がない。
知れば、きっと止めるだろう。
止めるほどの誠実さを、彼女は持っている。
だから――知らせる必要はない。
蔵馬は引き出しから、小さな包みを取り出した。
薄い紙に挟まれた、カスミソウの押し花。
そして、丁寧に折られた一枚の地図。
「葵、これを」
彼女は受け取り、花と地図を交互に見る。
「頼みごとが続いて悪いんだが……今度は、この洞窟に行ってきてもらいたい」
指で示した場所は、魔界の外れ。妖怪のあまり寄りつかない地形だ。
「鍵はこの花だ。オレの妖気を通してある。行けば、開くだろう」
「ここに行って、何をすればいいの?」
一瞬、蔵馬は視線を逸らした。
窓の外、朧げな月の光が目に入る。
「……行けばわかるさ」
葵は彼の顔を見つめる。
何かを思いながらも、詮索しない目で。
「わかったわ。期限はいつまで?」
「……2か月後に、戻ってきてくれ」
自分から発せられた言葉に、蔵馬自身が意識を向ける。
期限ではなく、彼の所にもどる期日を指定したことに。
葵の勘が、静かに働く。
彼の瞳の奥に、言葉にならない色が混ざっているのを感じ取る。
しかし、彼女はそれ以上何も言わなかった。
代わりに、小さく頷いた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
その1か月後。
夜の路地を、蔵馬はひとり歩いていた。
飛影の剣から受けた傷を抑えながら、呼吸を乱さぬよう意識する。
急所は外れている。致命傷ではない。
応急処置は済ませた。魔界の薬草が、血と妖気の流れを抑えていた。
だが、鈍い痛みが、歩調に合わせて脈打つ。
――飛影とは、有名な魔界の盗賊の名前。先日、彼と共に霊界から三大秘宝を盗み出した。
蔵馬は、秘宝の一つ暗黒鏡を使って、自分の命と引き換えに病気の母親を救おうとした。
霊界探偵の幽助の機転により、蔵馬もその母親も助かった。
その借りをかえすため、彼は幽助と飛影が戦っているところに割って入り、腹部を貫かれた。
冷たく澄んだ冬の風が、頬を撫でる。月は雲に隠れ、街は静まり返っている。
その静けさが、なぜか――あの夜と重なった。
(……無事に、見つけただろうか…)
思考が、自然と彼女へ向かう。
彼女に渡したのは、かつて蓄えた財を隠していた場所の鍵だった。
当面困らないだけの金品。
今までの礼と、サヨナラも言わずに、暗黒鏡を使い命を賭けようとしたことへの、彼なりの謝罪。
胸の奥に残る、説明のつかない余白を抱えたまま。
蔵馬は足を止め、夜空を見上げる。
あの日、もう二度と会うことはないと、その小さな背中を見送った。
冷徹に選んだ別れだった。
――結果だけを見れば、生き残り、こうして再び巡り合う可能性が生まれた。
運命という言葉を好んでは使わない。
だが、説明のつかない巡り合わせがあることも、否定はできなかった。
(……戻ってきたら、きちんと謝らないとな)
一年前。
彼女の記憶を消そうとしたあの瞬間、葵が見せた表情が、ふと脳裏をよぎる。
あの時の顔が忘れられない。
――今度は、拳ひとつで済まないかもしれない。
そんなことを考えながら、蔵馬は無意識に口元を緩めていた。
冬の乾いた風が、路地を抜けていく。
凛とした空気に重なって、微かに混じる香りがあった。
花だ。それも、ただの花ではない。
蔵馬の思考が止まる。
胸の奥で、鼓動がひとつ強く跳ねた。傷の痛みなど、一瞬で遠のく。
次の瞬間、理性が即座に否定する。
(……いや、そんなはずはない)
この香りを知っている。だが、彼女は今、魔界にいるはずだ。
時間も、距離も、合わない。
今しがた思い出していた相手の匂いが、記憶としてよみがえっただけだ。
そう結論づけようとした矢先、嗅覚が、聴覚が、皮膚感覚が――一斉に同じ方向を指した。
「蔵馬」
澄んだ声が、まっすぐと彼に向かって響く。
