蔵馬は淡黄色の戦闘着に身を包んでいた。
東洋的なデザインで、流れるようなシルエットがしなやかな彼に合っていた。
彼の歩みは迷いなく、夜の闇に包まれても足音一つ立てない。
そんな中でも、彼女の負傷した足を労わりながら、速度を合わせて進み、葵を人里離れた山奥へと導いた。
やがて街の灯りも遠ざかり、二人の周囲には、夜の森のざわめきと、川のせせらぎだけが響くようになった。
辿り着いたのは、小さな川の流れる洞窟だった。
奥に進むと、淡く光を放つアカル草がいくつか咲いている。
その柔らかな白い光は、洞窟の壁に二人の影を揺らし、外界の喧騒とは無縁の、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
湿り気を帯びた土の一部には、ひっそりと苔や野草が根を張っていた。
かつて蔵馬が妖狐だったころ、時々使っていた隠れ家だった。
空気は澄み、しばらく過ごすには十分な環境だった。
葵は洞窟内を歩き回り、ひんやりとした岩肌にそっと触れてみたり、根を張った草の柔らかさを確かめたりしていた。
その静かな気配を背に感じながら、蔵馬は外の様子を探るため洞窟の入り口へと戻った。
周囲の安全を慎重に確かめる。
夜は深く、風もほとんどない。しかし彼は、ほんのかすかな気配にも注意を怠らなかった。
ほどなくして彼が戻ってくると、二人は岩場に腰を下ろし、明日までの過ごし方について静かに言葉を交わした。
しばらく無言の空間が広がる。
洞窟内に流れる小さな川の音が、静かに響いていた。
その時。
葵は視線を宙に漂わせるようにして、思いつくまま呟いた。
「蔵馬は……妖狐になる前の姿も銀色の狐だったの?」
「そうだよ」
(……また、いきなりだな)
そう思いながらも、彼は微笑みながら応じる。
「その姿は、自然界ではかなり目立ったんじゃないかしら?」
一般的に白い動物は野生では目立ち、外敵から狙われやすくなる。
葵の声には、理知的な分析よりも、どこか遠くを懐かしむような柔らかさがあった。
まるで、目の前にその美しい銀色の妖狐の姿が浮かんでいるかのように。
「能力で化けたり、幻影を見せたり、身を隠すことはできたから、それほど不自由しなかったよ」
「妖狐になる前から、それはできたの?」
「うん」
「あなたは、特殊能力が優れているのね」
そう言って、葵は少し微笑んだ。
その笑みに、蔵馬はふっと息を漏らす。
「オレからすれば、君の亜空間移動や、見えざるものの声を拾う方が、かなり特化した能力だよ」
「ふふ。みな、自分にないものを優れていると感じるのね」
蔵馬は、話を合わせながらも、不思議に思った。
(葵は、どうしてこのような話を……?)
いつもの好奇心とも、無邪気な問いかけとも違う。無論、先の見えない不安から言葉を紡いでいるようにも見えない。
何か、別の想いが込められているように感じた。
「銀色の毛皮のあなたは……美しい姿だったんでしょうね」
遠くを見るような眼差しで、彼女は言った。
わずかな灯りしかない洞窟の中でも、その瞳は星の輝きを宿していた。
「……どうだろうね」
蔵馬は視線をそらし、苦笑するように言う。
「一つの生涯で、3つの姿を生きるあなたは、稀有な存在ね」
「……そんなことを言うのは、君くらいだよ」
そう答えると、蔵馬は洞窟の壁に手を添え、隠し扉を開けた。
そこには、非常用品も含め、武器防具、種など色々なものが保管されていた。
長い歳月が流れているはずだが、手入れが行き届いていたのか、状態は悪くない。
彼は一つひとつ確かめながら、必要なものを手に取っていた。
その時。
彼の背後からふわりとした声が、洞窟の中と蔵馬の心に溶け込むように、やわらかく、深く響いた。
「私は……あなたに巡り合えて、本当に仕合わせだわ」
感謝とも違う。喜びとも少し違う。
もっと、心の奥底から生まれた、彼女の真実の想い。
蔵馬は思わず手を止めた。
(そうか……。突然話題が変わったのは、君の深い気持ちの伝え方だったんだな…)
静かに目を伏せた蔵馬の頬に、涼やかな洞窟の空気がそっと触れた。
岩壁にこもる冷気と土の匂い。過ぎ去った時の名残りと、今、隣にいる彼女の温かい気配。
それらが静かに交錯するこの場所で、彼は目元を緩めた。
突然のことだった。
トン、と控えめな音。続いて、彼の背にふわりとした重みがのしかかる。
柔らかな頬、葵だ。どこか懐かしい酔芙蓉の香りが濃くなる。
「……っ。葵?」
思わず名を呼んだ声は、いつもよりわずかに吐息が混じり、驚きを隠せなかった。
けれどすぐに、胸の奥にじんわりと広がってゆく温かさに気づく。
