一瞬の背筋が伸びるような沈黙の後、
「……ふん。あなたは、まるで分かっていない」
声には、先ほどまでの明るさはなかった。
代わりに、確信に満ちた冷ややかさが混じっていた。
「もうすぐ来るんです。大いなる選別の時が。神の聖なる光が、魔を焼き払う聖戦です。来るべき未来において、我々の教義の下に集わぬ者は、すべて滅びることになるでしょう!」
声高に宣言するように、彼は葵をまっすぐ見た。
「今、あなたがどれだけ正しくとも、美しく生きたとしても……その時、選ばれなければ終わりです。だからこそ、いま選ぶべきなんですよ。我らの側に」
風が止んだと同時に、音もしばらく止まった。
蔵馬は見護りの姿勢を貫く。彼女を信頼して。
葵は穏やかに口を開いた。
「……そうなのね。それだと、そこまで生きることが前提になるのではないかしら?」
光麟は眉をひそめた。彼女が何を言っているのかわからないという顔だった。
葵は一歩前に出る。そして静かに、確実に言葉を放つ。
「私は妖怪よ。今日明日どころか、1秒後の命さえ、保障されていないところで生きている。私にとって、この生を生きるというのはそういうこと。だからこそ、いつ人生の終焉になっても悔いのないよう、今を丁寧に選び、深く生きるわ。誰かに選ばれるためではなくて、私が選ぶために」
風が草木を揺らし、葵の髪がふわりと舞った。
その瞬間、彼女の中にある何か深い在り方が、空気にまでにじみ出す。
もうこの空間は、彼女の色に染まっていた。
(オレの心配は、杞憂だったようだな……)
蔵馬の心に、深い静かな確信が芽生えた。
目の前の青年に向けられた葵の言葉は、蔵馬の胸にも深く響いた。
彼女を誇らしいと、そしてその生き様を、愛おしいと感じた。
そんな中でも、蔵馬は五感を研ぎ澄まし、周囲への注意を怠らない。
光麟の口唇がわずかに震える。彼の中で、ほんのかすかに、何かが揺らぎ始めていた。
彼にとって、唯一無二の正しさが通用しない脅威と対峙した。
恐れ以上に、別の感情が静かに湧きあがる。
葵が言葉を静かに終えると、場の空気は冬の朝のように凛と静まり返っていた。
池に波紋すら立たない静寂。
光麟は微動だにせず、目の前の葵をただ見つめていた。その眼差しに、最初のような高揚感や狂信に満ちた力強さはなかった。
代わりに、少しの戸惑いと、わずかな困惑が浮かんでいた。
「だって、僕は……信じてきたんだ。『正しさ』というものを。人々を導くために、力を持って、闇を滅ぼすことがやるべきことだと。それが、あなたの言葉を聞いて、違うと思い始めている…。僕はどうすればいいんだっ」
感情的になる声に、水面が震える。
葵はしばらく沈黙を守った。そして彼の心の揺れを受け止めた。
青年の葛藤が、肌感覚で伝わる中、彼女はさらに近づいた。
そして、今自分の中から自然に生まれ出でた言葉を告げる。
「誰かが決めた正しさではなくて、あなた自身が、いま、何を思っているのか。それを感じる勇気を持って。確定していない未来を恐れて選ぶのではなく、今を深く生きて。あなた自身のために」
青年は息をのんだ。そして彼女のまっすぐな眼差しに耐え切れず、目を逸らした。
胸の奥に押し込めていた何かを、葵の言葉がそっと浮上させたようだった。
その瞬間だった。
(……来る)
蔵馬の目がわずかに細まる。音もなく、彼は動いた。
空気が、緊張に凍りついた。
「葵!下がれ!」
風を切ったように、素早く少年の背後に別の男が飛び出した。
殺意をむき出しにした剣を、少年と葵めがけて一気に突き立てた。
二人の距離はわずか1メートルもない。
鋭い風を裂く音が響く。
男の剣は、少年の体を貫く。そして彼女の命も奪うはずだった。
カンッ!
