6月のある穏やかな休日。
葵は蔵馬の部屋を訪れた。窓が開け放たれ、薄いレース越しに彼の部屋が見える。
覗き込むと、ベッドに横たわる蔵馬の姿。
珍しく彼は眠っていた。
(……寝ている?)
そう思うと、不思議なことに足音を忍ばせるようになってしまう。
彼を起こさぬように、ゆっくりと室内に入り、そっとベッドの脇に腰を下ろした。
そしてまじまじとその寝顔を見つめた。
目鼻立ちが整った顔は、眠っている姿ですら、どこか絵になる男だった。
閉じた瞼の曲線が美しく、そこに沿うまつ毛も程よい長さだった。
妖怪にしては細身で、しなやかな肢体。
それでも彼女と比べるとたくましく、均整の取れた体型だった。
癖のある長い髪はベッドに広がり、日差しを受けて艶やかに光っていた。
(……麗しい人ね)
改めて観察すると、眉目秀麗という言葉がそのまま形になったような容姿だった。
人の姿をした彼と、妖狐としての彼。そのギャップが、蔵馬の魅力を引き立てている。
ふと、葵は先日妖狐の蔵馬と邂逅したことを思い出した。
彼は完全に本来の力を取り戻していた。いや、前以上の妖力を得ていた。
(あなたは……どんどん強くなっていくのね…)
どこか切なくて、そこはかとない幻想感が心を占める。
「……っ」
目の前の男の形の良い口元から、小さく声がもれた。
(…今日は……出直そう)
休息の邪魔をしてはいけないと思い、葵は立ち上がろうと腰を上げた。
その瞬間だった。
静かに手が伸びた。
左肩を引き寄せられ、体が前に倒れ込む。
「え……っ…」
視界が揺れる中、言葉と息が飲み込まれ、気づいたら蔵馬と口唇を合わせていた。
静かに心をくすぐる涼やかな匂いが、葵の鼻先をくすぐる。
柔らかな口づけ。
深くはないが、意表を突かれて葵の鼓動が、自然と速まっていく。
蔵馬は、まどろんでいるところだった。
夢の中、葵と話していると、彼女の香りが妙にリアルに感じた。
現実のように鼻腔をくすぐり、意識がゆっくり浮上していく。
瞼を開けなくても、すぐ近くに葵がいることを感じた。
そのまま狸寝入りの状態にはいり、様子を窺う。
柔らかい視線が、自分を見つめている気配が伝わってくる。
手に取るように感じる呼吸。
彼女は何を想っているんだろう。
その心が育つのを待ちたい自分と、その心を覗き見たい自分、その心を奪いたいと急く自分がいる。
葵が立ち上がろうとした瞬間、蔵馬は動いた。
気配無く、右手で彼女の左肩を引き寄せる。穏やかでありながら、決して逃さぬように。
そして口づけた。
ほんのり甘い安息の香りと、滑らかな花びらを思わせる口唇。
夢の続きのように、陶酔する。
蔵馬の左手が、葵の首を支える。
引き寄せてわかった。彼女の胸がいつになく早く高鳴っていた。
(珍しいな……)
理由はわからないが、そんな葵の反応も愛おしいと感じる。
合わさる口唇の動きは、時に吐息さえもついばむように、時に噛みつくように甘く、深く味わう。
もはや寝起き直後にできる行動ではない。
甘美な口唇を堪能して、蔵馬は葵を解放した。
驚きつつも、少し恍惚の色が混ざる表情は、なかなか見ごたえがあった。
(……これは少しやりすぎたか。でも止められなかった)
今まで彼が積極的に愛情表現をして、彼女は全て受け入れてきた。
だからこそ、ギリギリのラインを見極めるように求めてしまう。
葵が返す反応が嬉しくて、もっと見たくなる。
「いらっしゃい」
瞼を開けた彼は、余裕の表情で艶のある声だった。
間近で、深い瞳同士が出会う。
呼吸を整えた後、葵は少し何とも言えない表情で口を開いた。
「……蔵馬。寝たふりしてた?」
「そうだなぁ。正確には途中からかな。眠っていて、君が来たことに気づいて……起きたんだ」
「起こさないように、気配を消していたのに」
彼女なりの気遣いは、わかっていた。
ただ、気配を消すだけでは、彼の鋭敏な五感で嗅ぎ分けられてしまう。
「君の場合、香りでわかるよ」
「そんなにするの?」
葵は、自分の手の甲を近づけ、そっと匂いを確かめた。
その仕草に、蔵馬はふっと笑みをこぼした。
「オレは、嗅覚が発達しているから、わかるんだ」
そう言いながら、葵の頬にそっと触れた。
滑らかでしっとりとした感触は、彼女の髪とよく似ている。
先ほどの理性を超えた本能的な行動の名残が、彼の手を素直にする。
心地よい余韻の中、蔵馬は彼女の瞳に静かに問いかけた。
「葵は……どうしてオレの愛情表現を、全部受け入れてくれるの?」
彼の深い瞳が、かすかに光る。理由は聞かなくてもだいたいわかっている。
でも葵の口からどのような言葉が返ってくるのか、彼は知りたくて。
その言葉と声を聞きたくて、そう告げる。
愛しいものを、ただ抱きたい。
けれど、壊してしまうかもしれない自分もいる。
それでも、彼女はきっと受け止めてくれる。
(……だから、怖いほど好きなんだ)
蔵馬の瞳が揺れる。
その深い問いに、葵はまっすぐに彼を見つめ返した。
