アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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人間と妖狐の狭間で

霊界から出たら、夜になっていた。

葵は人間界の公園に佇んでいた。

灯りの少ない並木道。夜風がゆっくりと木の葉を揺らし、月が高い空から見守っていた。

 

どうしても、蔵馬に伝えなければならないことがあった。

 

『命にかかわることで黙っているのは、お互いなしだ』

 

以前彼から言われて、お互い合意していたことだ。

コエンマの話を聞いて、葵は確信していた。

 

蔵馬が先の戦いで妖狐本来の力を取り戻したと。

 

自分に残された時間が迫っている可能性を、彼には言っておきたかった。

 

花の命は短い。

 

彼女は魔界の花から生まれた妖怪だった。

いずれこの体も、終わりを迎える日が来る。

 

もちろん、最近体調に特別な変化があるわけではない。

蔵馬の十全な配慮のおかげで、人間界で姿が透けることはなく、長く体の維持ができるようになった。

 

しかし生命は、生まれて生を全うして、死ぬ。この輪廻から外れることはない。

妖怪の寿命が長いとしても、不死の性質がなければいずれ寿命はくる。

 

(未来は、確定していないけど。言わずにその日が来るのは、私も望まない……)

 

 

自分の寿命については、前にも軽く触れているが、その時と今では関係性が異なる。

彼のことが大切だからこそ、一生分も大切にしてもらっているからこそ、もう一度伝える必要があると思っていた。

 

その夜風の中に、葵の髪がふわりと揺れた。

決意と静けさ、そして切なさが、彼女の眼差しに色を添える。

月を仰ぎ、同じ世界にいるかの人を想う。

 

 

 

一方、魔界での戦いは終息したが、蔵馬の胸中には、いまだ微かなざわめきが残っていた。

その最たるものが、葵の消息だった。

 

戦いの後、彼女とは一度も顔を合わせていない。

 

(魔界に戻っているのだろう……)

 

そう結論づけていた矢先だった。

ある深夜に、かつての盗賊時代に副将だった黄泉の使者が、言霊をたくしに来た。

 

過去が追いかけてくるように、昔の記憶がよみがえる。

魔界の妖狐蔵馬だったころの自分と対峙する。

 

(……この数奇な巡り合わせ。吉と出るか凶と出るか……)

 

黄泉からの誘いに、彼は応えるつもりだった。それが今の蔵馬にとって最善の選択だった。

人間としての生活もあり、条件付きで魔界にいく。

その前に、色々と準備をする必要があった。

 

蔵馬は自分がいない間に、守る人たちのことを考えていた。

特に葵をどうするか、迷っていた。そんな折、彼女の消息が未だ分からない。

 

(……まさか、もうすでに黄泉の手に落ちているのか…?)

 

瞬間、思考が乱れる。冷静沈着なこの男が、感情的になっていた。

普段はこれほど不安になることはないが、今日は妙に心が騒ぐ。

 

(……はやるな。彼女なら……)

 

高校からの帰宅途中、回転が速い彼の頭脳は忙しく動いていた。

その時だった。

 

「……っ!」

 

蔵馬はふわりと香る、どこか懐かしい安息の匂いを感じた。

全身の細胞がざわめく。五感が、彼女の存在を告げていた。

 

 

 

家の前。扉を開けた瞬間、その予感は現実に変わった。

 

「お邪魔してます」

 

リビングで朗らかに話す母といる葵。

彼女の柔らかい声と、花笑む顔を見た瞬間、体が熱くなり、血が通っていくようだった。

蔵馬の中で、張り詰めていた何かが緩んでいく。

 

「また木の上で待っているところを、お母さんに見つかって。家に招いてもらったの」

 

小声で打ち明けるように話す仕草が、あまりにも葵らしくて。

あらゆる詮索をしていた思考の時間はなんだったのかと、もう一人の自分が言っている。

 