金属を打ち付けたような乾いた音がして、剣は彼女の体に到達しなかった。
葵の左手首から、トゲのある硬い葉が放射状に弾け広がり、彼女の体を覆った。
魔界の多肉植物、ディッキアだった。
魔界随一強靭な葉肉をもち、盾や防具などに加工されている。
培地としての葵の体と相性が良かったようで、前面だけでなく背面まで、灰色の葉が大きく広がり、宿主である彼女を護っていた。
男が驚愕の声をあげたその刹那。
「……っ!?」
閃光のような動きで、蔵馬が植物の剣を放った。
鋭く、無駄のない軌道で、男を亡き者にした。
主犯格の男は呻き声を上げる間もなく、地面に倒れた。
そして、葵の目の前にいた少年も、その命を終えていた。
鋭いトゲがある葉に覆われながらも、妖怪の動体視力で葵は目の前で瞬時に何が起きたのか、わかっていた。
男の剣が迫り、目の前の命が消える。その瞬間を、鮮明に、痛いほどに。
数分前まで話していた青年は息を引き取り、自分は生きている。
このデッドラインを分かつのは、蔵馬が刻印したお護りだった。
「葵。怪我はないか?」
蔵馬の穏やかな声が耳に届いた。
優しく包み込むような視線と声音に、葵はやっと自分がかすかに肩を震わせていることに気づいた。
「……ええ」
答えた声も、小さく震えていた。視線は足元の地面に落ちたまま、動かない。
蔵馬はそっと彼女に歩み寄った。決して急かさず、そっと彼女の呼吸に寄り添う。
「……蔵馬。ここから出るには、どうしたら?」
それは、かろうじて絞り出すような問いかけだった。
静けさに満ちた空間の中で、ひときわ繊細な響き。
蔵馬は穏やかに頷いた。
「……少し、待っていてくれ」
秀でた五感で、用心深く辺りの気配を確認する。耳ではなく、気配で聴く。
風の流れ、草木の震え、生き物たちの気を読み取る。
(……逃げたか)
部下ごと葵をくし刺しにしようとしたところを考えると、恐らく依代として引き入れるのを断念したのだろう。
主を失った今、撤退した
蔵馬はひとつ深く息を吐くと、そっと彼女のもとに戻った。
「今、解除する」
蔵馬がディッキアに妖気を通すと、灰色の葉は音もなく彼女の体からほどけていった。
役目を終えたものたちが静かに退いていくように。
防護の植物が消えると同時に、葵はふらりと膝をついた。
目の前には、倒れた青年の姿。
風も止まり、時間すらそこに留まっているようだった。
「……。」
その背中は、しおれた花のように小さく揺れていた。
蔵馬はそっと距離を保ったまま、彼女の背を見つめる。
そのうち、小さく声を押し殺すのが聞こえてきた。
「自分が……どうして泣いているのか、わからないの…」
痛いほど真っ直ぐな声だった。
葵は静かに涙を流しながら、震える指でそっと少年の体を撫でた。
「命の終わりも、祝福のはずなのに……どうしても、涙が出るのね」
その純粋な悲しみを、蔵馬は否定しなかった。代わりに、静かに言葉を紡ぐ。
「……彼は最期、君に救われて旅立っただろう」
蔵馬の声は、穏やかに彼女にそっと寄り添っていた。
目を閉じた青年の顔は、どこか安らかだった。
生と死のあわいで、一瞬だけ彼は心の奥深くから何かを癒した。
彼女の存在に共鳴するように。
細い肩が小さく震えている。
葵の涙が、地面に吸い込まれる。熱くて、切ない温度だった。
それもまた、ひとつの祈りだった。
出会いの短さとは関係なく、その存在に対する感謝と別れを捧げるために。
やがて、二人は青年を丁重に弔った。
彼女の意志に応えるように、青年の体を草花がおおっていく。
紫と白の細い花びらをもつ、名もなき花。
淡い光を抱いた草の茎。
別れと、感謝と、祝福と。
命の終わりを静かに見送り、魂を天へと送り出すための、花葬。
それは、死を否定せず、ただ静かに受け止める祈りだった。
西陽が、空を赤く染めていた。
葵はゆっくりと目を閉じ、胸の前でそっと手を合わせる。
(……ありがとう)
言葉にはならなかったその感情を、風がそっと運んでいった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
その日の夜。
彼女の髪の色は、時間と共にほぼ象牙色に変化していた。
風が吹く爽やかな空に、三日月が顔を出した。
二人は洞窟の外に出て、静かに夜空を見ていた。
(おそらく神託の期間が終わり、正聖神党はもう葵を狙わないだろう……)
そう蔵馬は思った。
彼の頭の中は、これからのことを考えて忙しく働いていた。
ふと隣にいる彼女に意識を向けた。
その時、葵の手が蔵馬の頬に触れた。
少しひんやりとした頬に、彼女の指先は温かかった。
彼は少し驚いて、葵の深い瞳を見た。
月の光を宿すその瞳は、まっすぐに彼の心をひと目で見透かしていた。
「何か……言いたそうな顔をしているわ」
「……葵には、かなわないな」
蔵馬は、苦笑しながらその手に自分の手を重ねた。
