9月に入った最初の日、夜が静かに深まり、虫の音がひときわ響く時刻のことだった。
「こんな夜更けに来客だね」
虫の知らせだろうか。
葵と玄海は、いつもより遅くまで話をしていた。
気配を察知して、幻海はゆっくりと立ち上がった。
「夜分、失礼します」
引き戸の向こうから届いたのは、涼やかで中性的な声。
どこか艶を帯びた繊細な響きに、葵の心臓が小さく跳ねる。
「今帰ったのかい?」
「ええ」
障子が開かれ、蔵馬が姿を現す。
彼は、いつもの穏やかな顔で幻海に挨拶して、視線を居間の方へ向ける。
そこにいた葵と、ほんの数秒、時が止まったように見つめ合う。
蔵馬は、澄んだ深い目を細めた。
数日前、夢で現れた時と同じで、その花のような人は暗がりでも色鮮やかで美しくて。
蔵馬の五感と心を、一瞬にして満たした。
「蔵馬。おかえりなさい」
「少し、遅くなってすまない」
大丈夫という返事の代わりに、葵はふわっと微笑んだ。
胸が優しく音を立てて、体が温かくなっていく。
その微笑みを、蔵馬は慈愛に満ちた眼差しで抱きしめた。
「師範。折り入って頼みがあります」
彼は穏やかな声で切り出した。
その声音の奥には確固たる意志があり、幻海も自然と背筋を伸ばす。
「六人の妖怪の修行をお願いしたいのです。すでに彼らは別の場所で鍛錬を始めていますが……。S級妖怪以上の妖力に高めることが目的です」
居間の灯がわずかに揺れ、外では夜風が竹林を鳴らしていた。
葵は静かにそのやりとりを聞いていた。
詳細はわからないが、彼の言葉の一つひとつには、深く計算された思慮を感じ取ることができる。
今回の判断も、二手三手先を読んだうえでの最善なのだろうと思えた。
幻海も多くを追求せず、必要最低限のことをたずねて承諾していた。
「師範。葵のこと、ありがとうございました。また改めて連絡します」
蔵馬は小さく頭を下げる。
「なあに、話し相手がいて楽しかったよ。葵。こんなところで良かったら、また茶飲み話に来な」
「師範、ありがとう」
二人は山の深い夜に溶けるように、静かにその場を後にした。
見送りながら、幻海の口唇にふと小さな笑みが浮かんだ。
(こんな夜に迎えに来るなんてね……。あの感じじゃ、家に帰る前に立ち寄ったんだろうね)
彼女はしばらくの間、寄り添って歩いていく背中を眺め続けた。
星が良く見える静かな夜だった。
人里よりも山の闇が濃いぶん、星の輝きは鮮やかで、冷たい空気が光をいっそう研ぎ澄ませていた。
「……髪、伸びたね」
囁くような柔らかい蔵馬の声には、いろんな想いが詰まっていた。
数か月前に焼けて切った葵の髪は、以前のように一つに結べるほどの長さになっていた。
星空の光を淡く受けて、象牙色の髪がほんのり輝く。
それは、彼が魔界に行っていた時間の経過を物語っていた。
帰りの山道をゆっくりと下りながら、蔵馬は大まかに自分が何をしてきたのか話した。
魔界の現状、黄泉の国家について、そして今後も戦列に加わる予定であることなど。
声は落ち着いていたが、その背後に潜む緊張は彼女の胸にも伝わってくる。
葵は特に質問をせず、時々相槌を打って静かに聞いていた。
山道の中腹を過ぎたあたりで、彼女がふと足を止めた。
草むらから虫の音が響く中、彼女は夜空を仰ぎながらぽつりと呟いた。
「蔵馬……。私、あなたの役に立ててるかしら?」
「……。」
足を止めた彼の肩に、風がそっと降りる。
蔵馬はしばし黙り、横に立つ葵を見た。
(これは、いろんな感情が混じった本音だな……)
星がたくさん見える夜空の光は、一瞬だが少し表情が乏しい彼女の横顔をはっきりと照らしていた。
蔵馬の目が細く揺れ、その表情を決して見逃さなかった。
「君は……そばにいてくれるだけで、オレの役に立ってるよ」
(不安にさせているのは、オレの言動だな……)
葵が彼を、ゆっくりと見上げる。二人の視線がようやく交わった。
深い瞳同士が互いを映し、思いやりと愛情が静かに寄り添っている。
「オレの見える世界が、彩り豊かになったのは、君といるからだ。オレは葵に、生きる喜びを教えてもらったよ」
妖怪の時には持ち得なかった、人間としての感情から深く愛すること、慈しむこと。
そして葵は、彼の帰る場所になっていた。
「…それなら、よかったわ」
小さな声が、夜空に吸い込まれていく。
山から秋の気配がする風が降りてきて、互いの髪を揺らす。
東の空にある三日月が白く澄んで、彼女の後ろに見える。
虫の鳴く音があるのに、それさえも遠ざかるような静かな時間が流れていた。
そのとき、葵の腕にある籠手の中の藍銅鉱が小さく光り、淡い青を放った。
蔵馬は一歩近づきかけて、胸の内で動きをためらった。
心の衝動と思考の理性が、混沌と渦巻いていた。
様々な想いが彼の中を流れていく。どの想いも捕まえず、ただ流れたままにしているのは、彼の感情と理性が拮抗しているからだった。
だが葵はためらわなかった。
少しひんやりとした彼の手を、両手で包み込む。
「あなたが帰ってきて……嬉しい」
「……っ」
