蔵馬視点♢
蔵馬は、秘密裏に葵の髪にヤドリギを仕込んでいた。
魔界のヤドリギは、宿主の体の一部に寄生し、危機を察知すると爆発的に妖力を発生し、数センチの芽を出す。
同時に、その気配は植え付けた彼自身にも伝わる。
言わば、警告と探知の役目を果たす植物の芽だった。
異変は、三限目の授業中に起こった。
突然、蔵馬の中を駆け抜ける強い妖気の波動、それはヤドリギが発動した証。
脳裏に赤い警鐘が鳴り響く。
(……っ、来たか)
教室のざわめきが、遠のく。
椅子を静かに引いた彼は、巧みにその場をやり過ごし、教室を後にした。
(間に合ってくれっ……)
ヤドリギが発する妖気を辿って走る。制服の裾を風がなびかせる。
足元を、怒りにも似た焦燥が押し上げてくる。
やがてたどり着いたのは、人里離れた朽ちかけた廃墟。
(ここなのかっ…)
目に飛び込んできたのは、割れた窓という窓から立ち昇る赤い炎。
蔵馬は絶句した。
思考の深い所で、あらゆる可能性が点灯する。
瞬時に冷静さを取り戻す。
気配を消して建物に近寄ると、近辺に霊気が2つ。武装した覆面姿の男だった。
廃墟の周辺に特殊な障壁を作り、普通の人間には見えないようにしているようだった。
火の回りが異常に早い。どこかで、火を煽っている者がいるはずだ。
蔵馬は静かに建物の裏から潜入した。
崩れかけた元ビルの中。四方から炎が立ち上り、壁も床も黒く煤けていた。
煙に混じって、鼻先に微かに届く乳香に似た香り。
間違えるはずがない、葵の匂いだった。
花から生まれた彼女は、十中八九火に弱い。まともに包まれればひとたまりもない。
背中を嫌な汗が流れた。
(……無事でいてくれっ)
蔵馬は、火を操っている2名を見つけた。
妖気を込めた耐火性の蔦が床を走り、彼らを瞬時に絡めとる。
男たちを瞬時に引き倒し、意識を断つ。
何のためらいもなかった。
ヤドリギの反応を頼りに、彼は炎の中をさらに奥へと進んだ。
「……っ!?」
移動途中、ヤドリギの気配がぷつんと途切れた。
全身の血が凍る。
彼の中で、焦燥感と不安が最高潮に達した。
蔵馬は急いで足を走らせた。焦げた鉄骨を跳び越え、崩れた階段を駆け上がり、灼熱の空気を割るように進む。
火の熱が渦巻く中、彼女の悲鳴が聞こえた。
視界の奥、崩れた瓦礫に両足を挟まれ、呻く葵。
覆面の男が、その後頭部へと手刀を振り下ろしていた。
焦げた花の匂いが、彼の鼻を刺した。
その瞬間、蔵馬の中で感情が大きくキレた。
体内の妖気が爆発的に上昇した。
流れるような銀髪が背中を撫でる。
姿は人間のそれを凌駕し、白装束に身を包んだ妖狐へ。
二メートルを優に超える本来の姿に変じていた。
それはほんの一瞬の出来事だった。
気を失った葵に触れようとした男に忍び寄ると、蔵馬は薔薇の鞭で男を絡めとった。
そして、炎の向こうに召喚した蕾型の食肉植物の中に放り込み、餌にした。
一度閉じた蕾は、中身が溶解するまで開かない。遠くで男の断末魔が聞こえた。
「葵……!」
蔵馬の金色の瞳が、炎の奥で倒れる彼女へと向けられた。
