アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

55 / 90
時系列:境界トンネルの戦い後~結婚式前まで。
少し切ない蔵馬の回。

本当は9/10投稿予定だったのですが、編集の過程で手が滑り、9/9更新となっております。
次回更新9/13予定。


10.5章 星合い

山の頂にあるゆうつづ湖は、夕方から夜に移ろい、この上なく静まり返っていた。

風はぴたりと止み、湖面は夜空を映し出す漆黒の鏡となって、揺れる葉の一枚すらない。

空には無数の星が散りばめられ、どこか遠い時の彼方に続くように瞬いている。

 

葵は、ふと歩みを止めた。

手にしていた星図帳(せいずちょう)をそっと胸元に抱きしめる。

涼しい湖の夜気が、彼女の頬をかすめていった。その瞳は、宇宙の広がりを映して煌めいている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「蔵馬。知ってる? 双子星って、離れてるように見えても、ずっと重力で引き合ってるそうよ」

 

「連星系のことだね。人間界の冬の夜空に見える、おおいぬ座のシリウスという星がそれにあたる」

 

静かな抑揚と知性を含んだ声が響く。

彼の眼差しは、葵が指差す夜空ではなく、彼女の手元にある星図帳に向けられていた。

どこで買ってきたんだろう、と内心でふっと微笑んだ。

 

「その星、ここにも載っていたわ」

 

葵は星図帳のページを丁寧に開く。

冬の大三角形を構成する一つ、おおいぬ座の鼻先に輝くシリウスの姿があった。

彼女がそのページを差し出すと、蔵馬はそれを静かに受け取った。そしてそこに描かれた星にそっと触れた。

 

「シリウスAは主星。シリウスBが伴星で、シリウスAの周りを約50年周期で公転している。両者の質量と距離に基づいて決まる共通の重心を中心に、お互いの引力で支えあい、バランスを取りながら、一つの連星系として共存しているんだ」

 

「お互いの力で支えあっているなんて、星も私たち生き物と同じね。気づかないところで守りあっているよう」

 

葵の無垢な言葉に、蔵馬はゆっくりと目を細めた。

その表情に、ほんのわずかな驚きと、深い慈しみが滲む。

星図帳を彼女に返すと、彼は静かに夜空を仰いで、小さく息を漏らす。

 

「……君らしいな」

 

「ふふ。私たちもお互い様だから、似ていると思ったの」

 

葵は小さく笑った。星を宿したような瞳は、今の夜空の輝きそのもののようで、ゆるぎなくどこまでも澄んでいる。

 

「生まれた場所も、時間も、何もかも違うのに、なぜかこうして出逢って、今同じ空を見上げてるなんて。不思議よね」

 

蔵馬の心の奥が静かに揺れていた。

葵が生まれるずっと前から、彼はこの世界にいた。

何百年、何千年と、風のように、血の匂いのする暗闇の中を生きてきた。

なのに今、その果てしなく長い時間が、この小さな尊い「今」に収束している。

 

(オレは無意識に、探していたのかもしれない……)

 

己の胸に湧き上がる感情を悟られないよう、ひとつ頷いて、そっと呟く。

 

「……そうだね」

 

「この双子星は、最終的にどうなるのかしら?」

 

「悠久の時をそのまま共にあるか……何らかの理由で軌道が不安定になった場合、接近しあって一つの星になるかもしれない」

 

「そう……。どちらになっても、共にあり続けるのは変わらないのね」

 

その瞬間、湖の畔から見上げる夜空の端に、流星がひとつ、鮮やかな光の尾を引いて落ちていった。瞬く間に消えていく光を、葵は息をのんで見つめる。

 

「あっ……流れ星……」

 

彼女の声は、感動にほのかに震えていた。

蔵馬も彼女の視線を追うように、その軌跡を見つめた。

しばらく流星の余韻に浸る。

 

「蔵馬。双子星は、もし、どちらか一方が軌道を外れて、どこかに消えてしまうと、もう一方はどうなるの?」

 

葵の素朴な問いに、蔵馬は静かに目を閉じ、一瞬の沈黙を置く。

その間が、彼の心の奥にある言葉にならない想いを物語っていた。

 

「どちらか一方が欠けると、そのバランスは崩壊し、連星系としての機能は停止する。つまり、片割れの引力を失うことで元の軌道から外れて、宇宙空間を単独で漂うことになるだろう」

 

「お互いが支えあっている力が無くなると、そうなるのね。漂っている間に、また新しい星と出会うこともあるけど……もう片方とは、広大な宇宙の中で再開する可能性はほぼ0に近そうね」