透き通るような瞳の奥は、星屑のように輝き、見るものを魅了する。
そしてその小さい口が開いた。
「嬉しそうなあなたを見ると、私も嬉しいから」
柔らかな言葉には、静かな力があった。
(……そう来るか)
蔵馬は内心、微かに息を漏らした。
やはり彼女は、自分の予想を超えてくる。
葵の返答は、決して情熱的ではない。
しかし淡々とした声の中に、彼女の奥ゆかしい想いが揺れている。
それは、好きだから、愛しているからという言葉を超えている。
本人に自覚はないかもしれないが。
葵は言葉で、言葉以外で蔵馬の心と魂を震わせる。
「……じゃあ……もっとしてもいい?」
今度は蔵馬の瞳に、魔の色が差した。声に艶やかさと、清らかな吐息が増す。
彼の長い指が、葵の頬をゆっくりと撫でる。そして、想い人の反応を優雅に待つ。
この状況で、彼女は少し真面目に考えた。
蔵馬の前の大きな目が上を向き、そしてふっと笑って再び彼と視線を合わせた。
「あなたに、ゆだねるわ」
意図的な企みに対して、彼女は花が綻ぶような微笑みで、自分にゆだねると言ってくる。
理屈ではなく、自然にそう言えるのだろう。
どこか抜けたような優しさで、彼の魔性をやんわりと受け止めて流してしまった。
(毒気を抜かれる、とはこういうことか……)
蔵馬は肩の力を抜いた。
理性の限界を測るように、甘く自ら仕掛けておきながら、彼女の返答に不思議と心が鎮まっていく。
絶対的な信頼と、理性の試練が表裏一体。
仕掛けたのはこちらなのに、逆に葵はさらに理性を試してくる。
そしてしなやかに、彼を元の所に戻している。意図しなくても。
「……それじゃあ、ほどほどにもっとする」
蔵馬は声を潜めてそう告げると、長い指先が頬を滑って、髪をといていく。
そして滑らかで、つややかな髪を一束すくうと、口づけた。
目を細めながら、慈しむように。
(あなたは……そうやって私を大切にしてくれるのね)
彼の口唇が触れているのは髪なのに、素肌に優しく触れているように感じた。
蔵馬の手の動きには、常に余白と、静かな情熱がある。
全身が、包み込まれているようだった。
「君の夢を……見ていたんだ」
「どんな夢?」
「……それは、秘密」
含みを含んだ上目遣いでくすりと笑うと、彼はベッドから身を起こした。
夢と現実の狭間から抜け出すように、静かに。
立ち上がった瞬間、彼の纏う気配がわずかに変わった。いつもの距離感が戻る。
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♢おまけ 蔵馬の見ていた葵の夢
夜も更けて、静かな雨が軽く窓を叩いていた。
部屋の隅に置かれた灯りだけが、ふたりの輪郭を柔らかく照らしていた。
蔵馬は静かに葵を見つめると、その頬にかかった髪を指先で払う。
触れるか触れないかの距離で、やわらかく、優しく。
その仕草には、焦りも迷いも欲もない。ただ慈しみの気配だけ。
その手をとめた後も、彼は葵を見つめ続けていた。
まっすぐに、優しく。
けれどその瞳の奥には、静かで深い水面のような、言葉には還元できない感情があった。
「……そんな目で見られると、吸い込まれそうだわ」
「……そうか。また照れてる?」
「…きっと、そうね」
蔵馬は言葉少なに応じながら、彼女の指先にそっと自分の指を重ねた。
強くなく、頼るようでもなく。ただ、そこにいることだけを確かめるように。
(愛しているなんて………簡単に言えないんだ…)
心の奥で、そっと呟いた。
彼が抱く想いは、言葉にすると壊れてしまいそうなほど繊細で。
蔵馬はふっと微笑んで、柔らかく繊細な艶のある声で告げた。
「すべてを言葉にしてしまうには、この想いは、あまりに静かで深すぎるんだ……」
葵が、驚いたように彼を見上げる。
「言葉は……時に、足りないから」
たくさんの想いが何層にも積み上げられた音は、彼女の体と心を震わす。
葵は静かに微笑んだ。
「でも、ちゃんと…伝わってるわ。あなたの静けさの中に、あるものが」
蔵馬は何も言わなかった。ただそのまま、彼女の手を離さずにいた。
雨音がふたりを包む。いつかの日の続きのようだった。
葵の匂い、どこか懐かしい安息の香りが彼の嗅覚から脳に刺激を与える。
蔵馬はゆっくりと息を吸った。彼女の存在を、確かに感じていた。
そこで、心臓が音を立てたことで気づいた。
(……オレは…今、夢を見ている…)
そう、夢の中にも、夢の外にも葵がいた。
蔵馬は、深く息を吸った。
夢の外の彼女がこちらを見つめる気配、息遣いがはっきりとわかる。
そこから、彼は狸寝入りに入った。
ほんの一瞬、葵が立ち去ろうとする気配がしたとき、彼の指が動いた。
反射のように、迷いなく。
(帰らず、このまま傍にいてくれ……)
左肩を引き寄せると、すべてが再び重なった。
現実と夢の境界で、蔵馬はただ一つ、確かな願いを刻んでいた。
相変わらず、理性と本能の間で揺れる蔵馬。
狐が狸寝入りすることってあるのだろうか。