胸を締めつける痛みと、燃えさかる怒りを押し殺し、彼は一歩踏み出した。
瓦礫を鞭で切り裂くたび、鞭のしなやかな曲線が炎の残滓をまとい、先端が焼け焦げて煙を上げる。嫌な予感が胸を締めつけた。
(やはりか…)
案の定、熱を帯びた瓦礫の下になっていた葵の下腿は、熱傷になっていた。
淡い布地は焼け爛れ、ところどころが黒く炭化している。
赤く腫れた皮膚に無数の水疱が浮かび、火傷の深さが容易に見て取れた。
心臓が冷たい氷に掴まれたように、ぞわりと音を立てた。
骨折の可能性もあるため、一刻も早くこの場から離れようとしていた時のことだった。
妖狐の耳が小さなきしむ音を拾う。
ドーンッ!という轟音と共に、ひび割れた天井が大きく崩れて、二人の上に落ちてきた。
舞い上がる土煙、降り注ぐ炎の粉塵。
蔵馬は反射的に葵を抱きかかえ、火の勢いが及ばぬ建物の隅へと身を翻した。
彼女の身体は驚くほど軽く、腕の中でふっと力を失っている。
その瞬間だった。ふいに、異質な感覚が蔵馬の全神経を刺した。
(……これはっ)
かすかな違和感が、腕の中の彼女から伝わる。
首筋の感触が、いつもと違う。
視界の隅、ちらりと映り込んだのは、焼け焦げて短くなった淡い花色の髪。
(……まさか)
息をのみながら、彼はそっと彼女の体を起こし、その背を覗き込む。
花の燃えた匂いが、鼻腔を刺す。
首筋から背中にかけて、火が這った痕が生々しく刻まれていた。
白い彼女の肌が、黒く、赤く、哀れに染め上げられている。
蔵馬の瞳が見開かれた。胸の奥を冷たい刃で突き刺されたような衝撃が走る。
「葵!しっかりしろっ」
切迫した声が聞こえる。
それに応えるように、葵の意識がわずかに浮上する。
小さく声が漏れる。
薄く目を開けると、焦点の合わない視線が、微かに、金色に揺れる目を映す。
(…蔵…馬…?)
どうして、そんな顔をしているの?
そう声を上げたかった。男に手を伸ばしたかった。
しかし自分の意志とは反して、深い泥に沈むように意識が遠のいていった。
すぐに葵の瞼は閉じられた。
「……葵っ」
蔵馬の呼びかけに、反応は無くなった。
脱力した小さな体を抱きとめながら、彼の中で何かが音もなく砕けた。
胸を焦がす激情とは裏腹に、月華のような双眸が、冷えた冬の月のように冴え光る。
憤怒の感情が強くなればなるほど、その表情は静かに、酷薄に研ぎ澄まされていく。
冷静に冷徹に、その金色の瞳の奥はますます深く沈んでいった。
(オレを怒らせた罪、死をもって償え…)
葵の身をその胸に抱き寄せる。
その軽さが、痛みとなって心臓を締めつける。
気配を消して瓦礫の影へと滑り込んだ直後のことだった。
隊長との連絡が取れないため、外に控えていた2人が廃墟へと足を踏み入れた。
蔵馬の深い瞳が、氷のごとく細められる。
呼吸も鼓動も、冷たい殺意に染まる。
音もなく足元に現れたのは、鋭く伸びたオジギソウ。
彼の意志と共鳴するかのように、荒ぶる魔界の植物が膨れ上がり、無数の鋭い棘を揺らす。
ギィ……ッ!