聞き間違える余地はなかった。
ゆっくりと振り返ると、数十メートル先に、葵が立っていた。
月は雲に隠れ、彼女の表情は読み取れない。
それでも、こちらを捉える深い視線だけは、はっきりとわかる。
「……葵」
名を呼ぶと、彼女は小さく頷いた。
静かに歩み寄り、乾いた靴音が闇にこだまする。
白い息が、お互いの口から生まれてはすぐに消えていった。
近づくにつれ、蔵馬は彼女の視線が、自分の腹部に落ちていることに気づく。
血の匂い。妖気の乱れ。
葵は驚いた様子を見せず、ほんの一拍、息を吐いた。
「話は後で。ここで良ければ手当てするわ」
柔らかいが、指示というより当然のような口調。
「……ああ」
近くの林の中へ入り、蔵馬は腰を下ろす。
制服の上着を脱ぎ、傷を露わにすると冷気が肌を刺した。
葵は丁寧に魔界のヨモギをすり潰す。
指先から立ちのぼる、清涼な香り。そこに、彼女特有の、ほのかな甘さが重なる。
傷口に当てられた瞬間、蔵馬は呼吸を整えた。
細胞が活性して、体が脈打つように熱が巡っていく。
「少し気を流すわ。完全じゃないけど……楽になるはず」
「十分だ」
彼女の所作を、蔵馬は黙って見ていた。
(……治癒ができるようになったのか)
客観的に評価する思考と、それとは別の、説明のつかない安堵が、並んで存在している。
命を懸けて母を救おうとしたこと。
何も告げずに姿を消したこと。
それは、かつて彼女の記憶を消そうとした行為と、同義だった。
合理的で、独断的で、――優しくはなかった。
治療を続ける葵は、何も聞かない。しかし、何も知らないわけでもない。
その距離感が、人間として生きてきた良心のようなものを刺激した。
しばらく、お互い無言で、息遣いだけで会話が進む。
彼女の手を通して伝わる温度に、蔵馬は口を開いた。
「葵。……何も伝えなくて、すまなかった」
間近で、彼女が顔を上げた。
その深い双眸には、どこかほっとした色と、少しの憂いが入り混じっていた。
(不安にさせてしまったな……)
蔵馬はことの詳細を、話し始めた。そこに、弁解や脚色は一切なかった。
葵はひと言も挟まず、ただ耳を傾けていた。
「なんとなく……気づいていたわ。でも、生きてまた会えるって思ってた。だから……早く戻ってきたの」
蔵馬は、視線を伏せたまま息を吐いた。
(……そうか)
言葉にしない感謝が、胸の奥に生まれる。
妖気が巡り、痛みは次第に引いていく。
代わりに、触れられていた場所の温もりだけが、静かに残った。
冬の夜。
肌を晒しているはずなのに、不思議と寒さは感じない。
顔を上げると、雲が切れ、月が静かに姿を現していた。
風は止み、世界が一瞬、息を潜めたように感じられた。
蔵馬はその光を見つめながら、まだ名づける必要のない何かを、胸の奥に保留した。
ふっと息を吐いた。
「……調子狂うな」
突然の呟きに、葵が顔を上げる。
「?」
目を伏せると、彼女の指先には、まだヨモギの緑が淡く残っている。
月明かりを受けて、その色がわずかに浮かんで見えた。
「もっと……怒られるかと思っていたよ」
「命をかけて、誰かを助けようとした人に、怒らないわよ」
葵はそう言って、再び傷口に目をやる。
「それに、私があなたに怒ったの、一度だけよ」
その言葉に、蔵馬の口元がわずかに緩んだ。
一年前の光景が、意図せず脳裏をよぎる。
葵の言葉には、責めも押し付けもなかった。ただ、こちらを理解しようとする、まっすぐな温度があった。
ヨモギの青い匂いに、彼女特有の、花のようなほのかな甘さが混じる。
夜の闇が、二人の周囲だけを包み込んでいるようだった。
「これから……どうなるの?」
「オレは霊界から秘宝を盗んだ罪で、裁判を受ける。その決定に従うつもりだ」
「……そう」
一瞬の間。
枯れ葉が風に擦れる音が、遠くで鳴った。
「何か、私にできることはある?」
