アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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9章はR15範囲内の描写(暴力、残酷、血液描写など)があります。そちらが大丈夫な方のみ、お進みください。


第43話

 

(……冷たい…?)

 

足と背中にひんやりとした感触が広がる。冷たい水のようだった。

葵はゆっくりと重たい瞼を開けた。

 

耳に届いたのは、少し離れた場所から流れ落ちる水の音。

しぶきが岩肌に当たる涼やかな響き。

焼けつくような熱さや焦げた煙の匂いは、もうない。

代わりに、透明な冷気が肌に寄り添い、澄んだ空気がゆっくりと肺を満たしていた。

 

視界がはっきりとして見えたのは、憂いを帯びた深い双眸。

凜と整った眉は、どこか切なげにひそめられていた。

夢の中で見た、あの金色の双眸と重なる。

 

(やっぱり……あなただったのね)

 

 

【挿絵表示】

 

 

夢か現かの意識でみたのは、幻ではなかった。

あの金色の瞳は、妖狐の蔵馬のものだったと気づいた。

また自分を助けてくれたのだと、安堵が全身を駆け巡る。

 

「……蔵馬…っ…」

 

微かにこぼれた声。

けれど、体を起こそうと足に力を込めた途端、鋭い痛みが走る。

淡く顔をしかめた葵を見て、蔵馬はそっと手を添え、静かに告げた。

 

「足と背中に火傷を負っている。今冷やしてるところだ。もう少し…動かさないほうがいい」

 

迷いのない落ち着いた声。

葵はその言葉に従って、そっと目を閉じ、深く息を吐いた。

少しずつ、断片的に記憶が戻ってくる。

赤い炎、襲撃、瓦礫が崩れる瞬間。

 

「また……助けてくれたのね」

 

「君の髪に、ヤドリギを仕込んでいたんだ」

 

蔵馬は視線を落としながら、武装集団を撃退したこと、ヤドリギについて、簡潔に説明した。

 

彼の冷静さと知略、そして迷いのない強さ。

葵はこの人にはかなわないと思い、礼を言った。

 

「コエンマから話は聞いた。君は……しばらく魔界に戻っていた方が安全だ」

 

その言葉に、葵はゆっくりと首を振った。瞳の奥に、静かな決意が宿る。

 

「一カ月半前から、魔界でも妖怪に襲撃を受けることが増えていたの」

 

(オレが、暗黒武術会に行っている頃からだったのか……)

 

蔵馬の胸を、冷たい感情がかすめた。

コエンマの話では、霊界で正聖神党に狙われ始めたのは4月10日だった。

その前から、彼女は魔界で静かに、標的にされていた。

 

コエンマから口止めをされていたとはいえ、その事実に気づけなかったことを、蔵馬は内心で悔やんだ。

 

「命を狙うほどのものではなかったわ。ただ、決まって複数で、私の力量を試しているような様子だった。このことが、今回のことと関連があるかはわからないけど」

 

(……霊界らしい手口だな)

 

かつて、蔵馬がハンターに追われたときも同じ手口だった。

複数で、少しずつ巧みに外堀を埋めてくる。そして霊界の者が妖怪に頼んで、魔界で標的を襲撃することは可能だった。

 

 

「蔵馬。……直感的に、今思ったことを言ってもいい?」

 

いつもよりトーンを落とした声は、静かで落ち着いていた。

蔵馬は小さく頷く。

 

「……ああ」

 

「このまま魔界に戻っても、事態は変わらない。それなら、人間界にとどまって、今起きていることと、正面から向き合う方が良い」

 

その言葉を聞き、蔵馬の心の奥に何かが静かに落ちた。

魔界へ行くことができない自分。その状況で彼女を守るための手段は、ここ人間界に残ること。

葵自身も、それを望んでいる。

 

「……そうだな」

 

低く、静かな声で応じた。

彼の思考は、すでに明日のことへと向かっていた。

5月13日。

正聖神党が、新しい依代を迎え入れる期間の最終日。

それまで彼女を守り抜く最善の手段を、彼は多方面から静かに思案していた。

 

 

その時、葵が小さく息をのみ、蔵馬の思考は一度止まった。

 

先ほどから手先の感覚がおかしいと思って両手を見ると、葵は自分の指先が半透明になっていることに気づいた。

妖力を介する花の体が、熱に侵されたことで、肉体の輪郭を保てなくなっているようだった。

 

(自分の体が、まるで霧のように薄れていくみたい…)

 

横たわっている彼女に体を近づけると、蔵馬はそっとその手を取り、自らの手のひらに包み込んだ。

冷たく、かすかに震える葵の手。

 

「……透けているな」

 

痛みが、ゆっくりと広がっていく。

胸の内に、深く、静かに。

彼女の手のひらがこのまま消えてしまいそうに見えた。

その心の揺れを呑み込むように、蔵馬はわずかに力を込めた。

 

 

「……蔵馬。そこの滝に、少し体を浸けていいかしら?熱を放出すれば元に戻ると思うの」

 