彼が召喚した気性の荒い魔界の植物は、建物ごと完全に破壊しつくし、根こそぎ「無」に還った。
そこにあったはずの建物も、気配も、血の臭いすらも、何一つ残らない。
まるで最初から、その場所には何もなかったかのように、廃墟は跡形もなく更地となっていた。
蔵馬の逆鱗に触れた武装集団5人は、この世から消滅した。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
廃墟を後にし、山あいの道をしばらく駆けたところで、蔵馬は遠くに水の音を聞きとった。
耳を澄ませてその場所へ駆ける。
岩肌の間から細く白い滝が落ちている。初夏の午後の陽光が滝を照らし、飛沫が陽の粒となって宙を舞い、滝壺の水面にきらきらと波紋を描いていた。
焦げた匂いや破壊の名残がなおも漂う中で、その音だけが別世界のように澄んでいた。
荒ぶる感情に突き動かされた妖気は、清らかな水の流れと共鳴するように、彼の内側でゆっくりと凪いでいく。
滝のそばに葵を静かに寝かせると、蔵馬は傷の様子を確かめた。
焦げた布は背中からほとんど焼け落ち、白い肌には無残な熱傷の痕が広がっている。
下腿も同じだった。
破れた衣からのぞく足には、赤黒く腫れた皮膚がむき出しになり、触れるのもためらわれるほどだった。
(……よく……これで……)
言葉にならぬ思いを抑え、蔵馬はそっと滝壺の清水を掬った。
持参していたネンジュモという藻に含ませ、じんわりと熱傷部に当てた。
微かに泡立つ音がして、熱気を吸い取るように冷気が広がってゆく。
次いで、火傷に効果が高い紫根をすり潰して塗り込むと、草木の香りが煙に焼けた匂いを押しのけていった。
煙の熱で肺が焼けていないか、それが一番の懸念だったが、彼女の胸が規則正しく上下する様子に、軽く安堵する。
熱傷以外に大きな外傷はみられない。
籠手で覆っていた腕は傷一つなく、耐火効果があることが窺える。
あの混乱の中で致命傷を避けられたのは、偶然か葵の強運か、あるいはよろず屋の店主のおかげだった。
蔵馬は耳をわずかに伏せ、視線を巡らせる。
妖狐の聴覚と嗅覚、第六感を研ぎ澄まし、新手の気配がないか常に注意する。
風のそよぎ、鳥のさえずり、遠くでせせらぐ水音、いずれも自然界の音。
人の気配は……ない。敵は既にすべて滅んだようだ。
(生きて依代になれば、五体満足じゃなくてもいい……そんな扱いか)
葵の捕らえ方は、あまりに荒々しく、連中の焦りが見て取れた。
しかしもう少しスマートなやりようがあったものを。
顔や手など、軽い火傷を冷やしていると、葵の喉から小さく声が上がった。
閉じた瞼がわずかに震えている。
意識の覚醒が近い。
蔵馬の指先は、まだ熱傷の冷却を続けていた。
呼吸の状態、皮膚の温度、汗のにじみ。どれも目と指で確かめ、決して彼女を見失わない。
一通り応急処置が終わると、改めて横たわる葵の顔を見た。
薄く焼けた頬、力なく閉じられた瞼、少し苦悶にひそめられた眉、短くなった髪。
いつも以上に無防備に、脆く、痛ましく映った。
胸の奥で、どうにもならない感情が渦巻いた。
憤り、悲しみ、憂い、安堵など例えようがなく、どの言葉にもできない、形のない何か。
(これほどまでに……苦しいものだったか)
妖狐の姿になっても、南野秀一の肉体の時と同様に、胸の痛みは変わらなかった。
先日葵が襲撃を受けたとき、選択肢は二つあった。
一つは、彼女をすぐに魔界に戻すか、安全な所に避難させて、時が過ぎるのを待つ。
もう一つは、彼女の選択を尊重する。
迷いに迷って、蔵馬は、後者を選んだ。
「もう少し様子を見たい」と言った葵の言葉に戸惑いながらも、信じて見守った。
必要な時は、必ず助けると。
考え抜いて出した結論だった。
(その考えが、甘かったようだな……)
守ると決めていたのに。この手は、彼女の痛みすら奪えなかった。
蔵馬は今にもしおれそうな彼女をそっと抱き上げ、火傷のない額に頬を寄せた。
「……葵っ」
その名を呼ぶ声に、静かな痛みが滲む。
胸に広がる、言葉にできない苦しさ。
蔵馬は、己の無力さを深く刻みつけていた。
そしてその奥に、静かにひとつの誓いが生まれていた。
(もう二度と、葵を……)
午後の光が降り注ぐ滝の傍で、蔵馬は彼女を抱きしめ、微かな息遣いを確かめ続けていた。