翌日。霊界図書館の静かな書架の間を、蔵馬は音もなく歩いていった。
棚の陰、分厚い古書を広げて一人黙々と読みふけるコエンマの姿を見つける。
「ご無沙汰しています」
「……蔵馬か。珍しいな。今日はなんの用じゃ?」
彼はその問いにすぐ答えず、穏やかながらも探るような眼差しでコエンマを見た。
「……オレが来た理由は、ご存じなのでは?」
逆に問い返す蔵馬に、コエンマはぴくっとわずかに眉を動かした。
「…葵のことじゃな」
「ええ」
蔵馬の声は低く、しかし揺るぎない。
コエンマは周囲を見回し、小さく息をつく。
「……ここでは人目につく。場所を移そう」
二人は、人の気配のない会議室へと移動した。
重い扉が音を立てて閉まると、密やかな空気が部屋を満たす。
蔵馬は壁際に立ち、無駄な前置きなしに切り出した。
「昨日、葵は妖怪3体と霊界の武装集団5人に襲撃されました。狙いは明らかに、彼女の捕獲。霊界がなぜ魔界の妖怪と共闘しているのか、その点も不可解ですが……。それ以上に、彼女の安全が気がかりだ。オレには、枉鵬の一件が尾を引いているように思えてならない」
「…お前の察しの通り、彼女を襲った武装集団は、正聖神党の者たちじゃ」
かすかに重みを帯びた声。霊界の長として、内部の腐敗を語る苦渋が滲む。
コエンマは椅子に深く座り直すと、その教団の実態を語り始めた。
霊界の中には一種の宗教が存在し、自分たちを神の使いと信じている者がいる。彼らにとって、魔界の住民はただの異種族でなく、悪魔の使いとしている。
また、彼らは人間界を浄化することが、神から与えられた使命だと考えている。
その中で、もっとも過激な集団が、武装教団正聖神党。
以前は霊界の主流派だった。
「これはまだ調査段階だが、霊界の内部に未だ隠れ信者がいる。昨日彼女を襲撃した者たちも、枉鵬もそうだろう」
「葵を狙う目的は、枉鵬が彼女を手中に収めることができなかった汚点の回収か?」
「それもあるかもしれないが、もう一つの理由の方が明確だな……」
コエンマの声が、わずかに低くなった。
蔵馬は顔色を変えずに、その続きを待つ。
「正聖神党は、毎年4月10日~5月13日の33日間を『神託の月』と定めている。その期間に、彼らが崇める神の新しい依代となる者を迎え入れるしきたりがある。神託は、その期間の前にあらかじめ降ろされるそうだ。葵が初めて、霊界で奴らに狙われたのは4月10日。まさにその始まりの日と重なる」
(彼女が魔界から人間界にきたこのタイミングで、彼らは本腰を入れ始めたということか)
蔵馬の頭脳が瞬く間に鋭く動き始める。
残る期間は、後数日。
「葵がその依代だと?」
「恐らくな。実際、彼女は命を狙われているわけではないからな。無理やりにでも己らの神の器とするつもりだろう」
「……もし、その期間内に果たせなければ?」
「来年、新たな神託が下りる。つまり、今年の依代探しは終わりとなる」
「では、残る数日を守り通せばいいということになる」
「ワシの予想が当たっていればな…」
コエンマの話を聞きながらも、蔵馬は二の手三の手を考え巡らせていた。
どうやったら葵を安全に守れるか、今すぐ魔界に戻した方がいいのではないか、それとも隠すか、罠を張るべきか、囮を立てるか、正聖神党が彼女から金輪際手を引く方法はないか、など。
(このまま何事もなく終わるとは考えにくい……奴らは、また仕掛けてくる)
彼の思考は速い。冷徹に、鋭く、最短で最善を探し出そうとする。
「……一つ、言っておく。葵にこの件を口止めしたのはワシじゃ。悪く思わんで欲しい」
「うすうす感づいていました」
静かに告げた蔵馬の声に、棘はなかった。
コエンマの立場であれば、表向きの沈黙を守るしかなかったのだろう。
正聖神党の活動は、霊界内部のほころび。
放置はできずとも、騒ぎ立てれば事態は手に負えなくなる。
加えて霊界は、今や内も外も問題の山。その狭間で、コエンマは精一杯の均衡を保っていたのだ。
(……だが、時間はない。決着は、近い)
蔵馬の目に、静かに炎が灯る。
彼はすでに、この戦いに身を投じる覚悟を固めていた。
「しかし、お前があの妖狐蔵馬だったとはな」
突然、話題が一度自分へと向けられた。
蔵馬はわずかに目を伏せ、静かに、笑みともつかぬ表情を浮かべた。
今まで霊界が把握していた蔵馬の情報は、人間界に紛れ込んだ妖怪。
その前科といえば暗黒鏡の窃盗だけ。
しかもそれすら、後に霊界探偵をサポートする慈善活動により免罪となっていた。
それが暗黒武術会で、かつての姿を現したことで、情報が塗り替えられた。
16年前、妖狐だった彼は、霊界の中でもトップクラスの危険因子として、霊界特別防衛隊により瀕死の重傷を負った。それがきっかけで、今の姿、南野秀一となっている。
「枉鵬との一件、お前との因縁もあったようじゃな」
「……ええ」
蔵馬の声が、低く繊細に流れた。
葵が枉鵬に襲われたとき、枉鵬は蔵馬があの妖狐蔵馬だと気づいていなかった。
しかし、それでも無意識に因縁を感じていたのかもしれない。
枉鵬は、元霊界特別防衛隊だった。
妖狐だった自分を追い詰めた者たちと、同じ場所に立っていた。
