(……冷たい…?)
足と背中にひんやりとした感触が広がる。冷たい水のようだった。
葵はゆっくりと重たい瞼を開けた。
耳に届いたのは、少し離れた場所から流れ落ちる水の音。
しぶきが岩肌に当たる涼やかな響き。
焼けつくような熱さや焦げた煙の匂いは、もうない。
代わりに、透明な冷気が肌に寄り添い、澄んだ空気がゆっくりと肺を満たしていた。
視界がはっきりとして見えたのは、憂いを帯びた深い双眸。
凜と整った眉は、どこか切なげにひそめられていた。
夢の中で見た、あの金色の双眸と重なる。
(やっぱり……あなただったのね)
夢か現かの意識でみたのは、幻ではなかった。
あの金色の瞳は、妖狐の蔵馬のものだったと気づいた。
また自分を助けてくれたのだと、安堵が全身を駆け巡る。
「……蔵馬…っ…」
微かにこぼれた声。
けれど、体を起こそうと足に力を込めた途端、鋭い痛みが走る。
淡く顔をしかめた葵を見て、蔵馬はそっと手を添え、静かに告げた。
「足と背中に火傷を負っている。今冷やしてるところだ。もう少し…動かさないほうがいい」
迷いのない落ち着いた声。
葵はその言葉に従って、そっと目を閉じ、深く息を吐いた。
少しずつ、断片的に記憶が戻ってくる。
赤い炎、襲撃、瓦礫が崩れる瞬間。
「また……助けてくれたのね」
「君の髪に、ヤドリギを仕込んでいたんだ」
蔵馬は視線を落としながら、武装集団を撃退したこと、ヤドリギについて、簡潔に説明した。
彼の冷静さと知略、そして迷いのない強さ。
葵はこの人にはかなわないと思い、礼を言った。
「コエンマから話は聞いた。君は……しばらく魔界に戻っていた方が安全だ」
その言葉に、葵はゆっくりと首を振った。瞳の奥に、静かな決意が宿る。
「一カ月半前から、魔界でも妖怪に襲撃を受けることが増えていたの」
(オレが、暗黒武術会に行っている頃からだったのか……)
蔵馬の胸を、冷たい感情がかすめた。
コエンマの話では、霊界で正聖神党に狙われ始めたのは4月10日だった。
その前から、彼女は魔界で静かに、標的にされていた。
コエンマから口止めをされていたとはいえ、その事実に気づけなかったことを、蔵馬は内心で悔やんだ。
「命を狙うほどのものではなかったわ。ただ、決まって複数で、私の力量を試しているような様子だった。このことが、今回のことと関連があるかはわからないけど」
(……霊界らしい手口だな)
かつて、蔵馬がハンターに追われたときも同じ手口だった。
複数で、少しずつ巧みに外堀を埋めてくる。そして霊界の者が妖怪に頼んで、魔界で標的を襲撃することは可能だった。
「蔵馬。……直感的に、今思ったことを言ってもいい?」
いつもよりトーンを落とした声は、静かで落ち着いていた。
蔵馬は小さく頷く。
「……ああ」
「このまま魔界に戻っても、事態は変わらない。それなら、人間界にとどまって、今起きていることと、正面から向き合う方が良い」
その言葉を聞き、蔵馬の心の奥に何かが静かに落ちた。
魔界へ行くことができない自分。その状況で彼女を守るための手段は、ここ人間界に残ること。
葵自身も、それを望んでいる。
「……そうだな」
低く、静かな声で応じた。
彼の思考は、すでに明日のことへと向かっていた。
5月13日。
正聖神党が、新しい依代を迎え入れる期間の最終日。
それまで彼女を守り抜く最善の手段を、彼は多方面から静かに思案していた。
その時、葵が小さく息をのみ、蔵馬の思考は一度止まった。
先ほどから手先の感覚がおかしいと思って両手を見ると、葵は自分の指先が半透明になっていることに気づいた。
妖力を介する花の体が、熱に侵されたことで、肉体の輪郭を保てなくなっているようだった。
(自分の体が、まるで霧のように薄れていくみたい…)
横たわっている彼女に体を近づけると、蔵馬はそっとその手を取り、自らの手のひらに包み込んだ。
冷たく、かすかに震える葵の手。
「……透けているな」
痛みが、ゆっくりと広がっていく。
胸の内に、深く、静かに。
彼女の手のひらがこのまま消えてしまいそうに見えた。
その心の揺れを呑み込むように、蔵馬はわずかに力を込めた。
「……蔵馬。そこの滝に、少し体を浸けていいかしら?熱を放出すれば元に戻ると思うの」
いつもより力なく虚ろな双眸が、まっすぐ蔵馬を見上げた。
白い肌には火の粉の痕がまだらに残り、髪の先は黒く焼け、縮れていた。
その姿が、彼の胸に鋭く突き刺さった。
(……護りきれなかった)
後悔の念は心の奥を蝕んでいく。
しかし、蔵馬は自分の内面を表情に出さず、淡々と彼女に伝えた。
「オレが周辺を見張っているから、ゆっくりしたらいい」
その冷静さの奥で、何かが細く揺れていた。
滝の音が優しく響く。岩肌をなめるように流れ落ちる水、その先に広がる深く澄んだ川。
葵は身にまとっていたものを脱ぐと、身を沈めるように水へと入った。
思ったよりも冷たかったが、それが心地よい。
一度深く潜り、目を閉じる。
焼けた肌が冷やされ、熱の膜がゆっくりと剥がれ落ちていくようだった。
水面の上に顔を出すと、口の中を漱いだ。
熱傷の箇所は、蔵馬が藻で覆ってくれたおかげで、水の刺激もなかった。
「ふぅ…」
(滝のある場所を選んでくれて良かったわ…)
火による妖気へのダメージが、水によって浄化される。
水の中で、葵の指先は徐々に色を取り戻していった。
妖力がある程度回復したのを確認し、葵は足と背中に治癒を施した。
服も簡単に洗い、妖気の熱で温風を作り乾かしていると、近くで何かが落ちる音がした。
(……なに?)