 

「……。」

 

葵は、その言葉を淡々と口にする。

深淵な宇宙の真理を、純粋な感性で受け入れているかのようだった。

その無邪気な言葉が、蔵馬の胸の奥で静かに響いた。

彼女を横目で見つめ、再びそっと目を伏せた。

 

永遠など求めたことのない、遥か昔から生きるこの心に、今、ほんのわずかな欲が生まれていた。この一瞬で終わらせたくない。この光景を、手放したくない。

 

もっと、この人と。もっと、永く。

 

だがその本音は、今は言葉にできなかった。

蔵馬はただ静かに、彼女の言葉と想いに寄り添うようにそこにあった。

 

 

「蔵馬。私が軌道を外れそうな夜は……呼び戻してくれる?」

 

 

「オレが呼び戻す」

 

 

即答だった。

声の芯に力強い響きを宿していた。

それは、彼の理性が介入する前の、本能的な衝動のようだった。

 

「……珍しく、強い言い方ね」

 

葵は少し驚いたように微笑んだ。

 

「当然だ。……ただの気まぐれで言っているわけじゃない」

 

そう言ってから、蔵馬は言葉を継がなかった。

その代わりに、僅かに口唇の端を緩く引き結ぶ。

 

葵はふふっと小さく笑い、夜空に手を伸ばした。

彼女の白い指先は、夜の闇と星の淡い光の中で、かすかに震えて見えた。

 

蔵馬の胸に、言わない想いがまたひとつ、静かに積もっていく。

その想いは、夜の底に隠されたまま、誰にも知られず、彼の心にだけ灯り続けた。

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

 

数週間後の7月。

石畳の坂道を、二人はゆっくりと歩いていた。

初夏の風が梢を揺らし、葉の間から柔らかな光がこぼれる。

ふたりの靴音が石に溶け込み、緩やかな時間の流れを刻んでいた。

 

ふいに、葵が足を止める。

彼女の視線の先に、小さな鳥居が立っていた。

鬱蒼(うっそう)とした木立の中に、古びた神社がひっそりと佇んでいる。

苔むした石段と、風に揺れる色褪せたしめ縄。

時の流れに取り残されたような静けさだった。

 

「ここ……何だか気になるわ」

 

振り返る葵の瞳は、純粋な好奇心の光と、直感の鋭さが同居していた。

蔵馬は一瞬だけ目を細め、足を止めて鳥居の奥を見つめる。

目に映る光景とともに、ふと遠い記憶が胸をかすめた。

(……懐かしい場所だ)

 

 

数年前、父が亡くなって間もない頃、母と二人でここを訪れた。

地元で知る人ぞ知るご利益がある場所、いわゆるパワースポットというやつだ。

記憶の奥で、母の横顔と柔らかな声が揺れた。

 

「……珍しいな。君がこういう場所に惹かれるなんて」

 

穏やかに笑いながら言葉を落とす。

 

「ええ……。理由はよくわからないけれど、空気が好きなの」

 

微笑む葵の横顔を見ながら、蔵馬は内心でふっと息をついた。

偶然か、それとも導きか、そう思わせる何かが胸の奥で波紋のように広がっていた。

 

「せっかくだ、寄っていこうか」

 

「ありがとう」

 

小さく頷いた葵が鳥居へ歩み出す。その背に続き、蔵馬も石段を踏みしめた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

鳥居をくぐると、ひやりとした空気が頬を撫でる。

砂利を踏むたびに生まれる細やかな音が、境内の静寂に吸い込まれていく。

 

拝殿の前で立ち止まり、二人は並んで柏手を打ち、静かに頭を下げる。

 

祈りの後。

その片隅に、小さな木棚があり、色褪せた木札の上に「御神籤」と墨書きされていた。

葵が目を止め、そっと声をもらす。

 

「おみくじ。引いてみてもいい?」

 

「もしかして、初めて?」

 

「ええ。やってみたいわ」

 

「……じゃあ、オレも付き合おう」

 

蔵馬は短く応じ、そっと視線を伏せた。

手のひらに残る記憶。

母の手がおみくじを結びながら、「秀一の願いが叶いますように」と言った声が脳内に再生される。

 

(不思議だな……)

 

理由は分からない。ただ、今日ここに来た偶然には、理性では説明できない意味があるように思えた。

 

二人は、六角形のおみくじ箱に手を伸ばす。

箱の中で竹くじが転がり、カラン、と涼やかな音が鳴った。

 

「これは……番号が書いてあるわ」

 

