「蔵馬。遅くなってごめんなさい」
静寂の中、葵の声が空気を震わせた瞬間、蔵馬の胸に張り詰めていた何かがほどけていった。
彼は無言で歩み寄り、そっと、一切のためらいなく、両腕で彼女を抱きしめた。
細い背を、頭の後ろを、胸の奥にぐっと引き寄せる。
幻じゃないことを確かめるように。
温かく、柔らかく、どこか懐かしい香りがふっと鼻をかすめる。
そのすべてが、彼の深くにある「帰る場所」への渇望を静かに満たしていった。
「……戻ってきてくれて、よかった…」
彼の声には、安堵と、言葉にできないほどの想いが詰まっていた。
抱きしめた腕の熱から、蔵馬の感情がゆっくりと溶け出して、彼女の体に伝わる。
これほど自分を想っていてくれたことに、胸がいっぱいになる。
静かに心をくすぐる涼やかな匂いに、心が安らいでいく。
葵は彼の背中に手を伸ばした。
(この人の所に、戻って来ることができて、良かった……)
彼に触れることで、自分もまた「帰る場所」へ戻ってきたのだと、全身が告げていた。
「……怪我は?」
少し間を置いて尋ねる。
たった三文字に、抑えきれない心配が淡く色づく。
「治癒してから戻ってきたから、大丈夫よ」
蔵馬の胸に響く葵の声。穏やかで、芯が強くて、柔らかい。
その声音に反応して、心臓の音が鳴りやまない。心の奥が静かに震えていた。
「……そうか」
まぶたを伏せ、わずかに吐息を洩らす。
やがて葵は、魔界で自分を襲った刺客のことを静かに語り始めた。
相手の素性は分からないが、丁寧に火災まで起こして、混乱に乗じて彼女を襲ったところを考えると、十中八九、黄泉の国の者に違いない。
そんな中で、葵は命を保ち、今こうして彼の前に立っている。
これも彼女の強運と、彼の防御策の賜物だった。
蔵馬の瞳は、感情を表に出さぬまま、ただ深い底から彼女を見つめていた。
その沈黙の中に、怒りや憂い、そして安堵のすべてが混じり合ってにじむ。
「本当に……怪我だけで、他は何ともないんだな?」
問いかけは低く、切実さを帯びていた。
視線を一切反らすことなく、澄んだ双眸が、温かく彼を受け止めた。
「ええ。ハナクグツが守ってくれたわ。……蔵馬、ありがとう」
深い感謝と信頼が伝わる。
蔵馬はふっと息を吐くと、ようやく口唇の端に微笑みを刻んだ。
「それなら、良かった……。時間が迫っている。早速、ハナクグツを君の体から取り出そう」
落ち着いた声で告げると、蔵馬は片手を差し出し、背を向けるよう促した。
葵は小さく頷き、長い髪をふわりと払いのけて、素直に彼の意図に従う。
蔵馬は、小さな背に手を当てた。
服越しに伝わる体温と、穏やかな妖気が、手のひらを満たしていく。
指先には、鼓動の微かな震えまでも感じられた。
「宿す時のような痛みや不快感はないから、心配しなくていい。10分ほど、オレの妖気を君の体に流して終わる」
「わかったわ」
冷静に、蔵馬は指先から妖気を送り込んでいく。
彼女の体に流れ込む妖気をたどりながら、水脈を探るように、魔界植物を見つけ出すはずだった。
しばらくして、葵の背中の向こうから小さな息の乱れが聞こえた。
「………ハナクグツが、いない?」
「え?」
葵が小さく振り返ろうとする。
その動きを制するように、蔵馬は肩に軽く手を添えた。
「いや……。正確に言うと、わずかに気配はする。だが、オレの妖気で操ることができないんだ」
彼は形の良い眉を軽く寄せた。
今まで直面したことのない事態に、彼は急速に頭脳を働かせて、あらゆる可能性を分析していった。
(……一体、どういうことだ?)
蔵馬の妖気は、葵の体内を循環するだけでハナクグツに到達しない。
届いていても、そこにはもう「寄生」という概念が存在していなかった。
彼女の体内に馴染み、静かに眠っている。
(葵の特異体質なら……あり得るのか?)
