「……蔵馬」
その潤いのある声は、彼の胸の奥をいろんな意味で震わせる。
しかし蔵馬は、その揺らぎを奥深くに押し込めた。
本能的に身の危険を感じると後ずさるように、葵も無意識で半歩下がった。
その一瞬の動きが、彼の狩猟本能に火をつけた。
求めていたわけではないのに、それでも引き金になったのは彼女だった。
「そういえば……手合わせが保留になっていたな」
蔵馬は、過去の記憶をなぞるように低く告げた。
それは、暗黒武術会の決勝戦前日に、予期せず邂逅したときのことをさしていた。
「せっかくの機会だ、相手をしてもらおう」
「っ!?」
声が終わると同時に、蔵馬の姿が霧のようにかき消えた。
直感だけを頼りに、葵は身をかわす。
頬にひやりと走る痛み。
樹霊妖斬剣の切っ先が葵の左頬をかすめ、細い傷を刻んだ。
血がわずかににじみ、数本の髪が宙を舞う。
蔵馬は気づいていた。 触れそうになった指先を、寸前で押しとどめた自分に。
あのまま触れていたら、別の感情があふれ出すことを、本能で知っていた。
(まだだ……。 今は、許さない……)
彼は冷たく吐息をこぼすと、再び姿を消した。
相手にならないのは百も承知。しかし彼女はひるまず、必死で彼の攻撃を受け止め続けた。
蔵馬はそのぎりぎりを見極め、避けきれるか否かの境界を突き続ける。
鋭さと優しさの狭間で揺れるように。
しばらく攻防が続き、葵の呼吸は荒くなり、汗が頬を伝った。
「どうした?まだ半刻も経っていないぞ」
気まぐれに、彼は涼しい顔で攻撃の手を止めた。
まるで狩人が、逃げ惑う獲物に余裕を見せるかのように。
月明かりの下、静まり返った森で二人は対峙する。
「……っ、はあ、はあ」
肩で息をしながらも、葵は蔵馬をまっすぐ見た。
月の光を背負った銀髪の妖狐と、汗に濡れながらも、一歩も引かぬ小さな花の妖怪。
静かな夜に、互いが互いを想い向き合っている。
どうして彼女は逃げないのだろうか。
なぜ恐れないのだろうか。
蔵馬の胸の奥で、答えの見えない疑問が静かに芽吹き、膨らんでいく。
それは、理性を備えた蔵馬にも、妖狐の本能にも、その理由は見出せなかった。
ただ、その問いが、内側に新たな衝動を育て始めているのを、確かに感じていた。
夜気に混じる草の香りを吸い込み、葵はふぅと息を吐いた。
その一呼吸で迷いを振り切るように、彼女は一歩踏み込み、拳を突き出す。
鋭さよりも真っ直ぐさが勝る一撃。
しかし届く前に、蔵馬は月影を滑るように身を翻した。
「……ふ。今の踏み込みは、なかなか良かったぞ」
低い声が夜に溶け、葵の耳をかすめる。
その音だけで、妖しく、荘厳で、場の空気を震わす。
息を切らしながらも、彼女は精一杯の意志を込めて見上げた。
視線の先には、月を背に静かに立つ蔵馬。
呼吸一つ乱さない涼やかな表情。
まとう妖気は鋭く研ぎ澄まされ、獣が牙を見せる直前の好戦的な気配を含んでいた。
彼に挑むには、あまりにも力の差が大きすぎた。
妖狐の蔵馬は、人間の姿の時よりも危うく、誰が見ても圧倒的だった。
それでも、葵は退かなかった。
幾度か距離を取り、必死に走り回る。
その瞬間、全身に冷たいものが絡みついた。
「くっ……!?」
足から肩まで、細いつる状の植物が巻きつき、彼女の体を近くの木へと強く縛りつける。
軋むような締めつけに、葵の顔がかすかに歪んだ。
葉が擦れる音が夜風に混じり、逃げ場のなさを告げる。
静寂を割ることなく、蔵馬が歩を進めてきた。
銀の髪が月光を受けて揺れ、歩みとともに影が長く伸びていく。
妖艶さと冷たい刃のような危うさを伴っていた。
二人の距離が縮まり、もう彼の吐息を感じられるほどになった。
「……ふ。なかなかいい眺めだな」
「……。」
声は静かだが、背筋をなぞる冷たさと熱さという矛盾を同時に感じさせる。
「さて……どう料理してくれよう」
「……料理も何も、あなたの勝ちよ」
