夕暮れが夜に移り変わる頃。
蔵馬の部屋のカーテンが、ふわりと内側へ揺れた。
その隙間から、葵が顔をのぞかせる。
「こんばんわ」
蔵馬は机から顔を上げ、いつもの調子で口元を緩めた。
「やあ、調達ご苦労――」
言いかけて、言葉がしばらく止まる。
「……葵。どこに行ってきたんだ?」
彼女の頭には、乾いた落ち葉や細い枝、白い蜘蛛の巣がいくつも絡んでいた。
本人はまるで気づいていない様子で、軽やかに部屋へ降り立つ。
スニーカーを脱ぐことは、忘れない。
「古い屋敷の掃除を手伝ってきたのよ。何百年も手付かずだったみたい」
そう言っている途中で、首を傾げる。
「……蔵馬?どうしたの?不思議そうな顔をしているわ」
大らかな声に、蔵馬は思わず小さく笑った。
彼女が動くたびに、頭から葉がひとつ、またひとつと床に落ちていく。
「ほら。これで自分の頭を見てみて」
鏡を差し出すと、葵は受け取り、ようやく自分の頭の状態に気づいた。
「あら……ずいぶんと賑やかね」
困る様子はなく、どこか楽しそうだ。
蔵馬は肩をすくめる。
「君は本当に……」
言葉を選びかけて、発するのをやめた。
「これを使うといい」
家庭的な匂いがするタオルを葵は受け取った。手触りが柔らかい。
鏡に自分の頭を映しながら、髪を拭く。
蜘蛛の巣は取れたが、枝や葉は居心地よさそうに残っている。
(やはり、そこは苦手か)
「後ろの方は、手伝おう」
自然にそう言って、蔵馬は彼女の背後へ回った。
指先で、絡まった枝を一つずつ外していく。
細く柔らかな髪に触れるたび、かすかな温度と香りが伝わる。
(本当に、無防備だな……)
背後に回られるのも、髪を触れられるのも、彼女は何とも感じていない。
蔵馬はそう判断しながらも、手を止める理由は見つからなかった。
この距離、この時間が、妙に長く感じられる。
「もしかして、取りにくいかしら?」
突然の問いかけとほぼ同時に、彼女は髪を結っていた紫の紐に指をかけた。
蔵馬が止める隙間もなく、するりとほどける。
象牙色の髪が、音もなく肩に落ちた。
窓から差し込む淡い光を受けて、毛先はほのかに桃色を帯びる。
「初めから、こうすればよかったわね」
鏡の中の彼女と、直接目の前にいる彼女が重なる。
蔵馬は一瞬、言葉を選び損ねた。
「……うん。そうだね」
それだけ答え、視線を落とす。
印象が変わった、という言葉では足りない。
何かが増えたというより、今まで見えていなかった輪郭が、ふと現れた――そんな感覚だった。
今日は、どうも調子が定まらない。
そう結論づけて、彼はその理由を深追いしないことにした。
葵は相変わらず、自分のペースを乱す。
それを悪いとも、良いとも、まだ決めかねている。
その思考の合間で、蔵馬は絡まっていた枯れ葉を、指先で一枚ずつ外していく。
葉脈の乾いた感触のあとに、彼女の髪が触れた。
――柔らかい。
観察が言語になる前に、指が動いていた。
絹糸のように細く、瑞々しく、けれどどこか儚い。
彼は、無意識に目を細めていた。
「……君は」
自分の声で、我に返る。
「もう少し、自分を大事にしたほうがいい」
冗談めかした調子を選んだつもりだった。だが、声の奥に混じったものに、自分で気づく。
(……今のは)
意図は、まだ整理できない。言葉だけが先に出た。
葵はゆっくり振り返った。少し不思議そうに、微笑んだ。
「蔵馬は、こんな小さなことも、気にかけてくれるのね」
純粋なその表情に、蔵馬は胸の奥で小さく息を吐く。
枯れ葉を取るふりをして、指先を髪に絡めたまま、ほんの一瞬止める。
確かめるように。
(……何をしている)
そう思ったはずなのに、やめようという判断も、続けようという決意も、どちらも浮かばなかった。
「……はい、きれいになったよ」
指を離し、いつも通りの距離に戻る。
「ありがとう」
その言葉に、蔵馬はふっと息を吐いた。
葵も振り返り、花が咲くような微笑みを贈った。
理由のいらない沈黙。
冬へ向かう夜の気配が、部屋に静かに満ちていく。
(……なぜだろう)
答えは探さない。でも問いは生まれる。
(君といると、少しだけ……時間が緩む)
蔵馬はその感覚を、ただ記憶の底に沈めた。
数日後。
母が病気で倒れ、彼の世界は、再び容赦なく動き出すことになる。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
おまけ♢
春の午後。
蔵馬が高校に入学して間もない頃のことだ。
大通りを歩く彼の耳が、背後の軽い足音を拾う。
「南野君」
人間には届きにくい、小さな声。
振り返ると、葵が小走りで近づいてきていた。
「やぁ。久しぶり」
「ちょっと、かくまって」
言い終わる前に、彼女は蔵馬の背に身を寄せる。
以前より背丈の伸びた彼の体は、彼女を隠すのに十分だった。
ほどなくして、同年代の男子生徒が二人、走り去っていく。
「……もう行ったよ」
「助かったわ」
彼の背後から、そっと顔を出して辺りを確認する。
改めて、葵は彼の前に立った。
「また、道でも聞いたのか?」
「向こうから突然声をかけてきて、ちょっと話が長かったからお断りしたの」
「なるほどね」
数カ月ぶりの彼女からは、わずかな妖気が感じられた。
体が、少しずつ安定してきている。
そして花のような新鮮な香りは、変わらない。懐かしく、穏やかだ。
ふと、蔵馬の視線が彼女のリュックに留まる。
「リュック、そろそろ買い替えたほうがいいかもしれない」
以前、鬼に襲われた際に空いた穴。それは、確実に、広がっていた。
開いた穴から落ちたボールペンを拾い、差し出す。
「今持ち合わせがないから、今度にするわ」
受け取る際、葵の視線がしばらく彼の顔に留まった。
純粋で、深い瞳。
そこに映る自分を、蔵馬は意識してしまう。
彼女は、自分の何に興味を持ったのだろう。
「……どうしたんだ?」
「髪、伸ばすの?」
いつの間にか、彼の髪は肩に届くほどになっていた。
「……まあね」
返事を聞いて、葵はふわっと笑った。
「きっと、似合うわ」
評価でも、計略でもない。ただ、そう感じたから言った言葉。
蔵馬は、一瞬だけ言葉を失い、それからわずかに口元を緩めた。
今はこれで十分だ。