今回は、幽遊白書の中でも大人な二人に登場していただきます。
人間界との別れ、そして魔界での再会
8月いっぱい、蔵馬が魔界に滞在している間は、彼の提案で、葵は幻海のもとで暮らすことになった。
幻海は、かつて霊界探偵だった蔵馬の友人・浦飯幽助の師匠であり、霊光波動拳の使い手でもある。
70を超えてなお現役の霊能力者で、蔵馬が信頼する人物だった。
山の奥にある古びた道場。夏草の匂いと蝉の鳴き声が響いている。
「オレが魔界に行っている間、君の安全を守るために、幻海師範のところで過ごすのがいいだろう」
特に、黄泉に利用されないために。
新しい弟は、すでに人質となっている。これも蔵馬にとって、因果応報だった。
「8月31日まで、ここにいればいいのね」
静けさに包まれた空気のなか、蔵馬は一呼吸置いて、口を開いた。
「……迎えに来るまで、ここで待っててくれないか?」
静かな抑揚のあるトーン、そしてほんのわずかに吐息交じりの声は、柔らかく、切なく葵の耳へ、胸の奥へと優しく沁みこんでゆく。
自分の想像に及ばない様々な理由から、目の前の男が言っていると感じた。
今の彼女の体なら、1か月の人間界滞在も可能だろう。
幻海の家は自然豊かで、彼女の気も安定し、補気できる場所だ。
葵は返事の代わりに、蔵馬にそっと花がひらくような微笑みを贈った。
その表情を見て、蔵馬の指先がわずかに動きかけて、宙で止まった。
何も言わず背を向けると、広い肩が夏の光を受けてきらめき、葵の前から遠ざかってゆく。
蝉の声が一層強まり、山の風が二人の間をすり抜けた。
葵は息を整え、いってらっしゃいと、心の中でそっと告げる。
命を賭けるということに、重さを感じなくなったのは、いつからだろう。
それは恐怖を忘れたのではなく、何度も覚悟を選び続けてきたからだ。
蔵馬はこの一年で、何度も命をかけて死の縁を往復していた。
暗黒鏡を使って母を助けようとしたこと、暗黒武術会で死を踏み越えて戦ったとき、境界トンネルの戦い。
いずれも自分のためだけでなく、誰かのために。
かつての自分では考えられない行動だった。
人間として育ててくれた母志保利には、新しいパートナーがいる。
もし自分がいなくなっても、もう大丈夫だろう。妖怪としての真実を語るつもりもない。
しかし、葵には話していた。
戦いのこと、死の可能性さえも、曖昧にはせずに。
彼女は、妖怪だ。
蔵馬と同じ側で生きている。
この世界の理不尽さや、一分一秒先の命も確定していないことを、肌で知っている。
だから彼女は、時に問い、時にただ傍にあり、そして沈黙で見送る強さを持っていた。
その眼差しは情ではなく、深い尊重であり、信頼だった。
愛しさを越えたところで、なお彼女を信じていられる。
その事実が、蔵馬自身を強くさせた。
(無条件で信じてくれる人がいることは、こんなにも、覚悟を深くさせるのか……)
胸の奥で小さく呟きながら、今の蔵馬で、過去の自分と対峙するために、彼は故郷の魔界へ旅立って行った。
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「しかし、あんたと蔵馬も、また面白い仲だね」
「お世話になります」
ちゃぶ台にお茶と、鮎の形をしたカステラ生地のお菓子を置きながら、幻海と葵は和やかに話していた。
ついているテレビからは、人間界のニュースが流れ、背後からは夏の蝉の声が途切れることなく届く。
「あんた、見かけによらず、随分と年季の入った目をするんだね。蔵馬と似てるじゃないか。見れば何となくわかるもんだ」
「幻海師範には、かなわないわ」
葵の返しに、幻海は口の端をわずかに上げる。
「まぁ、余計な詮索はしないよ。あんたも蔵馬もそれぞれの事情があるんだろう。ゆっくりしていきな」
「ありがとう」
葵はほっと息を吐いた。
幻海も彼女も、無用な詮索はしないし、おしゃべりでもない。
お互いが心地よい沈黙の中、過ごせる相手だった。
開け放たれた障子の向こうには、夏の青空が広がり、濃い緑の山々が重なり合って静かに佇んでいる。風が吹けば葉擦れの音と、どこか遠い沢の水音までが届いてくる。
「師範。身の守り方を教えてほしいの。あまり筋はいい方ではないけど」
「ふむ。あんたは強くなりたいのかい?」
「強くなりたいというよりも、自分の身をもっと守れるようになりたいの。私、どうやら体の扱い方がよくわからなくて」
彼女は、今までの経緯を簡潔に話した。
武器を扱うことが難しいこと、相手を攻撃するイメージができないこと、時に自分の負傷にさえ気づかないことなど。