「結婚式のことで、話を聞いてもらっていたの。葵ちゃんにもぜひ来てもらおうと思うんだけど、秀一はどうかしら?」

 

「……うん、オレもそう思ってたよ」

 

それは、今秋再婚予定の彼の母の結婚式のことだった。

母から葵を招待したいと聞いて、心臓がまた優しく音を立てた。

 

この日常に葵がいる。

当たり前だった光景が戻ってきて、蔵馬の胸は静かに熱くなった。

いろんな感情が溢れて、口数は少なくなっていく。

 

「そういえば、葵ちゃん。髪の毛、切ったのね。短いのも似合ってるわ。どこで切ったの?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ありがとうございます。秀一君に、切ってもらったんです」

 

指先でそっと、襟足をなぞるように触れる彼女。その言葉も仕草もごく自然だった。

自分の名前が出て、蔵馬は少し驚いて彼女を見た。

そこは、濁すと思っていた。

 

「秀一が?器用だとは思ってたけど、女の子の髪も切れるのね。可愛くできてるわよ」

 

 

数週間前、正聖神党から襲撃を受けた際に、燃えて無くなった彼女の髪の一部。

その愛してやまない花髪を、自分の手で整えた何とも言えない記憶がよみがえる。

それが今、彼女の口から、何気なく語られることで、彼の中の感情が静かに別のものへと転じる。

 

(本当に……君にはかなわないな…)

 

言葉には出さず、蔵馬は目を細めて、葵と母の会話を眺めていた。

心の奥が温かく、揺れている。

 

この穏やかな時間。

少し先の未来に戦いが待つ中にあっても、この日常は確かに存在していた。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

夕暮れの光が街の輪郭を淡く染める時刻。

 

葵は一度蔵馬の家を出たあと、いつものように二階の彼の部屋の窓からそっと身を滑らせた。

その瞬間だった。

 

「……!」

 

何の前触れもなく、細い手首が掴まれた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

視界は一瞬にしてぐらりと揺れて、壁と天井が脈打つようにブレて見える。

体が引き寄せられるにつれて、目の前には蔵馬の胸元が急速に迫ってくる。

 

気づいたら強く抱きしめられていた。

彼の熱と鼓動が、肌ごしに伝わってくる。

 

「っ蔵馬?」

 

「………なんでもない。ただ、今はしばらく、このままで……」

 

声を低く押し込めながらも、ほんのわずかに影を含んだ音。

部屋の空気が振動する。

 

葵はわずかに視線を上げる。しかし、蔵馬の顔は自分の肩口にうずめられていて見えない。

首筋に、彼の熱い息遣いを感じる。肩に落ちる吐息が、肌を焦がす。

今日の彼の匂いは、少しビターで神秘的な香りがした。

 

 

(やっと……君をこうして感じることができる…)

 

境界トンネルの戦いに行く前、蔵馬は葵を抱きしめたい衝動を押し殺した。

それが今、抑えきれずに解き放たれた。

 

彼女の匂い、酔芙蓉の香りが濃くなるのを感じた。

 

(オレは、こんなにも、不安だったのか……)

 

彼女を視界に収めたとき以上に、触れている今、心が静かに満ちていく。

いつもと変わらず、身をゆだねている彼女の髪や背中の感触を手に感じ、夢ではないと実感できる。

 

だが、その安堵と同時に、先ほど危惧した思考がまた戻ってきた。

仮定でも想像したくないが、もし彼女を失うことになったら。

 

(オレは……耐えられないっ…)

 

心臓を冷たい刃でなぞられるような感覚。

それは、蔵馬と呼ばれる男にとっても、容易く超えることのできない痛みだった。

 

 

葵は、はっきりと鳴り響く蔵馬の心音を聞いていた。

伝わる拍動が、いつもより主張して何かを訴えている。

境界トンネルの戦いの後、自分が知らない何かがあったんだろう。

 

(この人は……心に何かを抱えている)