この人の温もりと、星を宿したような瞳に自分はどこまでも弱い。
静かに、その瞳でしばらく彼女を抱きしめた。
そして言うつもりはなかった心の奥を、蔵馬は素直に打ち明けた。
「……オレの魔界での通り名、知ってたんだね」
「ええ」
葵は柔らかく頷きながら、その手をゆっくりと降ろした。
彼女は驚きも、戸惑いもなく、いつもの表情で自分を見ていた。
「さっき君が言っていたこと、真理だと思った。そして嬉しかった」
極悪非道盗賊、妖狐蔵馬の伝説を知っていたうえで、そこを超えて蔵馬という名前を肯定してくれた。
そして自分の本質を信じてくれた。
この悪名を気にしているわけではない。
ただ、心の奥で何か詰まっていたものが、葵の言葉で泡のように消えていった。
始めから、それがなかったように。
「私にとっての蔵馬は、実際に一緒に過ごして、私がみてきたあなただから。もちろん妖狐だった頃のあなたを、否定しているわけじゃないのよ。でも、過去は変わることもあるの」
「……そうだな」
(君のおかげで、オレの過去は何度も変わっている……)
出来事そのものは変わらない。
それは、過去の出来事に対する、自分の感情が昇華されたということだった。
重たかった記憶が、彼女の言葉で音もなく軽くなる。奇跡のように。
「あなたは、昔の自分も、今の自分も気に入っているんでしょう?」
「……ああ」
「それでいいのよ。全部あなただから。私には、その深さが輝いて見えるの」
葵の声は、月明かりに溶けるように柔らかく、優しかった。
赦されようと思っていたわけじゃない。
でも蔵馬は、今この瞬間、自分を赦し、何かに赦されたように感じた。
「葵は……本当に、殺し文句を言うね」
こんなにも心の奥まで踏み込まれて、なお、心地いい。
何度その真心に落とされたかわからない。
そしてどれだけ言葉を尽くしても、それと並べるものが見つからない。
だから蔵馬は、ひねりも誇張もせず、自分の心に正直に言葉を返す。
彼はそっと両手で彼女の頬に触れた。彼女の肌と、自分の手の温度は同じだった。
護りたい大切な人、そして自分を恋い焦がれさせる唯一無二の存在。
蔵馬は、万感の想いを音にのせた。
「……オレは、葵の名前、好きだよ」
その言葉に、葵の瞳がふわりと輝いた。
言い終わると同時に、蔵馬は彼女の口唇に口づけた。
急がず、優しく、祈りを重ねるように。
葵は目を閉じ、その包容を静かに受け入れた。
一瞬、言葉の意味をそのまま受け止めようとして、その奥に潜んでいた熱が、胸の奥で静かに灯った。
これは単なる「名前」の話ではなくて。彼が今、自分に向けてくれたこの言葉は……。
(私という存在をまるごと、その名を呼ぶことで愛してくれている……)
ただ、「好き」というよりも、蔵馬の繊細で深い想いが伝わる。
口元が、ふわりと緩んだ。
月が、今だけ少し大きく見えた気がした。
涙がこぼれそうになるのをこらえて、代わりに、彼の慈愛に満ちた瞳を見つめ返す。
「……嬉しいわ」
たった一言しか返せなかったけれど、それ以上の言葉は、もう必要なかった。
夜空の下、花が咲くような笑顔に、蔵馬も柔らかく微笑んだ。
心の奥の水面が、優しく揺れていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
おまけ♢
「期間が終わってから、正聖神党の襲撃はなくなった。葵は、無事に魔界へ戻りました」
静かな霊界の執務室で、蔵馬はコエンマに報告を終えた。
コエンマはふうっと深くため息をつき、背もたれに体を預けた。
「お前もご苦労だったな。……身内の不始末を、お前に尻拭いさせる形になったかもしれん。」
「彼女を巻き込むきっかけを作ったのは、オレですから」
わずかに眉をひそめたコエンマが、柔らかい声で尋ねた。
「お前や葵に怪我はないか?」
その問いに、蔵馬は一瞬だけ答えに詰まった。
瞼の裏に、短くなった葵の髪がふわりと揺れる光景が蘇る。胸の奥が小さく疼く。
「……オレの方は、大丈夫です。葵は……一時負傷しましたが、もう治癒しています」
「……そうか」
コエンマは、しばらく蔵馬をじっと見つめた後、ふっと表情を和らげた。
「すまなかったな。今回の見舞いには……高級メロンに高級マンゴーでも付けるとするかの」
冗談めかして言うコエンマに、蔵馬は小さく微笑みを返した。
これで9章終了です。10章からは境界トンネル~魔界編にまつわる内容となります。
蔵馬と葵は、戦いの度に離れ、また近づくことを繰り返していきます。
愛の深化が問われていく中、9章とはまた違った二人の成長の物語をお楽しみいただければと思います。
ご感想、励みになっています。読んでいただき、ありがとうございます。
蔵馬を人間としての生を生きるきっかけを作った霊界に対して、グッジョブという敬意を表します。彼らのおかげで、蔵馬はより魅力的に強く華麗になった。
ヘーゼル。