その事実が、蔵馬の心に、過去の冷たい刃の感触と、今、大切なものが狙われていることへの苛烈な怒りが交錯する、複雑な感情を呼び起こした。
「責任感の強いお前のことだ。自分一人で始末をつけるつもりだな」
コエンマの問いに対して、応答はなかった。
蔵馬はしばらく沈黙を守った。無言のまま、深い視線だけを返す。
その意図を、コエンマは静かに受け取った。
「彼女を護る、それだけですよ」
(……オレは、葵を……二度と、あんな目に遭わせたくない)
その声は静かだった。
しかし、彼の目は怒りでも焦りでもない。
冷たい光を内包した決意と修羅の色に染まっていた。
「次に正聖神党が彼女に手を出すなら、例えそれが霊界の者であっても、敵として遠慮しない」
そう言い残し、蔵馬はコエンマに背を向けた。そしてゆっくりと音もなく歩き出した。
会議室の扉へと向かう途中、背後からコエンマの声が投げかけられた。
「今から言うのはワシの独り言だ…。正聖神党が、我田引水な宗教上の理由を盾に、霊界の外に破壊的、非道徳的活動を行った場合、特例を除いて霊界は一切関与しないこととなっている」
蔵馬は一瞬歩みを止めた。しかし振り返らない。
ただ静かに、言葉を残す。
「……その独り言を聞いているのは、ここには誰もいませんでしたよ…」
そのまま、彼の気配はすっと消えた。
薄闇に溶けるように、跡形もなく。
本来なら、妖怪である葵と正聖神党の件は、霊界が関与しなくてもいいことになる。
そのためコエンマは、独断で秘密裏に対応していた。
蔵馬はそれをわかっていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
蔵馬が霊界を訪れた次の日。
葵はまたしても、一昨日同様、覆面の男たちの襲撃を受けていた。
彼らの動きは無駄がなく、鍛え上げられた連携で彼女を執拗に追い詰めてくる。
時に受け、時に身をかわし、時に打ち払う。
気づけば、街をはるかに離れ、荒れ果てた辺境まで逃げ込んでいた。
(ここは……どこら辺だろう?)
見覚えのない、乾いた土とひび割れた岩だらけの荒野。
頼れるものも、隠れる場所もない、無機質で切り離されたような世界だった。
軽く一時間は走り続けていて、少し喉が痛む。
呼吸が乱れ、胸が苦しい。
やがて視界に、風化した建物の残骸が現れた。
逃げ込むようにしてその中に駆け込むと、罠はすでに張られていた。
振り返ると、追っ手の二人が、出入り口を塞ぐように立ちはだかった。
「…っ…しまったっ」
そして葵が足を踏み入れた途端、建物の内部で、まるで意志を持ったかのように火の手が上がった。
燃えさしの木材が爆ぜ、炎はあっという間に壁を這い、彼女の体を取り囲んでいく。
ごうごうとうねる炎、火の粉が飛び交い、廃墟の中は一気に灼熱の地獄と化した。
視界いっぱいに広がる赤と橙。
(霊力で増強された火……!?)
葵にとって、命を奪いに来る火と対峙するのは、生まれて初めての体験だった。
炎が空気を焼いている。一息吸うだけで喉が焼けつき、咳き込みそうになる。
(なんて威力っ……!自分が燃えそうなくらいに皮膚が焼けつく…)
花から生まれたその体に火の耐性はなく、彼女の体力はどんどん削られていく。
肌がじりじりと焼かれていく。全身から汗が噴き出し、手足の感覚が鈍くなっていく。
必死に炎の中をくぐり抜ける以外に、何か方法は無いか考えていると、彼女の体に痛みと灼熱感が襲った。
「あっ……?!」
髪の毛と背中が燃えているのに気づいた。
葵は咄嗟に地面に身を投げ出し、転がりながらどうにか自分の火を鎮めた。
焦げた匂い、髪が焼けた刺激臭。背中を走る鋭い痛み。
「うっ…!?」
喉に入り込んだ煙が、むせるほど苦しい。
籠手で口元を覆い、どうにかこれ以上吸い込まないようにする。
胸が締め付けられるほど苦しい。頭がくらくらする。
(ここを……出ないとっ)
蔵馬の顔が脳裏をよぎる。
首から背中にかけて、ひりひりとした痛みが出る中、脱出方法を考える。
亜空間移動は、咄嗟の状況では行うのは難しい。
しかし一刻を争う今、荒い呼吸をしながら葵は妖気を集中させた。
その時だった。
頭上から、ゴウッ、と重たい音。
柱が崩れ、葵の方に倒れてきた。
一瞬反応が遅れて籠手で受け止めるが、崩れた柱の一部が焼けた重たい瓦礫となって、両脚を直撃した。
「ああっ!」
まるで鉄の塊が落ちてきたかのような衝撃と、皮膚に食い込む焼けるような熱。
足全体に激痛が走り、骨がきしむような感覚と共に、熱が皮膚の奥深くへと染み渡っていく。
焦げた布と皮膚の匂い。焼けつく熱が足に絡みつく。
瓦礫は重く、動かない。
もがくたびにジリジリとした痛みが足元を這う。
(これを…どけないとっ)
熱気に顔を背けながらも、葵は衝撃波を作ろうと手に妖気を集めた。
その時だった。
トンッ、と乾いた音がする。
「……っ」
後頭部に何かが打ち込まれた。
視界が反転する。目に映る赤と橙の炎がぐにゃりと歪み、周囲の音が遠のいていく。
思考が混濁し、体の感覚が薄れていく。
力が抜け、葵の体は仰向けに崩れ落ちた。
柱の影に潜んでいた男が、手刀で気絶させたのだ。
炎の熱と煙、焦げた匂い、焼ける痛みを残して、彼女の意識は完全に深く落ちた。