 

そう思ったとき、突然、目に映る光景が、静かに色を変えていった。

彼女が目にしていた蔵馬の制服が、長い髪が、グラデーションのように変わっていく。

 

白い装束に輝く銀髪。

触れる胸板や腕は普段の彼よりたくましく、彼女を抱く男は、鋭く涼やかな妖気をまとっていた。

 

 

「……蔵、馬っ」

 

 

【挿絵表示】

 

 

葵の少し高い声音に、蔵馬ははっとして彼女を見下ろした。

少し驚きつつも、まっすぐな葵の澄んだ目に映るのは、妖狐の自分の姿だった。

 

金色の双眸が月華のように光る。

彼自身、妖狐に戻っていたことに気づくのが遅れて、小さく息を呑む。

 

夕日の中、鮮やかに輝く瞳と、星を宿したような深い瞳が合わさる。

それぞれの輝きが、互いを映し出す。

 

一瞬、彼の手が彼女の頬に伸びかけたが、蔵馬はそれを理性で封じた。

そして、再び彼女の息まで包むように、強く胸にかき抱いた。

 

(次に目が合えば……今のオレは、何をするかわからない…)

 

葵の呼吸が、彼の中に閉じ込められる。

息苦しくはないのに、胸が切なくて、苦しい想いになる。

彼の体は、燃えるように熱かった。

 

(蔵馬……)

 

よく知る蔵馬とは異なる力強い腕は、葵の腰を引き寄せるように抱きしめる。

足が宙に浮き、その首筋には彼の熱い口唇が触れている。

 

どうしたらいいかわからない、どうかしようもなくて、葵は静かに彼の音を聞いていた。

 

 

数分後。

蔵馬はゆっくりと顔を上げると、ふぅとゆっくりと息と共に熱を吐いた。

そのまま床に腰を下ろし、自分の懐に、葵を収めるように抱え直す。

 

彼女の頬に伝わる胸の鼓動の振動と、彼の背中に回した手のひらから伝わる脈打つ響きは、未だ少し早い。

 

「何か、あったの?鼓動が早いわ……」

 

妖狐の耳がわずかに動いた。

その潤いのある声は、彼の心の渇きを満たしつつも、淡く刺激する。

 

「……そうだな。また話せる時になったら話す」

 

(今は……こうすることしかできん…)

 

普段の彼とは違う妖狐の蔵馬の声は、水の波紋のように彼女の体に響く。

熱い体とは対照的に、その声は涼やかで、何かを鎮めているようだった。

 

 

日が傾きオレンジ色に染まる部屋の中、言おうと思っていたことを、葵は言えなかった。

こんな蔵馬を見るのは、初めてだった。

彼の心の奥に隠れている、痛みに触れてしまったから。

 

(あなたは…今のように、一人で心を痛めているのね……)

 

「蔵馬。あなたの心ゆくまで、そばにいるわ」

 

葵は、いつもよりも広い彼の背中をゆっくり撫でた。

彼より幾分も小さなその手の存在は、大きかった。

労わり、寄り添う心に包まれているようだった。世界の輪郭が柔らかくなっていく。

 

蔵馬は、しばらくして目を閉じた。

 

(……お前は、どんなオレも受け止めてくれるんだな…)

 

 

その温もりの中で、彼はほんの僅か、今の自分を委ねることを自分に許した。

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

♢蔵馬視点

 

蔵馬の胸の奥に、抑えていた何かが、音もなく崩れた。

境界トンネルでの戦いの前、あれほどまでに押し殺した衝動。

その続きが、今彼の中で息を吹き返していた。

 

目の前の彼女を、抱きしめて、確かめたい。

その思いが臨界を越えて、気づけば腕が伸びていた。

 

彼女の軽い体を引き寄せた瞬間、五感がすべて、葵を映し出す。

手のひらに伝わる細い肩の温もり、指先に絡まる髪の質感、肩口に感じるどこか懐かしい安息の香り。

葵の命そのものに触れて、心がほどけ、ふっと息が洩れた。

 