いつもより力なく虚ろな双眸が、まっすぐ蔵馬を見上げた。

白い肌には火の粉の痕がまだらに残り、髪の先は黒く焼け、縮れていた。

その姿が、彼の胸に鋭く突き刺さった。

 

(……護りきれなかった)

 

後悔の念は心の奥を蝕んでいく。

しかし、蔵馬は自分の内面を表情に出さず、淡々と彼女に伝えた。

 

「オレが周辺を見張っているから、ゆっくりしたらいい」

 

その冷静さの奥で、何かが細く揺れていた。

 

 

 

滝の音が優しく響く。岩肌をなめるように流れ落ちる水、その先に広がる深く澄んだ川。

 

葵は身にまとっていたものを脱ぐと、身を沈めるように水へと入った。

思ったよりも冷たかったが、それが心地よい。

一度深く潜り、目を閉じる。

焼けた肌が冷やされ、熱の膜がゆっくりと剥がれ落ちていくようだった。

 

水面の上に顔を出すと、口の中を漱いだ。

熱傷の箇所は、蔵馬が藻で覆ってくれたおかげで、水の刺激もなかった。

 

 

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「ふぅ…」

 

(滝のある場所を選んでくれて良かったわ…)

 

火による妖気へのダメージが、水によって浄化される。

水の中で、葵の指先は徐々に色を取り戻していった。

妖力がある程度回復したのを確認し、葵は足と背中に治癒を施した。

 

服も簡単に洗い、妖気の熱で温風を作り乾かしていると、近くで何かが落ちる音がした。

 

(……なに?)

 

振り向くと、吸水性のある葉で編んだ簡易的な布だった。

きっと蔵馬によるものだろう。手に取ると、なぜか温かく感じた。

 

(……ありがとう)

 

どこまでも細やかな配慮が、胸に沁みた。

 

 

服を身に着けて練薬を飲むと、葵は蔵馬のもとへ歩き出した。

彼は森を背にして、変わらぬ静けさで立っていた。

 

「体は……もういいのか?」

 

「ええ。火による熱を放出したから、大丈夫よ」

 

 

【挿絵表示】

 

 

「……。」

 

しばらく静かに葵を見つめると、蔵馬は制服の上着を脱いで、彼女の肩にかけた。

背中の半分以上が露わになった状態で、そのままに晒しておくのは忍びなかった。

 

そのとき、彼女はふわりと漂う空気に、表情が緩んだ。

制服からは、静かに心をくすぐる涼やかな匂いがする。

先ほどまで、まとわりついていた焦げたような匂いを、一気に忘れさせてくれる。

 

(あなたの匂いは、落ち着くわ…)

 

抱きしめられていると錯覚をするほど、今の葵には優しい匂いだった。

 

「火傷のところは……後でしっかりと手当てさせてくれ」

 

「……ありがとう」

 

葵は彼にふわっと笑いかけた。

 

やっと普段の微笑みが見えて、蔵馬の心は少し軽くなった。

だが次の瞬間、視界に入ったものがあった。

少し濡れた彼女の髪。顎の下で揺れる、短くなった毛先。

 

「……。」

 

(オレは……また、間に合わなかった)

 

そう思った瞬間、胸の奥に鈍く重い痛みが走った。

葵の肩にかけた手を、思わず強く握りそうになるのを、必死に堪えた。

 

蔵馬は哀愁を込めた目で、彼女を見つめていた。

焦げた髪の匂いが、苦い記憶として思い出された。

 

「……蔵馬?どうしたの?」

 

「……いや」

 

一瞬、目を伏せてから、彼は言葉を選ぶように口を開いた。

 

「結構……焼けてしまったなと思ったんだ」

 

いつもより低く、少し掠れた声が出た。

 

花のような葵の髪は、火に焼かれて不揃いに短くなっていた。

風に揺れているその髪に、触れようとしても触れられない。

手を伸ばせば触れられるはずなのに、蔵馬の指先は、宙で止まったままだった。

 

「私、燃えやすいみたい。髪はまた伸びるから」

 

焼け落ちた部分と、縮れている毛先。

葵は指先でそれを確認しながら、軽く答えた。

蔵馬の内面とは、対照的な反応だった。

 

「燃えて痛んでる部分は、切ったほうがいいだろう」

 

「自分で切ると、坊主にしてしまいそうね……」

 

彼の心の葛藤をよそに、彼女は普段通りで大らかだった。

葵らしい発言だが、いろんな意味で今の蔵馬には、冗談に聞こえなかった。

 

「良かったら、手伝ってくれないかしら?」

 

そこには、頼ることへのためらいや遠慮がまるでない。

ただ純粋に、彼を信じている響きがあった。

 

(こんな状況でも、君は変わらないんだな……)

 

蔵馬は息を呑み、ほんの一瞬だけ、心の中で何かを握りつぶす。

 

「……ああ」

 

その一言に、自分でも気づかないほどの感情がにじみ出ていた。

それでも彼は、彼女の申し出を断るはずがなかった。

 

二度と、葵を傷つけたくない。

この人を、失いたくない。

 

その想いが、胸の奥で、強く、静かに根を張っていく。

 

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