背中越しに伝わる彼女の体温。小さく、柔らかく、心地よい。
(……自分から触れてくるなんて)
滅多にないことだった。彼女のほうから、迷いなく、素直に甘えてくることなど。
心にひっそりと芽生えた嬉しさが、背骨を伝う。
触れ合う肌から気配が伝導し、境界が溶け合うような感覚を覚える。
肉体という枠を越えて、気も、想いも、静かに融け合っていく。
そんな不思議な錯覚。
忘れていた。こんな安心を、こんな温もりを。
「あなたの音は……耳に優しいわ」
背中に響いた葵の囁きは、かすかに震えて、それでも芯のある柔らかな声だった。
葵が聴いているのは、蔵馬の胸の音。
鼓動が、彼女の耳に届くことを意識した瞬間、ふと彼の心に湧き上がったのは、淡い期待と微かな疑問の芽だった。
この胸の音は、彼女の耳にどのように聞こえているんだろう。
早鐘のような、ときめきの音か。
それとも、静かに波打つ安心のリズムか。
(この鼓動に、想いは乗るのだろうか……)
ここから、自分の想いが言葉を超えて伝わればいい。
どれだけ、この人を想っているか、どれだけ失いたくないか。
言葉にしなくても、伝わるのなら。それがこんなにも優しい方法ならば。
蔵馬の柔らかく波打つ髪が、葵の頬に触れる。
少しくすぐったくて、繊細な感触が、彼女を包む。
その広い背中からは、彼の優しい匂いがする。静かに心をくすぐる涼やかな匂いに、深い安らぎが広がり、葵はゆっくりと息を吸い込んだ。
(ありがとう…という言葉が足りないわ……)
蔵馬の気配に包まれることで、こんなにも安心する自分に、葵自身も静かに驚いていた。
こうしているだけで、心の深いところがほどけていく。
彼もまた、そっとその変化を感じ取っていた。
(葵なりに、甘えてくれているんだな……)
これだと抱きしめることができなくて、蔵馬は少しもどかしい。
もっと触れたくて、触れてほしくて。でもそのもどかしさも、今は愛おしい。
控えめで、静かで、確かに伝わる小さな愛情表現。
信頼して、安心して寄り添う彼女を、蔵馬は抱きしめ返したくなった。
静かに時が流れていく。
蔵馬はそっと後ろにある葵の手を取り、その細い指を自分の腰に導いた。
驚くほど小さな手だった。
この手を、護りたい、そう想った。
彼女の手の上に、自分の手を重ねて、優しく抱きしめた。
お互いの手の温かさに、安堵感がさらに体を駆け巡る。
「好きなだけ……こうしていたらいいよ」
彼女に言うように、自分に言うように、蔵馬の声は繊細で、穏やかで優しかった。
背中越しに、葵の微かな笑い声が聞こえた。
ふわっと、花がほころぶような、やさしい音。
「……ありがとう」
二人の間に流れる時間は、水のように静かに、緩やかに過ぎていく。
葵の呼吸は次第に落ち着き、手の力もすっと抜けていった。瞼の奥で、深い夢の淵へ誘われるような心地よさを感じていた。
指の隙間から伝わる温もりが、ほんのりと淡く、薄れていき、洞窟にたゆたう。
蔵馬の背中に寄り添う小さな体から、深い安心が伝わってくる。
(緊張が、やっとゆるんだか……)
今日の襲撃は、想像以上に彼女の体と心を削ったのだろう。無理もない。
無自覚なまま気を張っていたことに、彼女自身は気づいていない。
(このままでもいいが……)
これでは敵に襲撃を受けた時に、対応が遅れる。
眠るなら、せめて横になってもらったほうがいい。
蔵馬は静かに、背後の彼女にその艶のある声を届けた。
「葵」
反応は微かな吐息のような返事。意識は半分眠りに落ちかけていた。
「最近、寝てなかったんじゃないか?」
「……ええ」
蔵馬はゆっくりと振り返り、彼女の顔を覗き込んだ。
その目元には、まだ抜けきらない疲労の影が差していた。
彼は手を伸ばし、そっと彼女の頬に触れる。
その頬に手を添えた指先が、ほんの少しだけ冷たくなっていた。
「休んでいいよ。オレが見張ってる」
安心して。
そう告げると、葵は小さく微笑んだ。
「……ありがとう」
蔵馬は植物が自生する柔らかな地面に、用意していた毛布を丁寧に広げた。
彼の静かな眼差しに促されて、葵は素直に体を横たえた。
丸まるように横になる姿は、まるで小さな子どものようだった。
無防備で、従順で。
護りたいと思う気持ちが、胸の内に熱く湧き上がる。
「起きたら、交代するわ」
「……起きれる?」
近くに座った蔵馬の声が、少し笑っている。
その様子に葵は何か言いかけたが、すぐにつぐんだ。
そしてしばらく、彼の顔を見つめながら考えた。
「……今夜は、あなたに甘えてもいい?」
その声に、蔵馬の微笑が深まる。
彼女にしか向けない、どこまでも静かで穏やかな声で抱きしめた。
