10月初旬の澄んだ秋の空気の中。
休日を過ごしていた蔵馬のところに、控えめな気配と共に葵が訪ねてきた。
窓を開けて招くと、涼やかで乾いた風が吹き込み、安息の優しい彼女の香りと交じり合って広がる。
あの満月の夜、妖狐に戻っていた自分と対峙して以来、ようやく訪れた再会だった。
彼女の態度は、何一つ変わらなかった。
あの夜の出来事さえも、優しく包み込んでいるかのようだった。
いつものように窓から入って彼に近づくと、その花唇は柔らかく「蔵馬」と呼ぶ。
ただそれだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……葵」
その艶のある繊細な声と、深い眼差しで、蔵馬は彼女を抱きしめるように歓迎した。
ふと、葵の花色の髪に、小さな青い竹の葉が挟まっているのが目に留まった。
いつぞやの光景を思い出し、心の中でふっと思い出し笑いをする。
蔵馬は彼女の髪にゆっくりと手を伸ばす。
指ですくい、葉を摘み取る。しっとりとした髪の感触の中に、かさりと乾いた葉の質感が混じっていた。
「……もしかして、行ってきたのか?」
「ええ」
葵は迷いなく頷く。
「清々しい気分で、気を補充するのに良い場所なの」
どこと言わなくても伝わる。以前に彼女と戦闘訓練をした竹林だった。
葵を通して、1年前の出来事が脳裏のよみがえる。
あの頃と比べると、随分といろんなことが変わった。
彼自身も、そして彼女との関係も。
「あなたが案内してくれた竹林は、まだ生きているわ。花はもう咲いていないけど」
「……そうか」
短い言葉の奥に、深い余韻が漂った。
その思い出が、1年前の自分が、今の蔵馬の背中を押した。
彼は胸にずっと秘めていたことを打ち明けた。
「葵。少し話があるんだ」
呼吸を整え、彼はまっすぐに彼女を見つめる。
「オレが前から考えていることで、君の意見を聞きたい」
「なにかしら?」
「……もしもの時に備えて、君に護身用の植物の種を宿したいんだ」
その言葉は、秋の空気の冷徹さを一層際立たせるように響いた。
『もしもの時』、それは、葵が何者かに襲われ命の危険にさらされる未来のこと。
正聖神党に襲撃を受けた際に使った植物は、一時的に防御するものだった。
その発動は、あくまで蔵馬が行っていた。
しかし今回は、宿した植物が、自らの意志で相手に攻撃するものが最善だと彼は考えていた。
黄泉、あるいはその部下が、彼女に手を伸ばした時のために。
「君の性格を考えると、自分から発動を意識したり、攻撃を決断するのは難しいだろう」
蔵馬は一呼吸置き、慎重に言葉を選ぶ。
「だから、自動発動型にしたい。葵の体へのリスクはあるけれど、確実性も高い」
沈黙が落ちた。
彼は静かに彼女を見つめた。
葵は何も言わない。いつもと同じ柔らかい表情で、彼の話を受け止めていた。
「……ここまで聞いて、君が感じたことを教えてくれ。もちろん断ってもいい」
一瞬だけ瞳を伏せた後、彼女はまっすぐ蔵馬を見つめ返した。
室内の明るさを集めて、その深い双眸が煌めく。
「蔵馬の見立てでは、私が襲われる可能性はどれくらいあるの?」
「……五分五分だ」
コインを投げた時に、表と裏が出る確率。
それは高いとも低いともとれる可能性だ。
「植物を宿さなかったとして、もし私が襲われた場合はどうなるのかしら?」
その問いは澄んでいて、揺るがなかった。
想像もしたくない未来を、彼女は恐れを伴わず見据えている。
蔵馬は瞼を伏せ、短く息を吐いた。
そして、冷静に、客観的に答えを告げる。
「……仮にそうだとしたら、君は五体満足では済まない。命ギリギリのところで生かされ、奴らの手の中で、洗脳や拷問などを受け……オレのために利用され続けることになるだろう」
昔よりもかなり慎重になった黄泉に、その可能性は低い。
しかしその部下の鯱が絡むとなると、蔵馬を追放するために、卑劣な手段で葵を利用する可能性が高い。
護身用の植物を宿したとしても、100%彼女を守り切れるという保証などない。
それでも、今の自分にできる最善を尽くしたい。
その想いを込め、彼は言葉を締めくくった。
「私の存在が、あなたの弱みになるのは望まないわ」
柔らかい口調と静かな声音の中に、恐怖や不安は含まれていなかった。
葵は、今感じたことを素直に言葉に表した。
「……そうか」
「いつから考えていたの?」
「5月に、正聖神党との一件があってからだ」
「……ずっと、胸の内で1人で考えてくれていたのね」
葵の口元が柔らかく綻ぶ。
「今日、あなたからそれを聞けて嬉しかったわ」
その微笑みに、蔵馬の瞳が、切なげに細まる。
(君は、本当にオレを受け止めてくれるんだな……)
自分のわがままを、言葉を変えて伝えているだけなのに。
次に彼女が告げる言葉は、容易に想像がつく。
「……あなたの考えに、賛同するわ」
その一言に、胸の痛みよりも冷徹な理性が立ち上がる。
護るために、やらなければならない。
