アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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第46話

葵がゆっくりと瞼を開いたとき、耳に届いたのは、洞窟の奥深くを流れる小川のせせらぎと、外で風が梢を揺らすかすかな音だった。

ひんやりとした空気が肌を撫でる。岩肌の匂いと、かすかに残る薬草の香りが漂っている。

 

 

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(今、何時だろう?とてもよく眠った気がするわ…)

 

深い洞窟は、日の光がほとんどなく、時間の気配さえ曖昧だ。

彼女は、自分の体の感覚を研ぎ澄ました。

足と背中に負った火傷の痛みが軽減して、重かった瞼も軽い。

気力さえも、じんわりと戻っている。

 

(……6、7時間は経ったかもしれない)

 

 

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体を起こして立ち上がり、辺りに視線をめぐらせる。

蔵馬の姿は見えなかった。

 

(見回りに行っているのかもしれない)

 

そう感じた時、入り口の方から気配を察知した。

慣れ親しんだ妖気に、正体がすぐわかった。

 

「……おはよう。よく眠れた?」

 

静かな声が洞窟内に響く。蔵馬がそこに立っていた。

いつもの柔らかい表情で、こちらを見つめている。

薄暗い洞窟の中、彼の深い双眸が、優しく光って見えた。

 

「ええ……。お言葉に甘えすぎたくらい、よく眠れたわ」

 

「……。」

 

葵が微笑むと、彼はわずかに口元を和らげ、静かに歩み寄ってくる。

そして、長い指でそっと彼女の頬に触れた。

少しひんやりとした手のひらが、熱の去った肌に心地よい。

 

「そうだね……。顔色が、昨日よりずっと良くなってるよ」

 

「この暗がりでわかるの?」

 

「オレの目は、少し特殊だからね」

 

妖狐の五感は鋭い。

嗅覚、聴覚だけでなく、暗闇でも色彩さえ見分ける優れた視覚をもつ。

 

「足の火傷は、大丈夫か?」

 

「ええ。歩いても痛むことはないわ。ありがとう」

 

二人の視線が絡んだ。

葵はまっすぐに蔵馬の目を見つめる。

その瞳の奥に、静かな強さと、深い覚悟の色を読み取った。

 

「何か、動きがあったのかしら?」

 

「……ああ」

 

(こういう直感は、本当に鋭いな)

 

蔵馬は黙って、細長く折りたたまれた紙片を彼女の前に差し出した。

淡い光の下でそれを広げると、静かな筆致でこう書かれている。

 

『午後2時に鏡池へ来られるべし。対話求む。正聖神徒』

 

「……。」

 

洞窟の空気が少し張り詰めた。

正聖神徒にとって、今日が依代を迎える最終日。あちらも必死だ。

今まで力づくで葵を確保しようとしてきたが、ここに来て180度やり方を変えてきた。

 

「……対話ね」

 

「君を捕らえるための罠だろう。このまま奴らとの接触を避けながら、身を隠し続けることも可能だ。それとも、敢えて飛び込んでみるか……。葵の意見を聞きたい」

 

空気がぴたりと静止する。

洞窟の静寂に、二人の呼吸の音と川のせせらぎが重なっている。

 

葵は、手の中の紙面をじっと見つめていた。

どこか虚ろな瞳は、何かを考えているようで、感じているようで。

蔵馬はそんな彼女の横顔を、黙って見守った。 答えを急がせることもない。

彼女の心に芽吹く思いを、そっと待つ。

 

「……無理は、しなくていい」

 

その響きは、繊細で優しかった。語尾に向かうほど、ゆっくりと労わりを込めて紡がれた。

葵が軽く顔を上げる。

目が合った瞬間、蔵馬はまっすぐに言葉を続けた。

 

「けれど、君が前に進みたいと願うなら……オレは、隣にいる 」

 

その言葉は、闇の中に灯る小さなろうそくの火のようだった。

先の見えない暗闇を照らす、光は彼女を包み込むように柔らかでいて、力強い。

 

(この人は、どこまでも私を守ってくれる…)

 

葵の胸の奥に、温かな波が広がっていく。

静かに深呼吸をすると、決意を宿した眼差しで紙片を折りたたんだ。

 

「……私は、対話に応じたい」

 

(……そう言うと思っていたよ)

 

蔵馬としては、今日一日彼女をどこかに閉じ込めておく方が、確実で安全な選択だ。

しかし葵がそれを選ばないと、わかっていた。

すでに二手三手先を行く彼の頭脳は、彼女をどのように護り抜くか考えを巡らせていた。

 

「……あなたが隣にいてくれるなら、私は彼らの要求に応えたい」

 

小さく、はっきりと洞窟内に響く声に、蔵馬の思考は一度止まった。

自分への信頼があるからこその、決意の言葉。

今この時、頼られることが、これほど心を打つことを、彼は胸の奥の震えで知った。

 

「……わかった。オレが葵を護りきるよ」

 

静かな誓いが、洞窟に満ちる。

それは言葉以上の重さを持つ響きだった。

 

