アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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1章と2章の間のお話しです。


1.5章 冬隣の萌芽

夕暮れが夜に移り変わる頃。

蔵馬の部屋のカーテンが、ふわりと内側へ揺れた。

その隙間から、葵が顔をのぞかせる。

 

「こんばんわ」

 

蔵馬は机から顔を上げ、いつもの調子で口元を緩めた。

 

「やあ、調達ご苦労――」

 

言いかけて、言葉がしばらく止まる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「……葵。どこに行ってきたんだ?」

 

彼女の頭には、乾いた落ち葉や細い枝、白い蜘蛛の巣がいくつも絡んでいた。

本人はまるで気づいていない様子で、軽やかに部屋へ降り立つ。

スニーカーを脱ぐことは、忘れない。

 

「古い屋敷の掃除を手伝ってきたのよ。何百年も手付かずだったみたい」

 

そう言っている途中で、首を傾げる。

 

「……蔵馬?どうしたの?不思議そうな顔をしているわ」

 

大らかな声に、蔵馬は思わず小さく笑った。

彼女が動くたびに、頭から葉がひとつ、またひとつと床に落ちていく。

 

「ほら。これで自分の頭を見てみて」

 

鏡を差し出すと、葵は受け取り、ようやく自分の頭の状態に気づいた。

 

「あら……ずいぶんと賑やかね」

 

困る様子はなく、どこか楽しそうだ。

蔵馬は肩をすくめる。

 

「君は本当に……」

 

言葉を選びかけて、発するのをやめた。

 

「これを使うといい」

 

家庭的な匂いがするタオルを葵は受け取った。手触りが柔らかい。

鏡に自分の頭を映しながら、髪を拭く。

蜘蛛の巣は取れたが、枝や葉は居心地よさそうに残っている。

 

(やはり、そこは苦手か)

 

「後ろの方は、手伝おう」

 

自然にそう言って、蔵馬は彼女の背後へ回った。

指先で、絡まった枝を一つずつ外していく。

細く柔らかな髪に触れるたび、かすかな温度と香りが伝わる。

 

(本当に、無防備だな……)

 

背後に回られるのも、髪を触れられるのも、彼女は何とも感じていない。

蔵馬はそう判断しながらも、手を止める理由は見つからなかった。

この距離、この時間が、妙に長く感じられる。

 

 

「もしかして、取りにくいかしら?」

 

突然の問いかけとほぼ同時に、彼女は髪を結っていた紫の紐に指をかけた。

蔵馬が止める隙間もなく、するりとほどける。

象牙色の髪が、音もなく肩に落ちた。

窓から差し込む淡い光を受けて、毛先はほのかに桃色を帯びる。

 

「初めから、こうすればよかったわね」

 

鏡の中の彼女と、直接目の前にいる彼女が重なる。

蔵馬は一瞬、言葉を選び損ねた。

 

「……うん。そうだね」

 

それだけ答え、視線を落とす。

印象が変わった、という言葉では足りない。

何かが増えたというより、今まで見えていなかった輪郭が、ふと現れた――そんな感覚だった。

 

今日は、どうも調子が定まらない。

そう結論づけて、彼はその理由を深追いしないことにした。

葵は相変わらず、自分のペースを乱す。

それを悪いとも、良いとも、まだ決めかねている。

 

その思考の合間で、蔵馬は絡まっていた枯れ葉を、指先で一枚ずつ外していく。

葉脈の乾いた感触のあとに、彼女の髪が触れた。

 

――柔らかい。

観察が言語になる前に、指が動いていた。

絹糸のように細く、瑞々しく、けれどどこか儚い。

彼は、無意識に目を細めていた。

 

「……君は」

 

自分の声で、我に返る。

 

「もう少し、自分を大事にしたほうがいい」

 

冗談めかした調子を選んだつもりだった。だが、声の奥に混じったものに、自分で気づく。

 

(……今のは)

 

意図は、まだ整理できない。言葉だけが先に出た。

葵はゆっくり振り返った。少し不思議そうに、微笑んだ。

 

「蔵馬は、こんな小さなことも、気にかけてくれるのね」

 

純粋なその表情に、蔵馬は胸の奥で小さく息を吐く。

枯れ葉を取るふりをして、指先を髪に絡めたまま、ほんの一瞬止める。

確かめるように。

 

(……何をしている)

 

そう思ったはずなのに、やめようという判断も、続けようという決意も、どちらも浮かばなかった。

 

「……はい、きれいになったよ」

 

指を離し、いつも通りの距離に戻る。

 

「ありがとう」

 

その言葉に、蔵馬はふっと息を吐いた。

葵も振り返り、花が咲くような微笑みを贈った。

 

理由のいらない沈黙。

冬へ向かう夜の気配が、部屋に静かに満ちていく。

 

(……なぜだろう)

 

答えは探さない。でも問いは生まれる。

 

(君といると、少しだけ……時間が緩む)

 

蔵馬はその感覚を、ただ記憶の底に沈めた。

 

 

数日後。

母が病気で倒れ、彼の世界は、再び容赦なく動き出すことになる。

 

 

 

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 

おまけ♢

 

春の午後。

蔵馬が高校に入学して間もない頃のことだ。

大通りを歩く彼の耳が、背後の軽い足音を拾う。

 

「南野君」

 

人間には届きにくい、小さな声。

振り返ると、葵が小走りで近づいてきていた。

 

「やぁ。久しぶり」

 

「ちょっと、かくまって」

 

言い終わる前に、彼女は蔵馬の背に身を寄せる。

以前より背丈の伸びた彼の体は、彼女を隠すのに十分だった。

 

ほどなくして、同年代の男子生徒が二人、走り去っていく。

 

「……もう行ったよ」

 

「助かったわ」

 

彼の背後から、そっと顔を出して辺りを確認する。

改めて、葵は彼の前に立った。

 

「また、道でも聞いたのか?」

 

「向こうから突然声をかけてきて、ちょっと話が長かったからお断りしたの」

 

「なるほどね」

 

数カ月ぶりの彼女からは、わずかな妖気が感じられた。

体が、少しずつ安定してきている。

そして花のような新鮮な香りは、変わらない。懐かしく、穏やかだ。

 

 

ふと、蔵馬の視線が彼女のリュックに留まる。

 

「リュック、そろそろ買い替えたほうがいいかもしれない」

 

以前、鬼に襲われた際に空いた穴。それは、確実に、広がっていた。

開いた穴から落ちたボールペンを拾い、差し出す。

 

「今持ち合わせがないから、今度にするわ」

 

受け取る際、葵の視線がしばらく彼の顔に留まった。

 

純粋で、深い瞳。

そこに映る自分を、蔵馬は意識してしまう。

彼女は、自分の何に興味を持ったのだろう。

 

「……どうしたんだ?」

 

「髪、伸ばすの?」

 

いつの間にか、彼の髪は肩に届くほどになっていた。

 

「……まあね」

 

返事を聞いて、葵はふわっと笑った。

 

「きっと、似合うわ」

 

評価でも、計略でもない。ただ、そう感じたから言った言葉。

蔵馬は、一瞬だけ言葉を失い、それからわずかに口元を緩めた。

 

今はこれで十分だ。

 

 





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