葵が竹くじを掲げる。

 

「うん。その番号に対応した引き出しを開けるんだ」

 

「四番だわ」

 

楽しげに笑う彼女の横で、蔵馬も静かに竹くじを確認する。

 

「……こっちは七番か」

 

蔵馬もまた、淡々と引き出しに手を伸ばした。

 

 

みくじ箋を手に取ると、二人は外に出た。

外に出ると、境内には灯籠の明かりが灯り始めていた。

夕風が鈴を揺らし、澄んだ音が小さくこだまする。

 

 

「人間界でのおみくじは、良いことが書いてあった方が嬉しいのよね?」

 

葵は紙片を大事そうに両手で持ち、きらきらと目を輝かせた。

蔵馬は視線を落とし、その様子を眺めながらふっと笑みを漏らす。

 

「一般的にはそう思われてるよ」

 

「では、悪いことが書いてあったら?」

 

「そういう時は」

 

蔵馬は境内の木に結ばれた無数の白い紙を見やり、間を置いた。

 

「……結んで、置いていくんだ。厄を、ここに残すように」

 

「なるほど。優しい仕組みなのね」

 

葵はひとつ頷き、鈴の音が風に揺れる方へ耳を傾けた。

涼やかな音色が、夏の夕闇に透きとおって広がる。

 

 

「おみくじ、どうだった?」

 

問いかける声は、風に混じりながらも真っ直ぐに蔵馬の耳に届いた。

蔵馬は少しだけ視線を落とし、手元の紙をゆっくり開いた。

白地に黒々とした文字が浮かび上がる。

 

この神社のみくじ箋は、一風変わって大吉、小吉などの表記がない。

あるのは、星にまつわる言葉。抽象的な表現を解釈するのは、本人に委ねられている。

 

「『星合い』と書かれていたよ」

 

たった三文字。

けれどその響きに、わずかに胸がざわめく。

 

(星合いか……)

 

星と星とが交わり、あらゆるものの「結び目」。

天の理と偶然の必然。その結び目には、別離の意味も同時に含む。

 

 

『会うは天意、離るは時意』

 

 

紙に記されたその文言を、静かに見つめる。指先にかすかな力がこもる。

彼女にまだ言えていないことがあった。

魔界へ行くこと。

「離る」の文字は、それを的確に示していた。

 

そんな彼を、葵は横から覗き込む。首を小さく傾げ、乾いた風に揺れる髪が頬に触れる。

 

「星合いって……きれいな響きね。少し切なく聞こえる中に、長い時の流れを感じるわ」

 

蔵馬は答えず、紙を指で折り畳んだ。

その仕草の奥に漂う微かな陰りを、葵は敏感に感じ取った。

けれど彼女は問い詰めることはしない。ただ小さな声でつぶやいた。

 

「……会えるのも、離れるのも、きっと意味があるのね」

 

「……ああ」

 

短い返事に宿る温度。それだけで、彼の胸の奥にある想いが淡くにじみ出る。

少し冷たくなった風が再び鈴を揺らし、二人の間を通り抜けていった。

 

 

「私の方は、『未明の星』って書いてあったの」

 

隣で葵が微笑んで、そっとみくじ箋を差し出す。

 

 

【挿絵表示】

 

 

白い指先に揺れるおみくじを、蔵馬は受け取り、目を落とした。

その言葉の響きに、胸の奥でひそやかな音が鳴る。

 

(未明の星……夜明け前の明星。金星か)

 

理由のない静かな振動が、胸の中に広がっていく。

そのとき、葵がこちらを見上げて言った。

 

「『未明の星』って、金星のことよね?」

 

「……ああ」

 

蔵馬は短く頷く。その声音には、先ほどよりも柔らかな響きが混じっていた。

 

「前に聞いたことがあるの。『明けの明星は夜明けを告げる星』って」

 

葵は少し間を置き、視線を空に向ける。

境内の木立の隙間から見える空には、まだ茜色が残っている。

 

「……でも私は、夜明けを告げるだけじゃなくて、誰かが来る合図だと思うの。暗いうちから、太陽が昇る前から、あの星は輝いているから」

 

蔵馬の胸に、ひとしずく、何かが落ちた。

言葉にならない、透明な重み。

 

(……誰かが来る合図、か)

 

その「誰か」を思うだけで、理屈は意味を失った。

天の理も、冷徹な思考も、すべてが今、たったひとつの直感の言葉に崩れ落ちていく。

 

(……君はまた、オレの予想を超えた言葉を告げるんだな)

 

