ゲームが始まると、蔵馬の指先は迷いなく滑った。
無駄のない動きで、鮮やかにコンボを決めていく。彼は屈指のゲーマーでもあった。
冷静な横顔には余裕が漂い、画面のキャラクターが流れるように相手を叩き伏せていくたび、葵の目が大きく瞬いた。
彼女には勝つ糸口が全く見つからないまま、開始からわずかのうちに5回戦が終わった。
圧倒的な力量さ。
コントローラーを握る葵の肩は小さく落ち、彼の部屋には、なんとも言えない沈黙が満ちた。
静かに流れる時計の針の音と、遠くから聞こえる車の走行音だけが響いている。
彼女は視線をゆっくりと横へ向けた。
「……。」
「勝負は勝負ですから」
淡々とした声。だが目尻にはうっすらと笑みが浮かぶ。
「蔵馬が、こんなにゲームに強いなんて知らなかったわ」
「葵、防御しようとしないから」
くすりと笑う彼の表情は、どこか呆れながらも温かい。
「もうしょうがないなぁ」という顔で、隣の葵を見ていた。
「攻撃は最大の防御って言うでしょう?あなたに勝てるところ、何もないのが……ちょっと悔しいわ」
戦闘では決して蔵馬には敵わない。ゲームならもしかしたらと思っていたが、甘かった。
(どうして、こういうところで子供っぽくなるんだ……)
その無邪気な負け惜しみに、蔵馬はわずかに肩を震わせた。
理知的に見えるはずの彼女が、妙なところで真っ直ぐすぎる。
笑いを堪えるのが精一杯で、表情を崩すまいと視線を画面に落とした。
体の扱い方を覚えるいい方法として、葵にはまだ早いと思われる格闘ゲームを進める師範も師範だが。
それを鵜呑みにして、1か月練習していたのかと想像すると、目の前の人が可愛くてしょうがない。
そして予想通り、自分が魔界に行っている間、師範の稽古付きの練習をして、この状態だ。あまり、いや全く強くない。
やはり彼女は、器用に不器用だった。
「オレに勝とうとしなくていいんだよ」
「む」
珍しく負けん気を小さく露わにしているのが新鮮で、蔵馬は仕方ないなぁと笑った。
せっかくめったにない彼女からの挑戦を、このクールで好戦的な男が受けないはずがない。
蔵馬流のおもてなしで、受けて立つ。
「それじゃあ賭けをしよう。これから10回勝負をして、1回でも勝ったら君の勝ちにしよう。けれどもし、君が全部負けた場合は、オレの願いを一つ聞いてください」
「……願いの内容にもよるわ」
「それを言ったら、面白くなくなるよ?」
「……。」
「どうする?葵に有利すぎるかな」
「………わかったわ」
なんだかうまく丸め込まれている感覚がする中、彼女は再びコントローラーを握り直した。
目元を引き締め、真剣に画面へと向かう。
しかし蔵馬から条件付きの提案を出された時点で、基本勝敗はもう明らかだった。
この男が差し出す条件は、すでに結果が確定している上での誘いだから。
「……。」
無機質な画面に浮かぶ文字。
右には「Loser」、左には「Winner」。
負けの文字を見つめた葵は、なんとも言えない顔で隣に視線を向けた。
「そんな目で見ても、勝敗は変わらないよ」
涼しい顔をした蔵馬の声音は、心の底から楽しんでいるようだった。
先ほどよりも情け容赦一切なしで、隠し技まで駆使してコンボを決め、徹底的に圧勝したのだ。
この男を本気にさせると何をするかわからないと、葵は改めて実感した。
やがて蔵馬がゲーム機の電源を落とすと、休日の静かな部屋に再び安らぎが戻った。
彼は横目で葵を見て、淡々と告げる。
「オレが勝ちました」
「……言わなくても、わかってるわ」
小さく息をつく彼女。
その様子を眺め、蔵馬はふっと口元を緩めた。
次の瞬間、彼は音もなく姿勢を変え、隣に座る彼女へ寄り添った。
膝を立てて座り直すと、前触れもなく葵の左肩に自分の頭を預ける。
突然の心地よい重みに、葵は小さく驚いて蔵馬を見た。
肩口から伝わる体温、静かに心をくすぐる涼やかな匂いが、体の奥に沁みていく。
「……蔵馬?」
「今日は……こうしていたい気分なんだ」
囁くような、繊細で柔らかい声だった。
葵の香りが近くなることで、気持ちがさらに穏やかになっていく。
蔵馬は安息の中で、ゆっくりと目を閉じた。
葵はしばし黙ってその重みを受け止めた。
わずかに開いた窓から、涼やかな風が通り抜け、カーテンをやさしく揺らす。
しばらくして、彼女の肩に預けられた頭から、規則正しい静かな寝息が聞こえてきた。
葵はそっと左手を伸ばし、彼の頭を包み込むように指を添えた。柔らかい髪を撫でると、すぐにその重さを肩へ引き寄せる。
耳にかすかに触れる呼吸と、頬に伝わる温もり。
肩口に触れた彼の髪が揺れて、ほのかに甘い草木の匂いが鼻先をかすめた。
頬を蔵馬の頭にすり寄せると、すぐそこから胸の音が聞こえてきた。
重なり合うように、自分の胸の内からも答える音が返ってくる。ゆるやかに、静かに。
二つの鼓動が寄り添うたびに、心の奥が優しく溶けていった。
(あなたは、見えない所で苦労しているのね……)
葵は、戦闘能力が低い妖怪のため、戦いの中で彼の役に立つことはできないと割り切っていた。
それは蔵馬の邪魔をしないという約束もあるが、男と女という性差もあり、彼女自身の役割や立ち位置を心得ていた。
そして何よりも、蔵馬を信じていた。
だから一緒にいる時間は、彼の背負っているものを少しでも感じたい。