幻海は茶をすすると、彼女を穏やかに見た。
「あんたはまだ、自分の体の自覚が育ちきってないようだね。それなら、とっておきの練習方法がある」
幻海の「とっておきの練習法」を受けながら、葵は山奥の澄んだ空気と、草木の放つ細やかな気を肌で感じながら日々を過ごしていた。
昼は幻海の手伝いをしたり、縁側で茶をすすりながら世間話を交わす。
夜になると虫の音に混じって、遥かな星々が紡ぐかすかな響きを耳にする。
そんな人間界ならではの、穏やかで豊かな時間が流れていった。
ある日の午後、思いもよらぬ来訪者も現れた。
「よ。元気そうで何よりじゃ」
庭先に立っていたのは、青を基調とした服に、茶色の短髪を風になびかせた若い男。
口には水色のおしゃぶりをくわえ、親しげにこちらを見ている。
聞き覚えのある声に、すぐ誰だかわかった。
「……コエンマ?」
「さすが物分かりが良いな。土産を持ってきたぞ。お前も付き合え」
彼は果物ゼリーと水ようかんのセットを葵に渡した。
ほどなくして幻海も呼んで、三人は居間のちゃぶ台を囲んだ。
葵がお茶を入れていると、コエンマの方から切り出した。
「ぼたんが、会いたがっていたぞ」
「霊界案内人も、仕事が増えて忙そうに見えたわ」
「まぁな」
彼女が差し出した湯呑を受け取ると、コエンマは一口茶をすすった。
その向かいで、幻海は水ようかんの蓋を開け始めた。
「霊界探偵無き今、仕事を頼みたいのはやまやまだが、お前には色々と迷惑をかけた。ここらで打ち止めした方が良いと考えている。今の霊界は、妖怪が気軽にこれるような状況でないからな」
「そうですか」
葵は静かに相槌を打った。
人間界と魔界との境界トンネルの一件以降、霊界探偵だった幽助は魔族の血を持つとわかり、その任を解かれていた。
霊界では手に負えないS級クラスの妖怪である蔵馬は、人間界の生活に溶け込んでいた。
まして彼の正体は、過去に霊界を手こずらせたあの伝説の妖狐蔵馬。
8月から魔界にいったことで、霊界にとっては脅威の対象であった彼を、やっと間接的に抹殺できたところだった。
霊界としての面子、ここではコエンマよりも、その父閻魔大王になるが、その面子に関わる大事が片付いてもなお、霊界は混沌としていた。
「ただな……。ワシも猫の手も借りたいほど多忙でな。お前がしばらくここにいる間、書類整理をしてくれると助かる」
「ええ。あまり几帳面じゃないほうだけど、それでもよければ」
「難しいことはない。文書の仕分けと、改ざん跡がないか確認するだけじゃ。地味だが急を要する」
コエンマは紙面を使って、手順を説明した。
幻海の家の未使用の部屋に書類の山一式を置くと、彼は忙しげに霊界へ戻っていった。
ずっと静かに聞いていた幻海が、口を開いた。
「断っても良かったんだよ。霊界の雑用なんざ身から出た錆さ」
葵は湯呑を両手で包み、ふっと笑った。
「きっと、これが最後の仕事になるから」
「あんたも人がいいんだね」
幻海の言葉を聞き流すと、立ち上がって彼女は書類の山に向かっていった。
こうして、葵の静かな1か月はあっという間に過ぎていった。
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「オレに会って最初は戸惑った…だと?猿芝居は一体誰に習った?」
「くっくっく。はっはっは。これだからお前が必要なんだよ」
黄泉はそう言い残し、静かに去っていった。
蔵馬の足元には、先ほどまで辛うじて息をしていた妖怪の亡骸が横たわっている。
千年前、盗賊団の頭だった蔵馬が、統率を乱す身勝手な副将の黄泉を抹殺するために差し向けた刺客。その男の末路だった。
蔵馬は一瞥することもなく、静かに部屋を後にする。
今更ながら己が過去と、時を越えて再び相まみえる。
自分で蒔いた種は、時を越えてこのように成長し、刈り取る時期を迎えていた。
薄暗い回廊を、音もなく歩く。
石の壁は冷たく湿り気を帯び、灯火は影を揺らすばかりで、不思議と誰ともすれ違わない。
まるでこの道が、自分だけに用意された過去との対話の空間であるかのようだった。
南野秀一の時には決して見せたことのない顔。
冷たく表情のない心を思い出すのは、容易かった。長く生きてきたのは、表情のない冷徹な心の方なのだから。
その時、彼の鼻腔に間違えようのない安息の香りが漂ってきた。
「………っ」
無意識に心の色が、表情が変化する。思考がかすむ。
花弁のように甘く澄んだその香りは、彼の理性を静かに脅かしていた。
その香りのする方へ、彼は足を速めた。
(……なぜだ?彼女が、ここにいるはずがないっ……!)
