アカシヤー蔵馬に咲いた花ー   作:hazeleye

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11章は流血、暴力シーンが一部あります。大丈夫な方はお進みください。



第62話

 

【挿絵表示】

 

 

「蔵馬。遅くなってごめんなさい」

 

静寂の中、葵の声が空気を震わせた瞬間、蔵馬の胸に張り詰めていた何かがほどけていった。

彼は無言で歩み寄り、そっと、一切のためらいなく、両腕で彼女を抱きしめた。

 

細い背を、頭の後ろを、胸の奥にぐっと引き寄せる。

幻じゃないことを確かめるように。

温かく、柔らかく、どこか懐かしい香りがふっと鼻をかすめる。

そのすべてが、彼の深くにある「帰る場所」への渇望を静かに満たしていった。

 

「……戻ってきてくれて、よかった…」

 

彼の声には、安堵と、言葉にできないほどの想いが詰まっていた。

 

抱きしめた腕の熱から、蔵馬の感情がゆっくりと溶け出して、彼女の体に伝わる。

これほど自分を想っていてくれたことに、胸がいっぱいになる。

静かに心をくすぐる涼やかな匂いに、心が安らいでいく。

葵は彼の背中に手を伸ばした。

 

(この人の所に、戻って来ることができて、良かった……)

 

彼に触れることで、自分もまた「帰る場所」へ戻ってきたのだと、全身が告げていた。

 

 

「……怪我は?」

 

少し間を置いて尋ねる。

たった三文字に、抑えきれない心配が淡く色づく。

 

「治癒してから戻ってきたから、大丈夫よ」

 

蔵馬の胸に響く葵の声。穏やかで、芯が強くて、柔らかい。

その声音に反応して、心臓の音が鳴りやまない。心の奥が静かに震えていた。

 

「……そうか」

 

まぶたを伏せ、わずかに吐息を洩らす。

 

やがて葵は、魔界で自分を襲った刺客のことを静かに語り始めた。

相手の素性は分からないが、丁寧に火災まで起こして、混乱に乗じて彼女を襲ったところを考えると、十中八九、黄泉の国の者に違いない。

 

そんな中で、葵は命を保ち、今こうして彼の前に立っている。

これも彼女の強運と、彼の防御策の賜物だった。

 

蔵馬の瞳は、感情を表に出さぬまま、ただ深い底から彼女を見つめていた。

その沈黙の中に、怒りや憂い、そして安堵のすべてが混じり合ってにじむ。

 

「本当に……怪我だけで、他は何ともないんだな?」

 

問いかけは低く、切実さを帯びていた。

視線を一切反らすことなく、澄んだ双眸が、温かく彼を受け止めた。

 

「ええ。ハナクグツが守ってくれたわ。……蔵馬、ありがとう」

 

深い感謝と信頼が伝わる。

蔵馬はふっと息を吐くと、ようやく口唇の端に微笑みを刻んだ。

 

 

「それなら、良かった……。時間が迫っている。早速、ハナクグツを君の体から取り出そう」

 

落ち着いた声で告げると、蔵馬は片手を差し出し、背を向けるよう促した。

葵は小さく頷き、長い髪をふわりと払いのけて、素直に彼の意図に従う。

 

蔵馬は、小さな背に手を当てた。

服越しに伝わる体温と、穏やかな妖気が、手のひらを満たしていく。

指先には、鼓動の微かな震えまでも感じられた。

 

「宿す時のような痛みや不快感はないから、心配しなくていい。10分ほど、オレの妖気を君の体に流して終わる」

 

「わかったわ」

 

冷静に、蔵馬は指先から妖気を送り込んでいく。

彼女の体に流れ込む妖気をたどりながら、水脈を探るように、魔界植物を見つけ出すはずだった。

 

しばらくして、葵の背中の向こうから小さな息の乱れが聞こえた。

 

「………ハナクグツが、いない?」

 

「え?」

 

葵が小さく振り返ろうとする。

その動きを制するように、蔵馬は肩に軽く手を添えた。

 

「いや……。正確に言うと、わずかに気配はする。だが、オレの妖気で操ることができないんだ」

 

彼は形の良い眉を軽く寄せた。

今まで直面したことのない事態に、彼は急速に頭脳を働かせて、あらゆる可能性を分析していった。

 

(……一体、どういうことだ?)

 

蔵馬の妖気は、葵の体内を循環するだけでハナクグツに到達しない。

届いていても、そこにはもう「寄生」という概念が存在していなかった。

彼女の体内に馴染み、静かに眠っている。

 

(葵の特異体質なら……あり得るのか?)

 

一つの見解にたどり着いたとき、葵が振り向き、無邪気な瞳で言葉を投げた。

 

「もしかして、私が花の妖怪だから、居心地が良かったのかしら?」

 

「オレの妖気は君と相性がいい。それも作用して、ハナクグツは君の体に馴染んでいるようだ。同化というよりも、君の体の一部になっているから、吸収に近い」

 

「あなたの能力って、すごいのね」

 

葵の素直な感嘆に、蔵馬は微かに目を伏せた。

 

「……いや、オレの力だけじゃない」

 

(A級妖怪を倒すほどの獰猛な植物を、その体に取り込んだというのか……)

 

葵の体には、まだまだ未知数の可能性がありそうだ。

ただの花の妖怪というには、収まりきらない何かがある。

そのことを、理屈ではなく彼の直感が告げていた。

 

改めて彼女を正面から見つめ直し、蔵馬はあることに気が付いた。

 

「……葵、少し強くなってる?」

 

「…え?」

 

「体は、なんともないのか?」

 

「……ええ。特に自覚するものはないわ」

 

言葉を交わしながら、蔵馬は彼女の全身を注意深く観察した。

透明化することはなく、身体的負荷の兆しはない。

変化があるとすれば、葵の体から発する妖力値が増えていた。

 