思いがけない言葉に、蔵馬は彼女を見た。
数十センチの距離。
お互いの深い瞳が、再会する。
「大丈夫だ。判決も……それほど悪くないだろう」
経験と計算に基づいた、現実的な見立てを伝える。
「それなら、良かったわ」
短い言葉に、胸の奥の張りつめていたものが、静かにほどけていくのを蔵馬は感じた。
「……心配してくれたのか」
葵は少しだけ考えるように視線を上げ、それから微笑む。
「少しね。あなたは、いつも計画的に物事を推し進めるけど、今回の結末は、想定外だったでしょう?」
「……そうだな」
命を投げ出す覚悟で臨んだ結果、生きて霊界裁判を受けることになるとは考えていなかった。そして今のこの状況も、予定にはなかった。
「私は、霊界がどんなところか知らないから。これから先、あなたがどうなるのか気になったの」
「……。」
蔵馬は、言葉を探さなかった。
妖怪にとって、霊界はあまり評判の良い場所ではない。
公平に裁きを下すかどうか、わからないと考えるのが、一般的だった。
彼女の本音に、彼の心はわずかに反応した。
やがて、温かい手が背中と腹部から離れる。
葵は布で手を拭うと、鞄から小さな包みを取り出した。
――カスミソウの押し花。
「……これは?」
「地図の場所には行ったけど、開けてないの」
何気ない調子で言う。
「洞窟の前で、奥に何があるのか感づいてしまって。だから、やめたの」
蔵馬は、思わず目を見開いた。
対称的に、彼女は何事もなかったように微笑み、彼の腹部にサラシを巻き始める。
布が擦れる音が、夜にやけに大きく聞こえた。
(参ったな……)
勘がいい、という言葉では足りない。
彼女は理解を飛び越えて、核心に触れてしまう。
「だから、お相子よ」
サラシを結びながら、葵はふっと微笑んだ。
「今回のことで、謝ることはないわ。それと……今後はこういう贈り物の仕方はなしよ」
「……そうだな」
蔵馬も、小さく笑った。
押し付けない優しさと、踏み込みすぎない距離感。
それが、妙に心地いい。
手当てが終わり、蔵馬は上着を身に着けた。
痛みは落ち着き、代わりに、触れられていた場所に、かすかな温もりが残っている。
「葵は……物分かりがいいな」
「そう?」
「そのくせ、オレの予想外のことをよくする」
「あら。それはお互い様でしょう?」
その返しに、蔵馬は目を細めた。
(……違いない)
それでも、彼女の場合は、理解しているからこそ、自由で縛られない。
自分とは、決定的に違う。
葵は一歩下がり、夜の闇に溶けるように姿を消した。
彼は、しばらくその場所を見つめていた。
冬の空気が、肺の奥まで澄み渡る。冷たさの中に、確かな余韻があった。
名づける必要のない何かが、胸の奥で、静かに育ち続けている。
蔵馬は歩き出した。
その何かを、まだ確認しないまま。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
おまけ♢
木竜との戦闘から一晩明けた朝。
冷え込んだ空気の中、蔵馬は制服のポケットに手を突っ込み、ゆっくり歩きながら昨夜の出来事を思い返していた。
(ホワイトデーなんて、よく知ってたな)
コートのお礼にと、渡された小さな箱を思い浮かべる。
中には、素朴なプレーンのクッキーが入っていた。
箱を開けた瞬間、ほんのりと甘い香りが広がった。
(どうやって、買ったんだろうな……)
人間界のことを、どれだけ知っているのか不思議だった。
時折見せる彼女の興味深々な様子からすると、ただの好奇心ではない気がする。
葵が図書館で人間界の何を学んでいるのか、雑多にいろんな分野に手を出しているのかもしれないと蔵馬は思った。
それも単なる表面的な学びではなく、どこか深い部分で理解しようとしているように感じる。
いつもと変わらない通学中。いつもとは違って、誰かのことを考えている自分がいた。