心を落ち着かせる懐かしい花の気配は、歩を進めるごとに濃くなり、鼓動が高鳴る。
開け放たれた大広間へ踏み出した瞬間、蔵馬の視界を射抜いたのは……。
桃色と象牙色の髪をもつ少女。
三分袖の
蔵馬の心臓が早鐘を打つ。心がグラデーションのようにざわつく。
「葵……。どうして君がここに?」
薄闇に溶けこむようにして立つ蔵馬の声は、驚きと警戒を抑えてかすかに震えていた。
葵は小さく首を傾けると、微笑んだ。
「あなたが働いている姿を見てみたくなった、と言ったら信じる?」
「……いや…」
わずかに眉を寄せた蔵馬の瞳が、彼女の仕草を探るように揺れる。
「別の理由が考えられるな」
「ふふ」
葵は否定も肯定もせず、ただ微笑みで答えた。
足音を忍ばせながら、彼女はゆっくりと近づいていく。
衣擦れの音が石造りの床に淡く響き、蔵馬との距離をひとつずつ縮めていった。
やがて彼女の指先が伸び、彼の左頬にそっと触れた。
触れた瞬間、蔵馬の胸の奥がふと熱を帯びる。急速に温度が上がる自分の心に戸惑いつつも、拒むことなく、その変化を受け入れていた。
「少し……疲れてる?」
柔らかな声に、蔵馬の睫毛がわずかに震える。
「………そうかもしれないな」
「今日のあなたは、とても素直ね」
「君の前では、いつも素直だよ」
言葉を終えるより早く、彼は葵を抱き寄せていた。
腕の中に収まった体は温かく、柔らかい。
魔界の冷たい気配さえ、その一瞬だけ遠ざかる。
蔵馬は抱きしめる腕に力を込めた。お互いの間のわずかな隙間も、今はいらない。
どうしてこの人は、ただそこに存在するだけで、乾いた心を潤してしまうのだろうか。
愛を与えることが、こんなにも自然にできるのだろう。
「蔵馬。私の心は、いつもあなたの傍にあるわ」
腕の中の彼女は、蔵馬の胸元に手を置き、静かに言葉を響かせた。
熱い胸の奥で、小さく叫んでいたのは、喜びと感謝だった。
「……オレも。離れていても、葵の傍にある」
「待ってるわ。人間界で」
「迎えに行くよ……。必ず」
顔を上げた花笑む人は、鮮やかで清らかだった。
その笑顔ひとつで、世界は一瞬で色を変える。
冷えた景色を、温かに、カラフルに。
そして、光は唐突に閉ざされた。
「……。」
蔵馬は目を開けた。
視界に広がるのは、石壁に囲まれた無機質な部屋。雷鳴の音はここが魔界だと告げていた。
ここに来て、もうすぐ1か月がたとうとしていた。
魔界に戻って初めて、彼女が夢の中に現れた。しばらく夢も見ていなかった。
今眠りの中に現れていたのは、全て泡沫の夢、幻想の世界。
それでも、その淡く儚いひとときは蔵馬を確かに強くした。
冷たい右頬に比べて、不思議と左頬には彼女の手のぬくもりが残っていた。
募る想いは、この胸から溢れている。
(……葵、ありがとう)