一つの見解にたどり着いたとき、葵が振り向き、無邪気な瞳で言葉を投げた。
「もしかして、私が花の妖怪だから、居心地が良かったのかしら?」
「オレの妖気は君と相性がいい。それも作用して、ハナクグツは君の体に馴染んでいるようだ。同化というよりも、君の体の一部になっているから、吸収に近い」
「あなたの能力って、すごいのね」
葵の素直な感嘆に、蔵馬は微かに目を伏せた。
「……いや、オレの力だけじゃない」
(A級妖怪を倒すほどの獰猛な植物を、その体に取り込んだというのか……)
葵の体には、まだまだ未知数の可能性がありそうだ。
ただの花の妖怪というには、収まりきらない何かがある。
そのことを、理屈ではなく彼の直感が告げていた。
改めて彼女を正面から見つめ直し、蔵馬はあることに気が付いた。
「……葵、少し強くなってる?」
「…え?」
「体は、なんともないのか?」
「……ええ。特に自覚するものはないわ」
言葉を交わしながら、蔵馬は彼女の全身を注意深く観察した。
透明化することはなく、身体的負荷の兆しはない。
変化があるとすれば、葵の体から発する妖力値が増えていた。
「これは、また命の危機に直面したときに、ハナクグツが発動するのかしら?」
「……わからない。ただ、吸収が完全に成立すれば、君の意志で発動させることができるかもしれない」
(本当に……君は、オレの予想を大きく超えてくる…)
葵を見つめたまま、口唇の端に小さな笑みが浮かんだ。
その眼差しは、諦めにも似た甘やかさを帯びている。
「かなわないよ……葵には」
自分の心配をものともせず、この人は強くしなやかに、ただそこにある。
その身に起こった出来事が、大したことでなかったかのように。
彼の深い想いに応えるように、葵はふわっと花笑む顔を彼に贈った。
雲間からのぞく三日月の夜が、静かに更けていく。
蔵馬は片手で彼女の腰を引き寄せた。
指先が葵の頬の高いところをゆっくり撫でる。
徐々に滑り降りるように、肌のぬくもりを確かめながら、ゆっくりと触れる。
指はやがてその軌跡を変え、目元へと向かっていった。
目の下のラインをなぞると、柔らかい瞼を真綿で触れるようになぞった。
花色の髪と同じ色のまつ毛は艶やかで、彼の指の刺激でひらりと瞬きを繰り返す。
やがて、葵の瞼が閉じた。
「葵……閉じないで。目を開けて」
蔵馬の繊細で艶のある声には、優しさと切ない願いが込められていた。
葵は言われたように瞳を開いた。
その瞬間に、空が光を集めるように、彼女の瞳が輝き始める。
深い宝石の奥から光るように、7色にゆらめいていた。
蔵馬は思わず息をのんだ。
(……夜空に虹がかかるみたいだ)
盗賊時代に、数えきれないほどの秘宝を見てきた。
しかし彼は、この瞳の輝きに勝るものを、かつて見たことがなかった。
蔵馬は、葵の瞳の輝きと、そこに映り込む自分の姿を見ていた。
それは、彼女の光に溶け込んで、かき消されていくかのように淡く揺らぎ、今夜の月の光にさらわれてしまいそうだった。
胸の奥が、不意に締めつけられる。
深く息を吸おうとするのに、夜気は細くしか喉を通らない。
(……なぜだ)
その問いさえ、声にはならず霧散した。
蔵馬の指先が、迷うように動く。
花色の髪に触れ、さらりとした感触をすくい上げて、葵の耳の後ろへ払った。
ほんの些細な仕草でさえ、心臓が一瞬遅れて打ち、痛みに似た響きを残していく。
彼女は、そんな彼の変化を知らぬまま、ただ静かに視線を贈る。
その眼差しに吸い込まれ、蔵馬は言葉を持たぬまま深みに沈んでいく。
言葉は見つからなかった。
見つければ、崩れてしまうと直感していた。
だから蔵馬は、微笑みの形を口元にだけ宿らせた。
それ以上を見せまいとするかのように。
しかし、わずかな影がその笑みに差した。
奪われていく心の奥に、抗いきれぬ熱が潜んでいる。
その熱を、葵はまだ知らない。
沈黙を破ったのは、葵だった。
「瞼に触りたいのかと思って」
小さな囁きに、蔵馬は視線を揺らした。
彼女の瞳の奥には、夜空に散る星よりも澄んだ光があった。
「……君の目は、この世にひとつしかない光が宿っている。例える言葉が見つからないほど…美しいよ」
「そうなの?」
小さく首をかしげる彼女の表情は、あどけなさと神秘を同時に含んでいる。
「……うん。ずっと見ていたいくらいだ」
「私から見える光景と同じかもしれないわ」
「?」
葵はふっと微笑んだ。そして蔵馬の胸元へと手を伸ばした。
触れた手のひらから、生きる証が伝わる。
鼓動の振動が柔らかい、彼の音。
「目を開けた瞬間、奥深い目が私の前にある。その人は、慈愛に満ちた表情でこちらを包容するように見ているの。その姿は、気高く美しくて……。言葉で言い表せない程の輝きを放っているわ」
「……。」
夜風が、彼女の髪を揺らし、かすかに花の香りを運んでくる。
蔵馬は答えを返せなかった。
体の中心が、抑えきれぬ喜びに震えている。
その声、その言葉が、心の奥の最も脆い場所を温めていた。
彼の長い指が、葵の顎にそっと添えられた。
淡く光る月明かりに照らされ、白い肌がやわらかく光る。
「……葵には、本当にかなわないよ」
その囁きは夜の空気に溶けていく。
この人の存在そのものが、唯一無二の光で、美しい。
全てが愛おしい、などという言葉では到底足りない。
そして蔵馬は、その口唇を、ゆっくりと優しい口唇で抱きしめた。
花弁に触れるように。
彼女の心の奥に、深い想いを届けるように。
一方その頃。
命からがら逃げ戻った刺客は、鯱のもとで息を荒げ、必死に報告していた。
「……あの女は……植物を自在に操っていました……!」
その言葉に、鯱と部下の間で憶測のざわめきが広がる。
水面を揺らす波紋のように、静かに、確実に、緊張と脅威をはらんで。
その一部始終を盗み聞きした黄泉は、わずかに眉を動かした。
瞼の裏に宿ったのは、抑えきれぬ好奇心。
葵という名の存在に、彼はますます深い興味を抱いていた。
12章からは毎週水曜日更新となります。
よりマイペースになりますが、続けていこうと思っています。
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