(たとえ、危うい道であっても……)

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

予定時刻まで、あと数時間。

洞窟の中には、細く流れる川の音が絶え間なく響いていた。

風が外の木々を揺らし、そのざわめきが小さく届く。

 

静寂に包まれた空間の中、蔵馬はひとり、地面に広げた袋の中身と向き合っていた。

 

(……敵は必ず、対話を装って罠を仕掛けてくる)

 

細心の注意を払い、武器、防具、薬草、封印具、種、その一つ一つを手に取り、視線を落とす。

もし敵が正面から仕掛けてきた場合、罠に誘い込まれた場合、葵を確保しようとした場合。

あらゆる「最悪の可能性」を静かにシミュレーションし、そのたびに種や道具を慎重に取捨選択していく。

 

「探し物?」

 

背後から、葵の柔らかな声が落ちた。

振り向かずとも、その声だけで彼の思考に一筋の光が差し込む。

 

「……使えそうなものを、確認していただけだよ」

 

そのとき、袋の底に沈んでいた銀色の種が目に留まった。

 

「……。」

 

彼は顎に手を置いて、しばらく考えた。そして、葵の方を振り返った。

その視線を、彼女は深い瞳で招き入れた。

何が起こっても、絶大な信頼を寄せている目だった。

 

(……君を、どんな手を使ってでも、護り抜く)

 

その瞳が了承の合図だった。

ゆっくりと立ち上がり、彼は優雅に葵の前へと歩み寄る。

 

「……葵。少し、じっとしててくれ」

 

葵は黙って頷き、彼の意図を問いただすことはしなかった。

蔵馬の手が、彼女の左手を掴んで引き寄せた。

籠手を外す音が、静かな洞窟の涼しい空気を揺らす。

 

滑らかな素肌が露になる。

何も言わぬまま、彼はその手首をさらに自分に近づける。そしてその内側に口唇を寄せた。

 

何か固いものが肌に当たる感触と同時に、細い針で撫でられるような淡い痛みが、葵の手首に生じる。

声を上げるほどではなくて。

ただ、焦がすような刺激と共に肌の奥へ何かが滑り込んだような、奇妙な感覚だった。

 

(……熱い)

 

何が起こっているのか、と目の前の男を見上げれば…。

彼の瞼は閉じられ、その儀式のような行為に静かに向き合っている。

 

やがてゆっくりと蔵馬の瞼が持ち上がり、深い瞳同士が再会した。

 

「……。」

 

有無を言わせぬような、深い魔性の双眸。

ときに夜の底のように深く、またある時は、刃のように鋭く光ってみえた。

ただ、静かに見据えるだけで、その視線に射抜かれた葵は言葉を失った。

 

(蔵馬……)

 

理由も理屈もなく、抗えないと思わせるような妖の魔力が宿っていた。

甘く、危うく、そして美しい。

熱い口唇は、離さないままで。

 

その意図はわからない。

しかし蔵馬が理由もなく、このようなことをするはずがないと葵は知っていた。

だから、その口唇の熱も、淡い刺激も、恐れずに受け入れる。

 

蔵馬は再び目を閉じた。洞窟の中、二人の息遣いだけがする。

葵は静かに、彼の妖艶な行動にゆだねた。そして、彼の動きから目を逸らさなかった。

 

 

長い沈黙の後、蔵馬がゆっくりと口唇を離す。

葵の白い肌には、赤く染まった小さな刻印が宿っていた。

 

「……お護りだよ」

 

いつもの柔らかい表情で、そう告げると、彼はそっと彼女の手を包み込んだ。

 

ほんのりとした熱が、まだ彼女の肌の奥に残っている。

まるで蔵馬の想いが、そっとそのまま籠もっているかのように。

静かに深呼吸をすると、葵は微笑み、そっと彼を見上げた。

 

「……ありがとう」

 

 

たった一言に、すべてを含んでいた。

信頼、感謝、そして彼への想い。

 

蔵馬はその微笑みに、何も言わず、ただ目を細めた。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

鏡池。その静謐(せいひつ)な水面は、風ひとつない空気を映し、人間界でありながら、別世界のように澄み渡っていた。

池の畔に、ひとりの青年が立っていた。

陽に焼けた肌と、明るい茶色の髪。葵と蔵馬と同年代の、無邪気な笑顔を浮かべている。

覆面はしていない。

 

「ようこそお越しくださいました。やっぱり来てくれたんですね!」

 

青年は、まっすぐに歩み寄ってくる。

ふたりとの距離が、二メートルほどに縮まった。

 

「あなたが葵さんですね。お会いできて光栄です。僕は光麟(こうりん)。正聖神徒からの使いの者です」

 

青年の言葉に葵が一歩踏み出すより早く、蔵馬がさりげなく前に出た。

光麟はちらりと彼に目をやると、急に表情を引き締めた。

 

「そちらが、蔵馬…」

 

一変して睨むように、彼に冷たい殺気を投げた。

 