葵にとっては、いつもの無邪気な閃きにすぎない。

しかし蔵馬の耳には、未明の星が太陽を迎える合図であるかのように響いていた。

彼は口唇をゆるめ、ふっと短く息を吐く。

風が頬を撫で、鈴がまたひとつ鳴る。

「……その考え、葵らしくて好きだな」

 

蔵馬は静かに目を伏せた。

こうして、知らぬ間に引き寄せられ、抗えずに影響を受けている。

葵という無自覚な引力に、揺れながら近づいているのは自分だった。

 

「……君は、本当に面白い縁を選ぶ」

 

吐息のようにこぼれた言葉は、思わずの本音だった。

葵は何を言われたのかわからない様子で、小さく首をかしげる。

 

「そう?何も考えずに引いたのだけど」

 

無意識に引き寄せた縁こそ強く、抗えないものだ。

 

葵が選んだ『未明の星』。

蔵馬が引いた『星合い』。

二つの符が、知らず知らずのうちに呼応しているようだった。

 

 

「行こうか」

 

蔵馬は静かにおみくじをたたみ、胸ポケットにしまい込む。

灯籠の光が、二人の影を長く地面に落とした。

砂利を踏む音が重なり合い、夕方の空気に溶けていく。

風が金色の砂を撒くように境内をかすめ、葵の髪をやさしく揺らす。

 

(……やはり君は、何かを運んでくる星だ)

 

言葉にする必要はない。名をつける必要もない。

理性では説明できない、本当の星の縁がここにある。

 

蔵馬の心にまたひとつ、小さな確信を灯した。

 

 

この縁は、まだ続いていく。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

 

神社から場所を移して、二人はいつもの湖に来ていた。

湖畔の夜は、ひっそりとした呼吸のように静かだった。

風が水面を撫で、銀のさざ波が月明かりを受けて揺らめいている。

葵は草の上に腰を下ろし、空を仰いでいた。

 

「確か、人間界では7月7日を七夕と言うそうね」

 

 

こぼれた声は、夜気に溶けて涼やかに響く。

蔵馬は隣に腰を下ろし、視線を彼女と同じ空へと向けた。

頭上には、織姫星と彦星が淡く光を放っている。

川のように横たわる天の川が、ふたりの間を隔てているかのようにも見えた。

 

(そうか……。今日は星合いの夜……)

 

 

七夕の別名、星合い。

蔵馬が先ほど引いたおみくじの言葉は、必然だった。

 

 

「人は昔から、星に自分たちの想いを重ねてきたんだろう。出会いも別れも、星々の運行に映して」

 

蔵馬の中性的で艶のある声が、湖畔に落ちる。

葵は小首をかしげる。

 

 

「それでは……織姫と彦星が年に一度しか会えないのも、星々の運命なのかしら?」

 

「運命……か」

 

 

蔵馬は少し間を置き、湖面に視線を落とす。

水面に映る星が揺れ、その揺らぎが胸中にさざ波を起こす。

 

 

「星々の理は、時に厳しくても、心は自由だ。……そう思わないか?」

 

 

会えない時間が長かったとしても、想いは変わらない。

いずれまた会えるから。

蔵馬の横顔に、満天の星明かりが静かに差し込む。柔らかく、少し切ない光。

葵はしばし考え、夜空を見つめながら答えた。

 

 

「…そうね。たとえしばらく会えなくても、心は自由だから、いつでも心の中で会えるわ」

 

その言葉は、彼の沈黙の奥を正確に射抜いていた。

胸の奥が、不意に熱を帯びる。

 

「君は……いつも本質的なことを言うな」

 

 

蔵馬は小さく笑う。

どうしようもない敗北感のような感情が、静かに広がる。

葵は振り向き、いつもの柔らかい表情で彼を見上げた。

 

 

「感じたことを口にしただけよ」

 

風が彼女の少し伸びた髪を揺らし、どこか懐かしい安息の香りを運んでくる。

髪の揺れる音と、草木がこすれあう音がまじりあって、二人しかいないこの場所を、夢か現の狭間のような空間に彩っていた。

 

葵の深い視線が、夜空に吸い寄せられた。

 

「不思議ね……。星を見ていると、自然と言葉が心に浮かんでくるの」

 

蔵馬は静かに、その瞳を見つめる。

胸の奥ではまだ伝えられない事実が渦巻いている。

だが、その重みを超えて、たった今この瞬間、彼女を抱きしめたくなる衝動が勝った。

 