(やっと……君をこうして感じることができる…)

 

この一瞬のために、どれほどの時間を堪えてきただろう。

言葉にすれば崩れてしまいそうな衝動を、すべて胸の奥に押し込めていた。

それが今、静かに堰を切った。

 

彼女は、変わらずそこにいる。

逃げない。怯えない。ただ静かに、身を預けてくれている。

その当たり前のことにさえ、蔵馬の胸は震えるほど安堵した。

 

(……オレは、こんなにも不安だったのか)

 

戦いの前よりも、ずっと深く。

だからこそ、今この瞬間、目の前にいる彼女の存在が重く胸にのしかかる。

生きてここにいる。肌の下で、確かに鼓動がある。

だが、その安堵の先に忍び込む影。

 

(もし彼女を失ったら……)

 

蔵馬の胸に、冷たい予感が走る。 思うだけで喉が焼けつく。

仮定でさえ苦しいのに、 想像すれば、心が裂ける。

 

(オレは……耐えられないっ…)

 

この腕の中から、その存在が消える。それだけは、どうしても嫌だ。

かつて何度も奪い、失い、裏切り、見捨ててきたはずのこの手が。

いま、葵にだけは、絶対にそれを許せないと思っている。

 

 

その時だった。 腕の中の彼女の気配が微かに揺れた。

葵の瞳が蔵馬を映す。

その視線に触れた瞬間、蔵馬はようやく気づいた。

己の姿が、人のものではないことに。

 

鋭く、冷たい妖気。長い銀髪、白い装束。

妖狐、本来の姿が露わになっていた。

遅すぎる気づきに、胸の奥がざわついた。

 

夕焼けの光の中、驚きの色を浮かべた深い彼女の目と、蔵馬の戸惑う金色の瞳が重なる。

 

その瞬間、世界が一度だけ、静かに凪いだ。

心の奥の理性という水面が波打っている。

 

(次に目が合えば……今のオレは、何をするかわからない…)

 

理性の壁が脆く崩れかけている。

苦しさにも似た熱が、胸を満たす。

彼女の香りが、息遣いが、鼓動が、すべて自分の中に流れ込んでくる。

それが苦しいほどに愛おしい。

 

だから再び、蔵馬は強く抱きしめる。

包み込むように。閉じ込めるように。これ以上何も起きぬように。

 

(今は……こうすることしかできん…)

 

妖狐の姿のまま、その熱と衝動を必死に鎮める。

言葉では伝えきれない想いを、静かに、ただこの腕に込めた。

 

彼女がそっと背に回した手が、温かい。

不思議なほど心地よく、蔵馬の張りつめた心を溶かしていく。

 

(お前は……どんなオレも受け止めてくれるんだな)

 

南野秀一の姿でも、妖狐の姿でも。

この混じりあった矛盾をも内包する存在ごと、彼女は抱こうとしてくれる。

それがどれほど救いか。どれほど、恐ろしいほどの幸福か。

 

 

蔵馬はそっと目を閉じた。 彼女の声も、感触も、香りも。

全身で受け止め、すべてを深く刻もうとしていた。

 

(この瞬間だけは……何も失わない)

 

橙に染まる静かな部屋の中で、彼はただ、葵の存在の重さを確かめ続けていた。

 




最後までお読みいただきありがとうございました。
この蔵馬がキレて自覚なしで妖狐になってしまっていたというシーンは、書きたかったものです。冷静沈着な妖怪の蔵馬として、人間南野秀一としての生の経験から心が揺れ動く様。これは原作にはない、人間として愛を知った蔵馬を深堀したものを描いています。

10章は、蔵馬が魔界に行くまで、葵との様子を中心に進行していきます。
今後ともお楽しみいただければ嬉しいです。
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