「いいよ」
その声の包容を葵は素直に受け止めた。
ふわっと花がほころぶように笑うと、そのまま瞳を閉じた。
まもなく、規則正しい呼吸が聞こえてきた。
夜がさらに深く沈み、洞窟の天井近くに淡く灯るアカル草の光も、息をひそめるように揺れていた。
蔵馬は、自分が整えた花髪にそっと指を絡ませる。
夜も更けて、その髪は桃色がなくなり、象牙色の花へと姿を変えた。
愛してやまない彼女の髪が焼けたことにも胸が痛むが、再びこれほどの手負いの状態にさせてしまったことに、己を許せなかった。
今は近くにいるから守り切れる。
ただ魔界にいる間、彼女に何かあっても自分はどうする術もない。
火の中で葵を見つけたときの、あの胸を抉るような感覚。
それは拭い去れない影となって、彼の内に残り続けていた。
大切なものができるということは、生きる力となり、強さの原動力になる。
しかし同時に、失うことへの恐れが表裏一体になると思い知る。
(今の状況でこの感情だ……。オレは、葵を失ったら、耐えられるのか想像もつかない)
胸の奥を、じわりと冷たいものが満たしていく。
そんな思いを打ち消すように、蔵馬はそっと彼女の頬に触れた。
「……ん」
小さく声が漏れた。
蔵馬の手が触れている頬が、わずかに動いた。
彼の思考は、停止した。
意識の波間を漂うように、彼女は夢の中で何かを感じ取ったのだろうか。
(考えすぎるのは、オレの勝手だな……)
ある程度、自分の胸の苦しみを自覚できた。これも、葵を想う故の葛藤だ。
愛するということは、時にこうして痛むということを、身をもって体験する。
そっと、火傷の痕が薄く残る頬を撫でる。
ようやく安心して眠れたのだろう。深い眠りの一歩手前で、花色のまつ毛が細かく震えている。
先ほど声を上げた時に、口唇が少し開いているのが目に留まった。
「……葵」
喉から漏れたのは、空気さえ震わすほどの繊細で、艶のある声。
目の前の人は、安心して眠り続けている。
しばらく、蔵馬は静かに彼女を見つめていた。
そして懐から、サクラガイの容器を取り出した。
中身は、彼女のために作った練薬。
それを指先に取り、舌でなじませると、顔を近づける。
そして吸い寄せられるように、その口唇に自分のものを重ねた。
少し空いた口から、舌をすべりこませて薬を塗る。
苦い。
けれど彼女の口腔内の温もりが、それを和らげる。
「……寝てるのに、すまない……」
この台詞は、口移しで薬を塗ったことに対してではなかった。
今この瞬間に湧き上がった感情の、行き場のない切なさと、募る想いへの祈りのようだった。
毛布から覗いた葵の小さな手に、自分の手を重ねる。指を絡め、もう一度口唇を合わせる。
繰り返しているうちに、練薬の苦みが薄らぐ。
代わりに彼女の甘い気配が、蔵馬の五感を満たしていく。
柔らかく、温かい。
目の前のこの存在が、どれほど尊く、壊れやすいものか、今さら痛いほどわかる。
この冷静沈着な男に恋をさせる葵は、深くなる口づけにも意識は眠りの中に置いている。
ただ、漏れる吐息は増える。
彼女の指先がぴくりと動き、口元が微かに緩む。
(こんな時も、君はオレを夢中にさせる……)
口唇をわずかに離すと、そこは濡れて光っていた。甘美な花唇は、いまだ彼を誘っている。
花から生まれた彼女は、ある意味罪深い。
それを本人は全く自覚していないから、尚更だ。
葵は深い眠りに沈んで、起きる気配はない。
もっと彼女を求めたくなる自分に戸惑いながらも、その花にまた吸い寄せられるように、蔵馬は近づく。
けれど、これ以上は……。
蔵馬は小さく息を吐いた。
そのとき。
ぴくっ。
彼の神経が一気に研ぎ澄まされた。
音ではない。空気の乱れ、気の流れ。そのわずかな歪みを捉えた。
(外に2人か……。命が惜しくないなら、来るがいいさ)
洞窟の外には見張り代わりの植物と、侵入者を捕縛する植物をいくつか配置している。
用意周到な彼に抜かりはない。
再び葵に深い瞳を向けた。
でももう少しだけ、蔵馬はこの寝顔を見ていたかった。
ようやく安息の眠りに入った彼女を、招かれざる客のために起こしたくなかった。
「……おやすみ。葵」
蔵馬は頬に添えた手と、その眼差しで慈しむように葵を抱きしめた。
(君が葵でいてくれるから……オレは蔵馬でいられる)
そして彼はゆっくりと立ち上がり、洞窟の外を睨んだ。
夜の静寂が、彼の背を押す。
PC故障のため、更新が滞って申し訳ありませんでした。
本日より復活しましたので、定期更新いたします。
蔵馬と葵の愛と成長の物語を、今後ともよろしくお願いいたします。
今回も蔵馬さんはぎりぎりです。さすが理性の男。