その一言が、蔵馬の奥底に張りつめていたものを優しく崩していった。
葵の潤いのある声と温かい言葉は、彼の乾いた心をじんわりと潤した。
孤独と緊張、そして理性という氷が溶けていく。
(そうだった…。オレにとって、葵は…無条件で受け入れてくれる場所だった)
蔵馬の体は先に思い出していた。
どれほど、彼女の声を求めていたか。どれほど、この香り、この眼差し、この手の温かさを渇望していたか。
理性よりも深いところで、心が叫んでいた。
葵の手が離れかけたとき、反射のように蔵馬の指がその手を捕らえていた。
そして次の瞬間には、彼女を強く抱きしめていた。
「……っ」
言葉にはならない。息さえ詰まるほどに、この瞬間を望んでいた。
頬が触れるのは花びらのように柔らかな髪。
指先に触れるのは、甘やかに香る彼女のぬくもり。
夢では決して届かなかった感覚が胸を満たし、熱と愛しさが溢れてくる。
葵は驚きながらも、ゆっくりと彼の背に両腕を回した。
山の夜を渡る秋風は冷たく、虫の声が遠くで響いている。
その風を遮るように、彼女の手のひらだけがひたすら温かくて、切なさを帯びていた。
「葵……ただいま」
彼の体が、心が、魂が、抑えきれず喜びに打ち震えていた。
この存在への想いが止められない。
「……さっきの話の続き。役に立つかどうかなんて、関係ないんだ……。ただ、オレの側に、いてくれ」
蔵馬の胸の中で、葵がゆっくりと頷いた。
象牙色の髪が、彼の服に緩く擦れる音が夜に流れる。
その胸の中でゆっくりと呼吸する。
静かに心をくすぐる涼やかな匂いは、涙が出そうなほど優しく、葵を包んでいた。
ずっと、会いたかった。
(蔵馬……)
夜空に広がる無数の星々が、そっと二人を見守っていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
蔵馬が人間界に戻って来て最初の休日。
葵は南野家を訪ねていた。
「あら、葵ちゃん。久しぶりね。どうぞ、ゆっくりしていって。秀一は、あと1時間くらいで戻ってくる予定なの」
「おじゃまします」
リビングにはほうじ茶の香りが漂い、机の上には丸い月餅が並べられていた。
蔵馬を待つ間、彼女はソファーに座りながら、結婚式以来に再会した志保利母から海外旅行の話を聞いていた。
彼女にとって初めて口にするお菓子。小さくかじった瞬間、柔らかく甘い餡が広がり、思わず目を輝かせる。
その様子に、志保利母は息子と同じように微笑んでみていた。
「秀一ったら、半ば強引に1か月の旅行をプレゼントしてきたのよ。お年玉とお小遣い、ずっとためてたのかしら?」
「ふふ。秀一なら考えられますね」
「……あら。とうとう葵ちゃんも、秀一って呼ぶようになったのね」
「弟さんが秀一君だから、秀一と呼ばせてもらってます」
「きっとすごく喜んでるわよ」
優しく微笑む志保利母に、葵は結婚式後の帰り道のことを思い出していた。
初めて『秀一』と呼んだとき、彼は目を細めて自分を見つめていた。
あのときの蔵馬の顔は、母の晴れ姿を見ていた時と同じ穏やかな表情だった。
(振り返ると、蔵馬は、何気ない私の言動を喜んでくれているのね)
志保利母が淹れてくれたお茶の表面をぼんやりと見ながら、想いは自然とあの男へと向かう。
それから30分後。玄関が開き、待ち人の声が響く。
「おじゃましてます」
「やあ、いらっしゃい」
リビングに入ってきた蔵馬は、彼女を見た瞬間、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
今日の葵は、水色のゆったりとしたブラウスに白いリネンパンツ姿だった。
涼しげで柔らかな装いは、彼女の雰囲気によく馴染み、ほんのり日差しを受けた髪が光を返している。
人間界での私服が少しずつ増えていることに、蔵馬の胸は静かに温かくなった。
「師範のところで、体の扱い方を覚えるいい方法として教えてもらったの。今日はこれをやろうと思って」
そう言って、葵がリュックから取り出したのは……格闘ゲームのソフトだった。
「……。」
再会の余韻を味わっているところでの、青天の霹靂。
蔵馬はしばらくそのパッケージを見つめ、思わず眉を緩める。
この人のこういうところにいつも揺さぶられる。
どうして、格闘ゲームなのか。本当に自分とやるつもりなのか。
彼女への問いは無数に瞬時に生まれるが、口には出さない。
彼の隣で、母親が二人を微笑ましそうに眺めている。
「え…っと……。いいけど……葵、本当にやるの?」
「ええ。やってみたいの」
その瞳は純粋で、好奇心に満ちている。
見上げる視線に、蔵馬は思わず肩の力を抜いた。
やれやれと小さく息をつきながらも、内心は面白くてたまらなかった。
「……わかったよ」
その声には、穏やかさの中に少しの茶目っ気が混ざっていた。
次回は書いてて楽しかった蔵馬のゲームネタです。
原作でも彼はかなりのゲーマーぶりを披露していたのですが、妖怪の蔵馬が人間界の遊びを知的に楽しんでいるのが、なんとも面白くて原作者のセンスに脱帽しています。