蔵馬から直接聞かなくても、静かに傍にいるだけで伝わるものがある。
床に投げ出された蔵馬の右手に、葵の指がふと触れた。
驚くほど自然に、手の甲へ自分の手を重ねる。
下からすくうようにして、その手を自分の膝の上へ導いた。
手の重さと大きさ、長い指先の節張った硬さ。
そのすべてに、今までどれだけ救われてきたかを思い知らされる。
耳の奥に、過去の声がよみがえった。
『この手は、君が望むとき、いつでも掴めるように空けてあるんだ』
そう言われた時、言葉に言い表せない想いが溢れた。
感謝と敬意、そして慈しみの気持ちが高まり、胸が温かくなる。
葵はふっと微笑んだ。
(今は安らかに、おやすみなさい……)
彼女の肩に沈む重みは、次第に深い眠りの気配を帯びていった。
蔵馬の長い睫毛がかすかに震えたのち、動かなくなり、彼女の胸の優しさにしばらく眠った。
世界はとても静かで、優しかった。
カーテンの隙間から差し込む太陽の光が、床に柔らかい影をつくる。
その一条が伸びて、蔵馬の足を温めたとき、彼ははっと目を覚ました。
どれだけぶりに、1時間にも満たないながらも深い睡眠をとった。
彼は小さく息を吐き、光に目を細めた。
隣の葵は、彼の気配に気づき、ゆっくりと瞳を開けた。
深く透き通る色は、つややかに光をたくさん映し出して、彼を見つめた。
「おはよう、蔵馬」
目線の高さはほぼ同じ。
時が止まったように、間近で見つめあう。
ずっと体を支えてくれていた彼女に、蔵馬は胸が熱くなった。
言葉を交わさなくても、伝わる想いがそこにあった。
寄りかかっていた体を少し起こすと、自分の右手に彼女の手が重なっていることに気づいた。
嬉しさと切なさが胸に入り混じり、今度は彼が葵の手を取る。
ゆるやかに引き寄せ、口元へ運ぶ。
ひと呼吸分の沈黙ののち、手の甲に静かな口づけを落とした。
そして彼女の手の甲に告げる。
「葵……。ありがとう」
吐息とともに紡がれた言葉に、葵は微笑んだ。
彼女の存在のおかげで、心の大事な部分を充填できる。
人間の自分も、妖怪の自分も、どんな自分も受け入れられて、赦されているようだった。
「人の重みを感じるのは、心地よいわね」
「……うん」
短い返事の奥に、幾重もの想いが滲む。葵はただ、その温度を受け止める。
(あなたが背負っているものが、少しでも和らげばいい……。ほんの一時でも)
優しい無音の世界。
その中で、二人は寄り添い互いを慈しみあっていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
蔵馬が魔界から戻り、人間界での日常を取り戻してから、数週間が過ぎた。
夏が過ぎ、乾いた風が秋の気配を感じさせる。
人間界の空気は、無意識に心の隙間にするりと入り込んでくる。
そこはかとない違和感のようなものが、彼の胸を時折きしませていた。
葵は、近ごろの蔵馬にいつもと違う気配を感じていた。
南野秀一として人間社会に適応しているのは変わらないのだが、ふとした拍子にその輪郭が揺らぎ、鋭利な妖気がスパーク上に変化することがあった。
蔵馬自身もそれに気づいているようだ。
人間と妖狐の狭間で、何かが拮抗している気配が漏れ出ていた。
葵は敢えて言葉にしなかった。この聡明な男に無用な問いは必要ない。
ただ黙って見守り、淡々とやりとりを重ねる。
その方が互いの心に余白を残せると知っていたから。
しかし蔵馬の内側では、制御しきれぬ何かが蠢き始めていた。自らの妖怪の血に翻弄される危うさをやり過ごしていた。
(今、彼女に会ったら、オレは何をするか……)
だからこそ、会う回数を意図的に減らしていた。言葉も、視線も、必要最低限に。
そんなある日、起こるべくしてことは起こった。
避けようとすればするほど、そのことを引き寄せてしまうのは、運命だった。
皮肉なほどに正確に、狙ったように『その夜』を用意していた。
葵はコエンマからの伝言を携え、彼のもとへ向かっていた。
人間界での時刻は21時。
幻想的で孤立したような満月の夜だった。
町の灯りから遠く離れたその道は、人の気配も妖の影もなく、ただ冷たい夜風が静かに漂っていた。
突然、葵は何かに足を取られた、いや巻き付いた何かに引っ張られた。
「…なに!?」
驚く間もなく、そのまま森の奥へと引きずり込まれる。足に絡みつくのは太いつる草で、ぞくりとする妖気が彼女の肌を撫でる。
冷たい。
鳥肌が立つのは、夜気のせいか、それともこの恐ろしいほどの妖気のせいか。
「オレを……探しているんだろう?」
水面に落ちる雫のように澄んだ声が、闇に響いた。
聞き覚えのある声に、葵ははっと身を起こした。
足元の蔦が意思を持つようにゆっくりと離れていく。
肌に絡んでいた感触が、奇妙に名残惜しく残る。
月明かりの下、音もなく歩み出たのは、銀白の髪をなびかせた妖狐。
白装束に包まれたしなやかな体躯。鋭く涼やかな妖気が、立ち込める。
その瞳は冷ややかな光を宿し、月そのものを映したかのように輝いていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
次回シーンは、目が離せない回かもしれません。
この終盤から次回シーンは、書いていても二人を思って切なくなりました。