「葵……」

名前を呼ぶ声は、夜の湖面に溶けるほどに、繊細で透明感のあるものだった。

彼女が再び振り返ったその刹那、蔵馬はそっと体を抱き寄せ、迷いなく口唇を重ねた。

 

柔らかく、かすめるように。

夜の静けさの中で、二人の鼓動が重なり、響きあう。

 

(離れることなど……考えられない)

 

その一瞬に、すべての想いが凝縮されていた。

 

蔵馬の口唇が静かに離れる。

葵は少し驚いたように瞬きをして、目の前の男を見上げた。

湖面を渡る風が、二人の間を柔らかく通り抜けていく。

 

「……唐突、だったかな」

 

 

蔵馬の声は、どこまでも穏やかだった。

 

 

「……そうね。胸がまだ、どきどきしてるわ」

 

 

言いながら片手で心臓を押さえ、ふっと笑う。

その仕草に、蔵馬は目を細める。

 

 

「心臓の鼓動は、嘘をつかない。……そういうものだ」

 

「……もしかして、あなたも?」

 

 

葵が小さく問い返す。

蔵馬は少しだけ目を逸らし、湖に揺れる星を見つめた。

胸の奥で鳴る痛みにも似た鼓動を、彼女に気づかれまいとする間。

しかし結局、静かな微笑みを浮かべて頷いた。

 

「……ああ。君のおかげで、オレも人間の心を確かに感じている」

 

「そう……。私たち、お互い様ね」

 

二人の声は湖の奥深い静けさに溶けていった。

頭上の天の川の輝きが、湖全体を包むようだった。

 

 

 

「そうだったな。人間界で七夕は、短冊に願いを書いて笹に結ぶと、叶う日と言われている」

 

蔵馬は空を仰いだまま、穏やかな声で言った。

 

「聞いたことがあるわ。先ほどの神社にも、置いてあったわね」

 

「葵は……何を願う?」

 

湖面に降り立つ山の風で、蔵馬の柔らかい毛先が夜にほどける。

この人の言葉を聞きたいと、その髪は意志を持ったように、葵の近くに流れる。

 

問いかけに、彼女は微笑んで湖をしばらく眺めていた。

静けさの中に漂う淡い音が、葵の感性にだけ聞こえてくる。

 

「私の願いは……もう叶ったから、星に願うことはないの」

 

彼女らしい返しに、蔵馬はふっと息を吐いた。

 

「……ちなみに、どんな願いか教えてくれないか?」

 

「あら。あなたには、もうお見通しだと思ってたわ」

 

彼女はふわっと笑いかけると、今度は夜空を仰いだ。

そして祈りの言葉を紡ぐように告げた。

 

 

「『あなたと、これからも共にありたい』よ」

 

湖畔の空気が一瞬止まった気がした。

 

蔵馬は小さく息をのんだ。自分の中で、何かが音を立てて崩れていく。

その言葉は、彼女と出逢って間もないころ、記憶を消そうとしたことに対して、葵が感情を露わにして伝えたものだった。

 

(このタイミングで、君はまたそれを言うのか……)

 

わずかに口唇が震える。

例えようのないこの胸の想いを音にしようとして、踏みとどまった証だった。

 

「………葵には、かなわないよ」

 

ゆっくりと出した声は、涙に濡れたように淡く切なく、優しいものだった。

葵は、その微かな震えに気づいた。

けれど、あえて触れずにただ優しく笑った。

 

「ね?叶ったでしょう?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

蔵馬は黙って彼女を見つめ返す。

もうすでに、気づかれているかもしれない。

しかし、その事実すら心地よいと思ってしまう自分がいた。

 

「では……蔵馬の願いは?」

 

彼はわずかに目を細めた。

そしてその深い眼差しと、沈黙に宿る想いで葵を抱きしめた。

 

 

「……オレも、星に願うことはないよ」

その表情は穏やかで、瞳の奥には、誰にも見せたことのない深い愛しさと、誓いが灯っていた。

蔵馬の胸に宿る優しさは、ただ一人を除いて、誰にも知られず、夜明けが来ても、ずっと、眠らずに輝き続ける。

 

そしてその優しさと、奇跡の星を、これからも胸に抱えて生きる。

 




少し長めの10.5章をお読みいただき、ありがとうございました。
星をテーマに、二人の出会いと別れについて書いてみました。
人間らしく揺れる蔵馬の内面に触れつつ、いつもと変わらない葵に静かに惚れ直す様子が相変わらずといいますか。それさえも、蔵馬はどこかで楽しんでいるようにも感じています。


次回より、蔵馬が魔界へ行く11章突入です。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。