(なるほど……。今までのやり方と大きく変えてきたな。葵と一見同年代の若者を使うことで、こちらの油断を誘うつもりか……。それとも別の意図があるのか。いずれにせよ、近くに隠れていることは、わかっている)

 

蔵馬は、研ぎ澄まされた感覚と数千年の経験則から、風向き、光麟の足取り、森の気配、そのすべてを観察し、背後に潜む気配の数と質を読み取る。

 

「葵さん、あなたは隣にいる『妖狐蔵馬』の本性を知らないようですね」

 

青年の口から出たのは、蔵馬を断罪する言葉だった。

 

葵は妖狐蔵馬という音を聞いても、普段と変わらない表情で静かに佇んでいた。

短く揃えた花色の毛先が、肩の上で風に揺れている。

 

「その男は、魔界の伝説の極悪盗賊。妖狐蔵馬と聞けば、氷のような残忍な心と刃のような鋭い妖気をもち、恐ろしく冷たい目をした銀髪の男として、霊界でも恐れられたトップクラスの犯罪者です。殺戮と略奪を繰り返し、その魂は暗黒に染まり汚れている!」

 

光麟の口調は高揚していた。まるで正義の真実を暴露するかのように。

彼の目は、若さ特有のまっすぐさと、信仰による狂気が入り混じっていた。

 

蔵馬は、何も言わず、眉一つ動かすことなく静観していた。

数日前に交わした彼女の言葉が、心に蘇る。

 

『あなたの名前、いい名前よね』

 

(この数奇な巡り合わせも、必然か……)

 

冷静に冷めていく内面で、彼は小さくため息をついた。

 

 

「そんな男と関わるなんて、あなた自身の魂が汚れてしまう。どうか目を覚ましてください……!」

 

興奮気味に一気にまくし立てた後、青年は満足げに蔵馬を一瞥した。

 

蔵馬は動かない。代わりに軽く動いたのは、彼女だった。

 

 

「対話……なのよね?私も話していいかしら?」

 

 

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葵の声は静かだった。いつもより抑揚がなく、良く通るものだった。

だが、その瞳には揺るぎのないものが宿り、透明度を増している。

 

「ええ!もちろんです」

 

「では光麟。あなたが言ったこと、私も聞いたことがあるわ。伝説の極悪盗賊、妖狐蔵馬の話。そして蔵馬が、その伝説の妖狐蔵馬であることも知っている。あなたがそう信じていることを、否定はしない」

 

葵は一歩、蔵馬の前へ出た。

風が凪ぐ。

そして彼女の声は、その池の周囲に波紋を広げ、こだまするように響いた。

 

「……それで、あなたは見たことがあるの?」

 

青年が一瞬、きょとんと目を丸くした。

 

(……さすがだな)

 

その言葉と声音には、反応せずにはいられない力があった。

蔵馬は静かに、彼女の鈴のように澄んだ音を聞き、その横顔を見守った。

 

「あなたの中で、その伝説は真実。それでいいのよ」

 

彼女はわずかに微笑んだ。その笑みには、穏やかで、毅然とした強さが混じっていた。

 

「でも私の知っている蔵馬は、私が今まで接してきた彼。妖狐蔵馬の伝説の話が、真実だろうと嘘だろうと、私と彼との関係は変わらないわ。私がこの人と一緒にいると決めたから」

 

光麟が何か言い返そうとした時、葵はそっと言葉を重ねる。

 

「あなたは、その一つの考えを大切にしているのね。それはまっすぐで誠実だと思う。一方で、私は、様々な考えを知って多方面から考えたいの。だから一つの考えを唯一絶対にしているあなたとは、折り合いがつかないかもしれないわ」

 

その場所にふわっと花が開くように、葵は笑った。

青年のように勢いはなく、熱もない。

ただ、静けさの中にしなやかに彩られた、芯の強さがその場を制する。

 

その言葉は静かに、しっかりと地面に根を下ろすように放たれた。

青年は理由もわからず、二の句が継げぬ状態だった。無意識に拳を握りしめて震えている。言葉を探す前に、すでに自分の立ち位置が問われているような、そんな沈黙。

 

 

風が一陣、鏡池の水面をさざめかせた。

 

蔵馬は心地よくその声を聞いていた。そういえば、彼女の生業は魔界占断師だった。

人の生涯をみて、観察者として適切な言葉を降ろす。

葵の言葉と音には、例えようのない力があることを彼は経験していた。

 

(……君は、本当に強いな)

 

蔵馬の口元に、僅かに笑みが浮かんだ。

その微笑みは、光麟には気づかれない。

しかし、それが彼の中で生まれた確かな誇りだった。

 




次の話で、長い9章が終わります。
霊界編は、正聖神徒の方々が霊界でこんなことをしていたのでは?という妄想を膨らませた内容です。原作最終巻で出てくる彼らに活躍していただきました。

次の話の最後は、私が書いていて好きなシーンとなった一つです。お楽しみただければ幸いです。
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