振り向くと、吸水性のある葉で編んだ簡易的な布だった。
きっと蔵馬によるものだろう。手に取ると、なぜか温かく感じた。
(……ありがとう)
どこまでも細やかな配慮が、胸に沁みた。
服を身に着けて練薬を飲むと、葵は蔵馬のもとへ歩き出した。
彼は森を背にして、変わらぬ静けさで立っていた。
「体は……もういいのか?」
「ええ。火による熱を放出したから、大丈夫よ」
「……。」
しばらく静かに葵を見つめると、蔵馬は制服の上着を脱いで、彼女の肩にかけた。
背中の半分以上が露わになった状態で、そのままに晒しておくのは忍びなかった。
そのとき、彼女はふわりと漂う空気に、表情が緩んだ。
制服からは、静かに心をくすぐる涼やかな匂いがする。
先ほどまで、まとわりついていた焦げたような匂いを、一気に忘れさせてくれる。
(あなたの匂いは、落ち着くわ…)
抱きしめられていると錯覚をするほど、今の葵には優しい匂いだった。
「火傷のところは……後でしっかりと手当てさせてくれ」
「……ありがとう」
葵は彼にふわっと笑いかけた。
やっと普段の微笑みが見えて、蔵馬の心は少し軽くなった。
だが次の瞬間、視界に入ったものがあった。
少し濡れた彼女の髪。顎の下で揺れる、短くなった毛先。
「……。」
(オレは……また、間に合わなかった)
そう思った瞬間、胸の奥に鈍く重い痛みが走った。
葵の肩にかけた手を、思わず強く握りそうになるのを、必死に堪えた。
蔵馬は哀愁を込めた目で、彼女を見つめていた。
焦げた髪の匂いが、苦い記憶として思い出された。
「……蔵馬?どうしたの?」
「……いや」
一瞬、目を伏せてから、彼は言葉を選ぶように口を開いた。
「結構……焼けてしまったなと思ったんだ」
いつもより低く、少し掠れた声が出た。
花のような葵の髪は、火に焼かれて不揃いに短くなっていた。
風に揺れているその髪に、触れようとしても触れられない。
手を伸ばせば触れられるはずなのに、蔵馬の指先は、宙で止まったままだった。
「私、燃えやすいみたい。髪はまた伸びるから」
焼け落ちた部分と、縮れている毛先。
葵は指先でそれを確認しながら、軽く答えた。
蔵馬の内面とは、対照的な反応だった。
「燃えて痛んでる部分は、切ったほうがいいだろう」
「自分で切ると、坊主にしてしまいそうね……」
彼の心の葛藤をよそに、彼女は普段通りで大らかだった。
葵らしい発言だが、いろんな意味で今の蔵馬には、冗談に聞こえなかった。
「良かったら、手伝ってくれないかしら?」
そこには、頼ることへのためらいや遠慮がまるでない。
ただ純粋に、彼を信じている響きがあった。
(こんな状況でも、君は変わらないんだな……)
蔵馬は息を呑み、ほんの一瞬だけ、心の中で何かを握りつぶす。
「……ああ」
その一言に、自分でも気づかないほどの感情がにじみ出ていた。
それでも彼は、彼女の申し出を断るはずがなかった。
二度と、葵を傷つけたくない。
この人を、失いたくない。
その想いが、胸の奥で、強く、静かに根を張っていく。