今回、彼が準備したのは『ハナクグツ』。
キク科の一種で、鮮やかなオレンジ色の小花をたくさん咲かせる。
しかしその可憐な見た目とは裏腹に、花の中心から筋弛緩作用をもつ神経毒を宿した種を放つ。
防衛本能が極めて強い、魔界の植物だ。
宿主の命が危機的状況になった時、自らが攻撃されたと認識して、防衛本能を発揮して一気に開花し、相手を攻撃する。
それまでは、宿主の中で静かに眠っている。
ただ、ひとたび目覚めると宿主の肉体を乗っ取る。
そのため、発動したら3日以内に蔵馬のもとへ戻り、枯死させて排出する必要がある。
「ハナクグツを寄生させて、君の体内である程度成長させるんだが、その間、身体的ダメージがある」
「それに耐えればいいのね」
葵の声音は淡々としていた。
「……ああ。拒絶反応のような症状が出る。30分ほどで治まるが、痛みや侵食されていく不快感が伴う」
「わかったわ」
蔵馬は手のひらを開く。そこには、黒く細長い種が一つ。
光を吸い込んだような艶を帯び、冷たい気配を放っている。
葵は数秒それを見つめ、小さく頷いた。
その仕草が、開始の合図だった。
「ハナクグツは脊椎に巣食う。今から君の背中に種を蒔く」
葵は頷くと、静かに襟元に手をかけ緩める。
震えることもなく、上着を脱ごうとしていた彼女の手を、蔵馬は制した。
深い瞳同士が出逢い、しばらく言葉にならない会話が流れる。
次の瞬間、彼は葵を抱き寄せた。
細い体を腕に包み込みながら、服越しに背中を指先でなぞる。
その指先はわずかに冷たく、触れていると葵の温度に溶けていく。
緩んだ襟首から、背中に蔵馬の右手がそっと忍び込む。
葵は身じろぎ一つせず、彼に任せていた。
なめらかな背の曲線をたどり、傷跡に触れたとき、一瞬彼の指の動きが止まった。
無意識に息をのむ。
胸の奥に、例えようのない感情が浮上する。
(……本当に、これでいいのか…)
ほんの一瞬、迷いが彼の動きを鈍らせた。
だが、腕の中で無言で自身を明け渡す葵の静けさを見て、蔵馬は覚悟を決めた。
指先にそっと力を込め、脊椎に種を植えた。
その行為に、痛みや不快感はない。
服の中から手を抜きとると、今度は服越しに彼よりも小さな背中に触れた。
そして抑揚のない低い声で囁いた。
「……始めるよ」
細い首が小さく縦に動いた。
妖気が流し込まれた瞬間、葵の体がびくりと反応する。
瞬間的に急激な痛みが出現して、体の内側を何かが這いずりまわる。
「……っ」
小さく声が漏れる。息苦しさに、彼女の顔が少しゆがむ。
何とも言えないぞわりとした不快感に、葵は足の力が抜けそうなのを必死にこらえた。
蔵馬はそれを察知して、腰を支えた。
全身が灼熱感を帯びる。葵は自分の胸元を強く掴む。
体内が沸騰しそうな息苦しさと、皮膚の下を何かが突き破るように、鋭い痛みが疼く。
それでも彼女はこらえていた。
自分の腕の中で、叫びを押し殺し、喉の奥で声を噛み砕いているのが伝わってくる。
その強さを誇りに思う一方で、彼女をこうさせている自分に、どうしようもない憤りを感じていた。
蔵馬は葵の苦痛を受け止めようと、腕に強く抱く。
耳元で、途切れ途切れの呼吸が荒く熱を帯びている。
細い肩が痙攣するたび、服越しに伝わる震えが指先まで伝わる。
南野秀一として人間界で生きた経験が、胸をよりきつく締め付ける。
この心の痛みは、彼女が霊界で瀕死の重傷を負ったときに感じたものを超える。
これほどにも、葵を苦しめてまで護ろうとする自分は、果たして正しいのか。
自問自答を繰り返していると、葵の口唇から小さな悲鳴が漏れた。
「…っ……立って、いられないっ」
「我慢しなくていいっ」
瞬間、葵の足から完全に力が抜けた。
蔵馬は咄嗟に片膝を床につき、崩れ落ちる体を腕の中で受け止める。
細い身体は、信じられないほど軽いのに、彼の胸にのしかかる重みは耐え難いほど深かった。
「…っぅ…っは……はぁ……」
どれくらいそうしていただろう。
葵は荒い呼吸の合間に、少しずつ体内の異物感が鎮まっていくのを感じ取った。
額に滲む汗が首筋を伝い落ち、冷たさと共に、どうにか峠を越えたことを知らせる。
蔵馬はその顔を覗き込む。
頬は蒼白に染まり、口唇は血の気を失っていた。
半ば閉じた瞳の奥にかすかな光が宿るが、それすら今にも途絶えそうで。
髪が冷や汗に張りつき、白い首筋に影を落としていた。
ハナクグツによる侵襲の大きさを物語っている。
「……葵。大丈夫か?」
低く抑えた声が空気を振るわせる。
「…ええ……。だいぶ……落ちつ、っ……」
声を発していた葵は、口元を抑えた。
突然血の気が引いたと思うと、次の瞬間、糸が切れたように意識を手放す。
「葵!」
真っ白な顔で気絶した彼女を、蔵馬はその場で横にした。
脈は浅く、血圧が急に落ちたのだと直感する。軽いショック状態だった。
(やはり、葵の体には負担が強かったか……)
すぐに彼女の腹部に手を置くと、蔵馬は自分の妖気を流し込んだ。