葵のささやきに、蔵馬は口角をわずかにあげた。
囚われた彼女を、まるで希少な花を愛でるかのように眺める。
痛みに耐えながらも光を失わないその瞳は、儚くも美しい。
むしろこの状況が、彼の嗜虐心を静かに煽った。
「息が上がっているな」
「……運動不足だったみたいね」
意味を持つようで、持たないような言葉のやりとり。
その直後、風すら止んだかのように、音のない世界が支配する。
冴えた美しい表情で、蔵馬は眉一つ動かさず彼女を見つめていた。
その無表情の奥では、激情という熱が渦を巻いていた。
やがて、彼は無言のまま、つるを解き始めた。
絡みついていた植物がするすると解け、自由を取り戻した葵は、安堵のようにまばたきを繰り返す。
しかし次の瞬間、視界から蔵馬の姿が消えた。
(ちがう、近いっ)
「っ!?」
肩を掴まれると、そのまま地面に押し倒された。
目の前に迫る金色の瞳。そこに映るのは自分の姿。
蔵馬の匂い、体温、圧倒的な妖気、そのすべてが一気に押し寄せてきた。
もう、どこへも逃げられない。
蔵馬の眉がかすかにひそめられ、呼吸が喉の奥で途切れる。
ほんの一瞬の躊躇い。
けれど、その迷いはすぐに熱に飲み込まれ、二人の距離は零となった。
「蔵……んっ…」
蔵馬の口唇が、葵の口唇に重なった。
触れるだけではなく、感触を深く確かめて、奪うように侵食していく。
舌が絡まり、捕らえられたまま離れない。
葵の呼吸がどんどん奪われていく。彼の熱に包まれ、飲み込まれていく感覚。
腕は地面に押しつけられ、逃げ道を塞がれていた。
覆いかぶさる体から伝わる熱は、彼女の思い描いていた以上に高く、胸の内側の激情がそのまま流れ込むかのようだった。
蔵馬の中で、好きだから大切にしたいという想いと、好きなものを全て自分のものにしたいという想いが葛藤していた。
ただ今回は妖怪の性が強く出た。
「…っは…っ」
戦闘後のなけなしの体力の状態。その濃厚な口づけは、すぐに息が上がる。
密着する体の下で、葵の胸が空気を求めて上下するのを感じた。
しかし蔵馬は構わず、さらに深く息を奪い、熱を与えるように続けた。
葵の心に抵抗はなかった。
ただ戸惑いと、体が知らぬ感覚に痺れていく混乱。
抑えられた小さな腕は、蔵馬の手の跡が付きそうなほど、力強く捕らえられていた。
熱い舌が何度も絡むたびに、葵の体は自分のものでないように火照り、脳髄が痺れていく。
もう何も考えられない。
ただただ感じて、その熱を受け入れることしかできなくなっていた。
抵抗のない彼女を、泣かせてみたい。奪いつくしたい。
そんな衝動が、胸の奥でくすぶる。
激情の血潮が、蔵馬の心を熱で満たし、耳の奥でざわめきを立てた。
他の者に奪われる前に、その全てをこの手に閉じ込めたい。
それでも一線を超えないのは、一握りの人間としての理性が残っているからだった。
花のように柔らかい口唇だけでは足りない。
口移しだけでなく、もっと深く、もっと奥で葵が欲しい。
口づけを繰り返すたびに、その欲は溺れるように強くなり、魔の血が叫んでいた。
満ち欠けを忘れたような繊細な満月が、二人を見守る。
その光は冷たくも優しく、繰り返される狂おしい逢瀬を淡く照らしていた。
「……葵」
蔵馬はわずかに上体を起こして、葵の顔を見下ろす。
恐れも、不安もない表情。
その恍惚の目はわずかに開かれていて、蔵馬をまっすぐ見上げていた。
吐息に濡れた瞳は、曇りなく彼の姿を映している。
鼻先が触れ合うほどの距離。
蔵馬の右手がその口唇を指先でなぞり、微かな震えを確かめる。
傷の残る左頬を撫でると、汗の雫が指に触れ、月明かりを受けて光った。
葵の花色の吐息が頬にかかる。
かぐわしい香りに似たそれは、甘美で鋭い刺激となり、彼の呼吸を一瞬途切れさせた。
その時、葵の頬に添えている蔵馬の手に、いつも以上に小さく見える手が、ゆっくりと重なる。指先は細かく震えていた。