「これは、また命の危機に直面したときに、ハナクグツが発動するのかしら?」

 

「……わからない。ただ、吸収が完全に成立すれば、君の意志で発動させることができるかもしれない」

 

(本当に……君は、オレの予想を大きく超えてくる…)

 

葵を見つめたまま、口唇の端に小さな笑みが浮かんだ。

その眼差しは、諦めにも似た甘やかさを帯びている。

 

「かなわないよ……葵には」

 

自分の心配をものともせず、この人は強くしなやかに、ただそこにある。

その身に起こった出来事が、大したことでなかったかのように。

 

彼の深い想いに応えるように、葵はふわっと花笑む顔を彼に贈った。

 

 

 

雲間からのぞく三日月の夜が、静かに更けていく。

 

蔵馬は片手で彼女の腰を引き寄せた。

指先が葵の頬の高いところをゆっくり撫でる。

徐々に滑り降りるように、肌のぬくもりを確かめながら、ゆっくりと触れる。

 

指はやがてその軌跡を変え、目元へと向かっていった。

目の下のラインをなぞると、柔らかい瞼を真綿で触れるようになぞった。

花色の髪と同じ色のまつ毛は艶やかで、彼の指の刺激でひらりと瞬きを繰り返す。

 

やがて、葵の瞼が閉じた。

 

「葵……閉じないで。目を開けて」

 

蔵馬の繊細で艶のある声には、優しさと切ない願いが込められていた。

 

葵は言われたように瞳を開いた。

その瞬間に、空が光を集めるように、彼女の瞳が輝き始める。

深い宝石の奥から光るように、7色にゆらめいていた。

 

蔵馬は思わず息をのんだ。

 

(……夜空に虹がかかるみたいだ)

 

盗賊時代に、数えきれないほどの秘宝を見てきた。

しかし彼は、この瞳の輝きに勝るものを、かつて見たことがなかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

蔵馬は、葵の瞳の輝きと、そこに映り込む自分の姿を見ていた。

それは、彼女の光に溶け込んで、かき消されていくかのように淡く揺らぎ、今夜の月の光にさらわれてしまいそうだった。

 

胸の奥が、不意に締めつけられる。

深く息を吸おうとするのに、夜気は細くしか喉を通らない。

 

(……なぜだ)

 

その問いさえ、声にはならず霧散した。

蔵馬の指先が、迷うように動く。

花色の髪に触れ、さらりとした感触をすくい上げて、葵の耳の後ろへ払った。

ほんの些細な仕草でさえ、心臓が一瞬遅れて打ち、痛みに似た響きを残していく。

 

彼女は、そんな彼の変化を知らぬまま、ただ静かに視線を贈る。

その眼差しに吸い込まれ、蔵馬は言葉を持たぬまま深みに沈んでいく。

 

言葉は見つからなかった。

見つければ、崩れてしまうと直感していた。

 

だから蔵馬は、微笑みの形を口元にだけ宿らせた。

それ以上を見せまいとするかのように。

しかし、わずかな影がその笑みに差した。

 

奪われていく心の奥に、抗いきれぬ熱が潜んでいる。

その熱を、葵はまだ知らない。

沈黙を破ったのは、葵だった。

 

「瞼に触りたいのかと思って」

 

小さな囁きに、蔵馬は視線を揺らした。

彼女の瞳の奥には、夜空に散る星よりも澄んだ光があった。

 

「……君の目は、この世にひとつしかない光が宿っている。例える言葉が見つからないほど…美しいよ」

 

「そうなの?」

 

小さく首をかしげる彼女の表情は、あどけなさと神秘を同時に含んでいる。

 

「……うん。ずっと見ていたいくらいだ」

 

「私から見える光景と同じかもしれないわ」

 

「?」

 

葵はふっと微笑んだ。そして蔵馬の胸元へと手を伸ばした。

触れた手のひらから、生きる証が伝わる。

鼓動の振動が柔らかい、彼の音。

 

「目を開けた瞬間、奥深い目が私の前にある。その人は、慈愛に満ちた表情でこちらを包容するように見ているの。その姿は、気高く美しくて……。言葉で言い表せない程の輝きを放っているわ」

 

「……。」

 

夜風が、彼女の髪を揺らし、かすかに花の香りを運んでくる。

 

蔵馬は答えを返せなかった。

体の中心が、抑えきれぬ喜びに震えている。

その声、その言葉が、心の奥の最も脆い場所を温めていた。

 

彼の長い指が、葵の顎にそっと添えられた。

淡く光る月明かりに照らされ、白い肌がやわらかく光る。

 

「……葵には、本当にかなわないよ」

 

その囁きは夜の空気に溶けていく。

この人の存在そのものが、唯一無二の光で、美しい。

全てが愛おしい、などという言葉では到底足りない。

 

 

そして蔵馬は、その口唇を、ゆっくりと優しい口唇で抱きしめた。

花弁に触れるように。

彼女の心の奥に、深い想いを届けるように。

 

 

 

一方その頃。

命からがら逃げ戻った刺客は、鯱のもとで息を荒げ、必死に報告していた。

 

「……あの女は……植物を自在に操っていました……!」

 

その言葉に、鯱と部下の間で憶測のざわめきが広がる。

水面を揺らす波紋のように、静かに、確実に、緊張と脅威をはらんで。

 

その一部始終を盗み聞きした黄泉は、わずかに眉を動かした。

瞼の裏に宿ったのは、抑えきれぬ好奇心。

 

葵という名の存在に、彼はますます深い興味を抱いていた。

 




12章からは毎週水曜日更新となります。
よりマイペースになりますが、続けていこうと思っています。

応援よろしくお願いします。
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