どうして震えているのかなんて、聞かなくてもわかる。
葵の潤んだ双眸の中に映る月の光が、妖狐の自分が、揺れていた。
(……オレは、何をしているんだ…)
少し冷静になって、我が身を振り返る。
迷いから思わず体を引こうとしたとき、葵の腕がその動きを止めた。
「……っ」
蔵馬が息をのんだ。
柔らかくも確かな力で、彼女の腕が彼を抱き寄せる。
豊かな銀髪が葵の頬を覆い、温もりと香りが彼女の胸に落ちた。
(ここに、いて…)
言葉にされずとも、その願いが伝わる。
細い腕が首に回され、葵の妖気が蔵馬の胸の奥へと沁み渡っていく。
どれくらいそうしていたか、わからない。
時間という概念が無くなるほど、長くてそれでいて一瞬のように感じた。
彼女の作った温かい沈黙は、囁くような声によって破られた。
「……蔵馬。私は、ここにいる。今のあなたも、どんなあなたも、受け入れるわ」
それは責めるでも、驚くでもなく。ただ静かに包み込むような囁き。
その言葉は彼の奥底に届き、心を開く鍵のように作用した。
夜空と一体となるような声は、しなやかで強い芯があり、優しかった。
その瞬間、蔵馬の抱える過去と現在が一つに繋がり、この生涯を丸ごと受け止められているように感じた。
彼は、自分自身に、何かに赦されていくような深い感覚が胸に広がった。
それは、言葉にするには到底及ばないものだった。
「お前は……いつも、変わらないな」
満月に静かに響く声。
今度は蔵馬が葵を抱きしめた。
壊すような激しさではなく、護るように、静かに。
彼女の柔らかい香りと温かい肌に、高揚していた熱い血潮が中和されていく。
気づけば、南野秀一の姿になっていた。
細い肩に顔を埋めるようにしながら、胸の奥で言葉にならない感情が波打つ。
(……オレは、本当に葵を想っているんだな…)
彼女は、どんなときでも、彼を拒んだことはなかった。
何をしても、一度はすべてを受け入れてくれる。母のように、無条件に。
(母のよう……か)
今やっと理解した。
葵は、母親のように自分を包んでくれていたのだと。
(それに対して、オレは……壊すように相対したんだな…)
全てを受け入れてくれる葵に、無意識で甘えていたのかもしれない。
彼女なら許してくれると、受け止めてくれると。
わかっていながら、確かめるように試していた。
それでも葵は、変わらなかった。
胸に残るのは、悔恨と、安堵という矛盾した感情だった。
顔を少し上げて、葵を見つめた。
蔵馬の薄く開いた深い瞳が、わずかに揺れる。
目の前の星を宿したような瞳に、今宵の満月と人間の自分の姿が宿る。
「……葵。ごめん」
口元がかすかに震える。
そう告げる声には、切なくどうしようもない想いがにじんでいた。
「……謝らないで。私は、あなたの心に抱えているものに、寄り添いたいって自分で決めたの」
この振る舞いに対して、葵が彼を責める様子がどこにも見つからない。
むしろ柔らかに差し伸べられる手のように、蔵馬の胸の奥を包み込む。
だからこそ、胸の深いところが締め付けられる。
愛しているから切ない。
大切だからこそ狂おしい。
それでも、離れられなくて、寄り添いながら共に生きたい。
彼女の柔らかい愛が、凍りついた心の奥へ静かに沈み込み、ただ抱きしめるように存在していた。
そうして、切ない月夜がゆっくりと流れていった。
最近AI画像がうまく生成できず、苦労しております。
細かく見ると、文章と差がある画像の場合もありますが、ご容赦ください。
11章の一番の山場のシーン。蔵馬がなけなしの理性でどうにか踏みとどまったと言いますか、妖狐と人間の狭間で揺れる愛の感情を体験して、彼も成長していると思います。
今後も二人を見守っていただければ嬉しいです。
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